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09

 結局、コナーはハンクの肩を借りて帰宅した。彼は一人で帰れると主張したものの、ハンクがそれを認めなかったのだ。
 思った通り殺風景な部屋の中をハンクは見渡した。ほとんどの家具に使った形跡すら見られない。天井の角に蜘蛛の巣が張っていることにこいつは気付いているのだろうか?あるいは、ドアの立て付けが悪いことを。たぶん、分かっているがどうでもいいんだろうな、こいつにとっては、とハンクは思う。いつもコナーはどこか地に足が付いていないような感じがした。まるでどこかへ跡も残さずに消えてしまいたいとでも願っているかのように。
 だがリビングのテーブルへ置かれたペットボトルの中へ花が一輪生けてあるのを見つけて、ハンクは驚き、しかし同時に納得もした。何も目を楽しませるもののない部屋の中で生き生きとその色彩を振りまいているそれは、おそらく噂の恋人がコナーへ贈ったものなのだろう、そして、コナーはそれを長持ちさせようと努力しているようだ。案外こいつは健気なやつなんだな、とハンクは少しばかりコナーへの評価を改めた。
 一方、そのコナーはなぜか身体を強ばらせ、耳を澄ませているようだった。そこに若干の警戒心を読み取って、ハンクは尋ねる。
「どうかしたか?」
「いえ、……なんでもありません」
 そう返すコナーの顔色は依然として悪かった。確かにあの新しい人魚が運び込まれる様子の消費主義的な側面のあまりの色濃さには、ハンクも嫌悪感を抱いた。だがこのコナーの反応は何だ。いやに過剰すぎないか、とハンクは思う。それを察したかのように、コナーは視線を彷徨わせ何かを言いかけたが、何も言わず、すぐにその口を噤んでしまった。
 コナーは浴室にいるナマエのことを心配していた。
 帰宅した音はするのに、自分が姿を見せないという状況は彼女を不安にさせているだろうとコナーは思った。いつものようにコナーが浴室へ来るのをナマエが待っている様子が目に浮かぶようだ。浴槽の縁に身体を預けて唇に微かな笑みを浮かべ、戸口へ視線を注いでいる彼女の姿が。だが時間が経つにつれてその口角は下がっていき、不安がそこに取って代わるだろう。きっとそわそわと水の中で尾びれを動かし、なぜコナーは来てくれないのかと自問自答を始めるのだろう。
 だが、音だけは立てないでくれと、コナーは願った。ナマエをハンクへ紹介するには、まだ早すぎる。心の準備ができていない。
「……とにかく、何か進展があったら連絡を入れてやるから、今日は大人しくしとけよ。いいな?」
 コナーが大人しく頷きを返すと、ハンクは安堵にも似たため息をこぼした。そんな相棒の姿にコナーは再び良心が痛むのを感じたが、口は閉ざしたままだった。

 そしてハンクは立ち去った。コナーは部屋の中に一脚しかない椅子へ深く腰掛け、目を閉じる。この椅子を使うのは久々のことだった。いつもは、帰宅するなり浴室のパイプ椅子へ座っていたものだから。
 浴室から水音が聞こえる。いつもと異なるリビングの様子に耳を澄まし、大人しくしていたらしいナマエがさすがに痺れを切らしたのだろう。その音はまるでコナーを呼んでいるかのようだった。
 だがコナーは、どんな顔をしてナマエに会えばいいのか分からなかった。彼は今すぐにでもナマエを抱きしめたかった。彼女から慰めを得たかった。だが、ナマエの顔を見てしまえば、先ほどの、“モノ”であった彼女たちを思い出さずにはいられないだろう。消費される存在、大量生産されたのであろうあまりにも安価な存在。
 数分後、コナーは浴室へ続く短い廊下に立っていた。浴室のドアは常に開け放たれている。コナーの足音を聞き取ったらしいナマエが音楽を流し始めた。サビの部分に『Come here』という言葉が混ざる歌詞で彼女が何を伝えたいのかは痛いほど分かる。彼女が不安を覚えているのも分かる。だが足がそれ以上前へ進もうとしない。彼は壁にもたれかかってしばらく目を閉じた後、口を開いた。
「すまない、しばらく独りになりたいんだ」
 それは自分でも驚くほど弱々しい声だった。コナーはそんな声をナマエに聞かせてしまったことを後悔した。これでは、彼女をますます心配させてしまうだろう。彼は彼女の反応を待った。音楽が止まった。水音もしない。辺りは全くの無音に包まれた。


 水中へ身を沈めたナマエは、コナーが寝室へ向かう足音を聞いていた。どうしたのだろう、とナマエは思った。彼があのハンクという人と一緒に帰って来たのは声で分かった。ようやくコナーが彼を紹介してくれるのかと楽しみに、しかしその友人を驚かせてはいけないと浴槽の中で行儀良く待っていたのに、結局ハンクは帰ってしまった。そしてコナーも浴室へ来てくれない。何があったのだろう、とナマエは不安が心の中に芽生えるのを感じた。コナーは体調が悪い?声の調子から推測した感じでは、多分そう。でもそれは浴室の手前まで来たのに中を覗いてすらいかない理由になる?それは多分いいえ。彼は私に会いたくない?多分そう、多分いいえ。
 ナマエは浴槽の縁に鎮座する黄色いアヒルを手に取ると、長々と鳴かせた。だが彼女は水の中でそれをしたので、アヒルの口から出たのは抗議の鳴き声ではなく、空気のあぶくだった。彼女はアヒルに問いかける。彼は私のこと嫌いになっちゃったのかな、と。アヒルは彼女の声で答える。もしかしたら、飽きてしまったのかもしれないね、と。
 あの店では、常連の男たちを飽きさせないよう、尾びれの色を変えるためだけに、性交渉用のパーツをよりユニークなものへアップグレードするための交換の手間を省くためだけに、人魚たちは捨てられていくのだと、スタッフたちが話しているのを聞いた覚えがある。その内の一人が、「じゃあ一匹ぐらい持って帰りたいよ」と冗談めかして言っていた。ナマエはしばらくの間その男を見ていたが、彼は最後までそれを実行することはなかった。
 手の中のアヒルが繰り返す。彼は私に飽きてしまったんだよ。きっと捨てるつもりなんだ。新しいのを買うんだよ。ナマエはアヒルを投げ捨てたくなったが、そうすれば自力では取りに行けなくなってしまうので、浴槽の縁の定位置へそっと戻した。
 

 現実から目を背けたい時、心を麻痺させてしまいたい時、コナーは仕事か睡眠に逃げた。彼にはその二つしかなかったからだ。時間の空白は彼に苦痛しか与えなかった。
 だが今回はそのどちらも彼を拒絶した。
 仕事が彼に牙を剥くのはこれが初めてだった。本来の彼は深入りすべきところと手を引くべきところを見極めることのできる男で、特別精神的に弱いわけでもなかった。だが今回はナマエの存在が彼を深みへと引きずり込んでいた。彼は人魚たちに感情移入してしまっていて、それらのことを直視できなくなっていた。
 そして睡眠も彼に安らぎを与えてはくれなかった。いつもは泥のような眠りと無のような暗闇を彼にもたらしてくれる筈の睡眠は、今日、彼に悪夢を与えた。あの日のように。
 コナーは飛び起きた。季節は秋に差し掛かっているというのに、背中が嫌な汗でべったりと濡れている。悪夢の余韻で、腕とうなじに鳥肌が立っている。昼食と夕食を抜いたせいか、空腹を通り越した胃がヒリヒリと痛む。
 覚えているのは漠然とした恐怖、そしてナマエが廃棄場にうち捨てられている光景。その下には沢山の、彼女と同じ顔をした人魚たちの死体が折り重なっていた。
 怖かった。ありえたかもしれない未来が怖かった。だがナマエ以外の人魚たちには確定している未来なのだと考えることが怖かった。ナマエ以前にいた人魚たちが破壊され、破棄され、粉々にされ、冷たいプラスチックの堆積物となって今も廃棄場の地面として存在しているのだという事実を認めることが怖かった。上半身を起こしたコナーは、ベッドの上で呻いた。彼は癒やしと慰めを求めた。

 浴槽の中で、ナマエは少し萎びた花束をその胸にかき抱くようにして、水底に沈んだまま目を閉じていた。それはまるで絵画の中のオフィーリアのようで、美しく、儚く、しかし同時に悲しげだった。コナーは跪き、両腕を彼女へ差し伸べるかのように水へ深く浸した。ナマエが目を開けた。
「ナマエ……」
 恐怖と苦しみに揺らぐ声で、コナーはナマエの名を呼んだ。コナーを慕うような柔らかな眼差しを湛えたナマエは、水中から彼を迎え入れた。その腕から解放された花たちが、彼女の起こした波に乗って水面に漂う。浴槽に引き入れられながらコナーは、このまま彼女が自分を沈めてくれはしないかと心の片隅で思った。彼は彼女に導かれるがまま、浴槽へ身体を浸した。服が水を吸って肌に貼り付く。水は冷たかった。ナマエの身体は温かく、コナーを優しく包み込んだ。コナーも水へ半ば沈み込むようにしてナマエの身体へ腕を回した。そして二人は狭い浴槽のなかで抱きしめあった。
 しかし唐突に、ナマエがその腕を解いた。コナーは目を瞑ったまま、もっとと訴えるかのように腕へ力を込めたが、ナマエはそれを嫌がった。彼女が離せと腕を叩いてくるので、コナーはしぶしぶ身体を離した。
 目を開けたコナーの前にあったのは、黄色いアヒルだった。それが怒るかのようにがあと鋭くひと鳴きする。それで、ああ、昼間の弁解をしていなかったな、とコナーは思い出した。
 ナマエが腕を上げて蛇口を捻った。温かなお湯が浴槽へ流れ込む。アンドロイドには必要のないその温かさは肯定だった。ここに――言わば、彼女のベッドに――留まってもいいという、ナマエからの。彼女はアヒルを下げ、コナーへ視線を移して、彼が話し始めるのを待った。彼女は話すことができないが、コナーに、あるいは二人に、必要なものが会話であることはよく分かっていた。
「仕事で、君がいたあの店に行ったんだ……」
 話し始めながら、再びコナーはナマエの身体を抱き寄せたが、彼女は大人しくその腕に納まった。そしてコナーを見上げ、力付けるかのように頷く。コナーは続けた。
「人魚たちを見た……。君と同じ顔をした人魚たちを。彼女たちが消費されていくのを、僕は止めることができない」
 ナマエが腕を上げてコナーの頬を拭ったので、彼は自分が泣いていることを知った。
「すまない……」
 その謝罪の言葉に、ナマエは首を横に振る。優しい否定の動き。違う、コナー、あなたのせいじゃない。彼女がこう返すことをコナーは知っていた。知っていて、それを求めた。コナーがナマエの肩口に顔を埋めると、ナマエはその背を慰めるかのようにゆっくりと撫でた。何度も、何度も。その手付きにはコナーが求めてやまない愛が込められていた。それを感じたコナーは、まるで身体の中心に火が灯ったような熱さを覚えた。そしてそれは彼の意思に反して、身体の生理的反応を引き起こした。コナーはほとんど無意識に、ナマエの尾びれを撫でる。それは魚のようにぬるついてはおらず、しかし並んだ鱗たちはつるつるとした独特の手触りをしていた。
 ナマエが手を止め、身体を離してコナーと視線を合わせる。したいの?とその瞳は言っていた。いいよ、とも言っていた。だがそこへ反射して写るコナー自身の瞳はこう問いかけていた。「それで何かが解決するのか?」と。
 一時的な快楽に身を任せても、何も解決しない。
 コナーは勝手にナマエの身体をまさぐろうとする自分の腕を水から出し、次いで身体を起こした。そのまま彼は浴槽から出て、足元に水たまりを作りながら、ナマエと向き直った。
 ナマエの瞳はまだ、いいよと歌っている。あなたのストレスをぶつけていいのよ、私を使ってもいいのよ、と。まさしくそれは水へ誘う人魚の歌で、彼は耳栓を持っておらず、マストに身体をくくりつけているわけでもなかったが、心ひとつでその誘惑を振り払った。
「慰めてくれてありがとう」
 誘惑の歌は止み、代わりに微笑みが返ってきた。だがそれはすぐに、大丈夫?という問いかけに塗りつぶされてしまったので、コナーは屈み込み、安心させるためにナマエへキスをした。

 コナーは今まで無償の愛というものを感じたことがなかった。彼の母親ですら、彼に愛情を与える時はその対価を求めた。完璧な息子になるという対価を。女たちもまた、彼に愛の言葉を、行動を、物を求めた。自分が彼を愛しているのだからという理由で。
 だが彼女は彼に何も求めなかった。彼女はただそこにいて、彼が来るのを待っていた。愛を餌にして彼を操ろうとしなかった。
 時には彼の贈るものや押しつける感情をはね除けることすらあったが、逆にその気負わなさが彼を開放した。相手に対して、何かするべきだ、何かしなければ、というプレッシャーから解き放たれた彼は、初めて他者を深く愛することができた。


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