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15

 季節はもうすっかり冬になっていたが、コナーの日常はさほど変わらなかった。朝、ベッドか浴槽のどちらかで目覚める。簡単に朝食を済ませて支度をし、ナマエに行ってきますのキスをする。そのせいで顔や服がいつも濡れてしまい、外に出ると北風が一層冷たく感じられるが、署か現場に着く頃にはもうそれは乾いていた。
 担当した事件の捜査を進めている最中、時折ではあるが、コナーはハンクの視線を感じることがあった。そんな時、ハンクはコナーを訝しむような、そして何かを待つような表情を浮かべているのだった。「どうかしましたか」とコナーが尋ねても、ハンクは黙って首を横に振るだけだった。
 昼食を誰かと食べるのも悪くないと、コナーは思いつつあった。それまではハンク以外の人間と積極的に関わろうとしていなかったコナーだが、最近では同僚とランチを楽しむことも多くなってきていた。変わったな、とコナーはよく言われるようになり、彼自身もそれを否定しなかった。
 署から家へ帰るまでの道すがら、いつもコナーはナマエへ贈るものを探した。なにか目新しいものはないかと店先を眺めながら歩くのは楽しかったが、大抵の場合、コナーは花束を買って帰った。彼女が一番喜ぶものだからだ。
 帰宅して、夕食とお喋りをナマエと共に楽しむのがコナーのいつものパターンだった。同僚たちがいくら夕食に誘ってきても、彼がそのパターンを崩すことは絶対になかった。
 そして、毎晩のようにコナーはナマエを求めた。夕食と会話の時間が終わると、触れ合いの時間が始まった。コナーが服を脱いで浴槽に入り、ナマエを抱く。彼が言葉にできない程の愛を伝えてくるのをナマエは喜んで受け入れ、自身もそれを返した。
 翌日が非番の時は、コナーは恋人を腕に抱いたまま、浴槽の中で目を閉じるのだった。
 

 だがその日は違った。枕元に置かれた携帯端末のアラームが鳴り響く音で目覚めたコナーは、身体の節々が異様に痛むのを感じた。しかし、もう起きなければ、と自分に言い聞かせてベッドから無理矢理立ち上がる。その途端、ひどい吐き気が彼を襲った。
 水を飲めば多分、良くなるだろう。頭のどこかでは、そんなことはないと分かりつつも、コナーはキッチンへと向かった。身体が重く、一歩踏み出す度に頭が割れるように痛んだ。
 蛇口に写った自分の顔は、奇妙に歪んで見えた……いや違う。視界の全てが歪んでいた。コナーはぐらりと傾き、そのまま体勢を立て直すこともできずに床へ倒れ込んだ。空のグラスが手を離れ、床を転がっていった。同時に、遠くで水音が響いたのが聞こえた。

 額と首筋になにか冷たくて心地の良いものが触れるのが分かった。コナーは混濁した意識がはっきりすると共に、それがナマエの手であり、彼女が懸命に彼の身体を冷やそうとしているのだということを知った。
「ナマエ……」
 彼がざらついた声で彼女の名を呼べば、彼女は慌てた様子でコナーの顔を覗き込んだ。その頬に幾筋も涙が伝っているのを見て、コナーは申し訳なくなった。彼は腕を上げてナマエを慰めたかったが、思うように身体が動かなかった。
「浴室に、戻らないと……」
 コナーはナマエの尾びれへ視線を向けた。割れるような頭痛に襲われるため、少ししか頭を動かせなかったが、それでも、ここまで這ってきたらしい彼女の尾びれが傷付いているのが見て取れた。ナマエは激しく首を横に振って、嫌だという気持ちを露わにした。
「だが……」
 話すのも辛くなってきたコナーは、荒く浅い息を繰り返した。それで彼の気持ちが伝わったのか、ナマエが離れて行く。よかった、と自分のことを全く顧みずに、コナーはそんなことを思った。
 しかし数分後にナマエは戻ってきた。床を這う音が浴室へ向かわなかったように感じられたのは、熱からくる幻聴などではなかったらしい。言うことを聞いてくれないナマエへ僅かな怒りを覚えたコナーだったが、耳になにか平たいものを押し当てられ、我に返った。
 のんびりとしたハンクの声がそれ、つまりナマエの持ってきた携帯端末から響く。
「なんだ、コナー。俺は今家を出たとこだ。急かしてもいそがねえからな、絶対」
「ハンク……」
 喉から振り絞った声で呼びかけると、察しの良い彼の相棒はそのいつもとは異なる雰囲気にすぐ気が付いた。
「おい、やばい声だぞ。今どこにいる」
「家に……多分、熱で……その、悪いんですが」
「今から行くから、大人しく寝とけよ」
 コナーの言葉を遮ってそう言い、ハンクは携帯を切った。コナーはなぜか泣きたくなった。ナマエとハンクの存在がひたすらにありがたかった。
 再びナマエがコナーの額と首筋をその手で冷やし始めた。コナーは目を閉じたまま彼女を説得しようと試みる。
「ナマエ、君は尾びれが……」
 ナマエがまた首を振ったらしいのが、手を介して伝わる振動で分かった。彼女はこういう時、困るくらい強情だ、とコナーは思い、それが分かる程ナマエと共に過ごしているのだということを改めて感じる。病のせいで弱気になっているのか、コナーはまた泣きたくなった。

 数分経ち、再び携帯端末が鳴る。ナマエがそれを操作して、コナーの耳元へ持ってきた。
「お前の家の窓を割ってもいいか?」
「え、ま、待って下さい。ポストの蓋の裏に、合鍵が」
「……そうかよ」
 この声に、若干残念そうな響きがあるのは気のせいだと願いたい、とコナーは思った。まさか、随分前に彼の家の窓を割ったことを根に持っているはずが……そもそもあれは非常時だったし……などと彼が考えているうちに、解錠音に続いて、ドアの開く音が聞こえた。そして、キッチンでコナーと共にいる“存在”を見つけたハンクが、短く息を呑む音も。
 

 確かに、そう、ハンクはコナーを疑っていた。だがこうして実際に目撃してみると、それは意外な衝撃をハンクへ与えた。彼は驚きもしたが、同時に場違いな感動を覚えていた。人魚がコナーの胸元に頭を預け、声もなく泣いていた。彼が死んだら私も死ぬと、その人魚は身体全体で訴えていた。その光景は息を呑むほど美しかった。

 ハンクの沈黙を誤解したコナーが、状況を弁解しようと口を開こうとする。だが胸を打つ感動から瞬時に立ち直ったハンクはそれを許さなかった。
「黙っとけ。このことについては後でゆっくり聞かせてもらう。お前が治ったらな」
 元より話す体力など残っていなかったコナーはその言葉に大人しく従った。そしてハンクは途中で寄った薬局で買ってきた解熱剤をコナーへ飲ませた。その間中、ナマエはハンクの動きを不安そうな顔で眺めては、気遣わしげにコナーへ触れるのだった。
「ナマエ」
 と額へ冷たい手を乗せられたコナーは目を開けてナマエを呼び、数度咳き込んでから言葉を続けた。
「僕は大丈夫だ。君は水へ戻らないと」
 そしてコナーは視線を動かし、声を絞り出してハンクへ頼み込む。
「ハンク、すみませんが、彼女を浴槽へ連れて行ってもらえませんか」
「俺は構わないが……」
 言葉を濁すハンクの前では、ナマエがコナーへ縋り付き嫌だと訴えていた。コナーは腕をゆっくりと動かし、ナマエの手を額から外す。
「ナマエ、お願いだから」
 数秒の間の後、冷たい唇が頬に押し当てられ、コナーはナマエが承諾したことを知った。コナーは頷きを返した。
「さあ……」
 その促しの言葉と共に、ナマエはハンクを見上げた。ハンクは屈み込みナマエを抱き上げようとし、そのチタンとプラスチックの複合物の意外な重さに、横抱きにするのは諦めた。
 
 浴室を覗き込んだハンクはまたしても衝撃に襲われた。浴室はあの無機質な他の部屋からは微塵も想像できないほど、美しく飾り立てられ、様々な色に満ちていた。まるで祭壇のようだ、とハンクはナマエを浴槽へ入れてやりながら思った。この人魚の恋人を崇めるためにコナーが作り出した祭壇。それか、楽園のようにも感じられた。花に彩られた二人のためだけの楽園。実際そこには色とりどりの花束が溢れており、それらを見たハンクは、あいつは恋人に貢ぐタイプなんだなどと思ったりもした。
 水で活気を取り戻したらしいナマエが浴槽の中から身を乗り出し、手を伸ばしてハンクの腕を掴む。触れられたところがじわりと濡れ、その冷たさにハンクは身を震わせた。見つめる彼の目前で、ナマエは浴室の外を何度も指さす。その意図が、ハンクにはいまいち掴み難かった。あそこに戻せと彼女は訴えているのだろうかと彼は首を捻るが、ナマエは指をさすのを止めない。ハンクは困惑した。
「あー……お嬢さん、ほら、中に戻って。コナーは大丈夫だ、俺が面倒を看るから。水に入って――あいつには睡眠が必要だ」
 優しく諭すようにそう言えばナマエはしぶしぶ、といった様子で再び水へ身体を浸した。多分意図を読み違えたようだったが、ひとまず彼女が浴槽へ留まる気配を見せたので、ハンクは安堵してコナーの元へ戻った。そして彼がキッチンの床からベッドへ戻るのに肩を貸してやり、サイドテーブルに水の入ったボトルと薬を用意してやってから、仕事へ向かった。


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