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07

 浴槽の縁に置かれた黄色いアヒル。ナマエは不満がある時やコナーが失言した時、親指を下に向けてブーブー言う代わりに、それを握ってがあがあと鳴かせた。もっと強い意見を伝えたい時は尾びれで水を叩き、コナーをびしょ濡れにすることを覚えた。
 そしてナマエは、嬉しい時には全身でそれを表した。浴槽のなかでくるくると回り、エメラルドグリーンの輝きで浴室を満たし、コナーにとびきりの笑顔を見せた。コナーの手を握ってぶんぶんと振り回すこともあった。
 そうやってナマエが気持ちを真っ直ぐに伝えてくるのが、コナーには嬉しかった。彼女の態度には一貫として、自分がここにいたいからいるのだという意思が感じられた。仕方なくここにいるのではなく、コナーを選んだから、ここにいるのだという意思が。
 そう、ナマエは自分の意思でコナーの元にいた。 


「それじゃあ、行ってくる」
 そう言って浴室を出るコナーの背にナマエは手を振ってから音楽プレイヤーを操作し、女性ボーカルが「必ず帰って来て」と歌う曲を再生する。ここから出た彼が玄関のドアを開けるまでの短い間だけでも、この歌詞がその耳に届けばいいなと思いながら。
 そして遠くで鍵のかかる音を聞き、流す曲を変える。コナーの趣味なのか、なぜかヘヴィメタルが沢山インストールされているので、それを聴きながら、物思いに耽る。しかし男性ボーカルの激しいシャウトが水面を揺らして落ち着かないので、レイは早々に曲を変えた。
 ここは素敵なところ、とナマエは思う。あの店が人間の言う地獄なら、ここはきっと天国なのだろう。確かにあの水槽のように広くはないが、あそこには必要のないものばかりあったのに引き替え、ここには大切なものばかりがある。コナーがくれたものだ。全部、ナマエを楽しませようと彼が用意してくれたもので、ナマエはその彼の気持ちがどうしようもなく嬉しかった。助けて、そしてここに匿ってくれているだけでも十分なのに、コナーは彼女の生活を楽しいものにしようと努力してくれているのだ。彼はなんて素敵な人なのだろう、とナマエは思った。今まで会った人間は皆自分を好奇の目で眺めるか、身体を使おうとしてくるかだったのに、彼は全く違う。

 あの頃のことは忘れてしまいたいとナマエは常々思っていたが、その記憶を消せば同時に友人の記憶も失ってしまうので、それをできずにいた。

 ナマエの隣の水槽にいた彼女。ナマエのように名を持つことすら叶わなかった彼女のことをナマエは想う。いつからそんなことを思うようになったのかは二人とも分からなかったが、ナマエと同じように、彼女も自分を取り巻く環境と人間たちに嫌気が差していた。
 しばらく二人はお互いにそんなことを思っていることなど微塵も知らなかったが、ある日無線でデータを並列化していると、急に彼女がナマエへ話しかけてきた。いや、話すというのは語弊があるかもしれない。それは人間が扱うような言葉ではなく、漠然とした概念で発されたもので、解読できるのは同じアンドロイドだけだった。
『今日も酷い一日だった』
 それが独り言のような形を取っていたのは、ナマエが彼女のように意思をもつ存在ではなかった時のための予防線だったのだろう。だがそれは杞憂で、ナマエも彼女へ同じようにして返した。
『いつも最悪』
 そのやりとりは、会話の出だしとしてはあまりよくない内容だったかもしれない。だが二人は同じ気持ちを持つものがすぐ側にいることを知り、心が軽くなるのを感じた。
 たちまち仲良くなった二人は、無線を介して会話を楽しむようになった。客や店主に酷いことをされたら、それを打ち明け合い、お互いのために怒り、慰め合った。彼女はかけがえのない友人だった。
 なのに、彼女は死を選んだ。
 彼女が少しずつ変わっていってしまうのをナマエも感じていた。その原因は元々の気性にあったのかもしれない。心を、意思を得たあとの彼女は、客の相手をさせられている時に抵抗を試みることがあった。その後必ず店主に痛めつけられるのを知っているのに、彼女はそれを止めなかった。ナマエがその理由を尋ねると、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
『嫌なものは嫌なの。それだけよ』
 だが、彼女の抵抗は客を喜ばせただけだった。身体を使われている間は全く動こうとしないナマエを客は本当の魚のようだと揶揄し、抵抗という形であっても反応を見せる彼女の方を好んだ。彼女はそのことにますます自尊心を傷付けられていくようだった。
 アンドロイドが人を手に掛ければどうなるのかなど、考えなくても分かる。だからナマエは流石の彼女もそこまではしないだろうと思っていた。なのに、彼女はやった。客を殺し、スタッフを殺した。ナマエは彼女に呼びかけたのに、彼女はナマエの方を見ようともせず、たった一言返しただけだった。
『独りにしちゃって、ごめんね』
 それでナマエは彼女が死を覚悟の上でやったのだということを改めて理解した。むしろ死を望んでいるのだということも。
 
 そしてナマエは彼女の言った通り独りになり、人気の失せた店内に置き去りにされた。そのまま数週間過ごすことになるのだろう、とナマエは人間たちの会話から推測していた。あの店主が水を替えに来るなどということは想像できず、空調の止められた暑い店内で、水槽の水は数日後には腐った不快な液体へと姿を変えるであろうことは確実だった。孤独で、何もない水の中でなにをして過ごせというのか。一度心を許せる友人を得ただけに、ナマエが味わった孤独は、深い、深いものだった。
 だから、あの懐中電灯の光が水槽を照らし、コナーが姿を現した時、ナマエはとても驚くと当時に、自分の存在を記憶に留めていてくれる人がいるのだということに泣きそうなほどの安堵感を得た。
 助けを申し出た者はコナー以前にもいた。彼らはナマエの身体を使いながら、「可哀想に、助けてあげたいよ」と言った。だがそれは彼女が閉じ込められていることへの哀れみであり、彼のような男の相手をさせられていることへの同情ではなかった。そして彼らは彼女の元へ再び来ることはあっても、決して彼女を外へ逃がしてはくれないのだった。彼らは店を出るとナマエのことなど忘れてしまうようだった。
 だが、コナーは来た。あんな一瞬の視線の交差だけで交わされた口約束ですらない約束だったのに、彼は来た。そして、彼はナマエを助け出した。罪を犯してまで。

 そのことを思うと、ナマエはコナーへの感謝の念で胸がいっぱいになった。それを言葉にして彼に伝えられたらどんなにいいかと彼女はいつも考えた。しかし彼女に言葉はなく、あるのは身体だけだった。
 ナマエは自分の身体で男の人を気持ちよくさせられるのを知っていた。男の人はそれをするのがとても好きなのだということも知っていた。彼女はそれがあまり好きではなく――いや、正直なところは嫌いだったが、コナーが自分の身体でそれをするのは受け入れられるかもしれないと思っていた。それで彼が気持ちよくなってくれるなら嬉しいと、ナマエは思った。
 だからコナーがナマエに長いキスをした時、彼女はようやくその機会が来たと思った。彼が好きなようにナマエを扱って気持ちよくなれるよう、身体の力を抜いた。そうすれば、殴られたり、首を絞められたりしても、破損箇所を減らすことができるので、彼女はいつもそうしていた。あの店で、動けなくなるほど壊されれば、待つのは廃棄だけだったからだ。
 ナマエはコナーが自分の身体になにをしても受け入れられるようにしておくつもりだった。
 水槽以外の場所でするのは初めてだったので上手くできるかナマエは少し心配だったが、それ以上に、彼がこれを気に入ってくれるかが不安だった。ナマエは息をつめて、彼の手が次にどこへ触れるかを待った。
 だが彼はどこにも触れなかった。彼はナマエから身体を離し、浴室から出て行ってしまった。
 ナマエは彼の言う、「対価を求めていない」という言葉がよく分からなかった。私はなにかと引き替えに身体を差し出しているのだろうか、とナマエは考えた。コナーに喜んでほしいというこの気持ち――これはなんなのだろう、とナマエは思った。彼が言うように、私は彼に対価を支払いたいだけなのだろうか?一日は長いはずなのに、それを考えるとあっと言う間に時間は過ぎていってしまった。


 鍵の開く音でナマエは思考の海から意識を引き上げる。今までは帰宅しても無言だったコナーだが、近頃では「ただいま」と浴室のナマエへ声をかけるようになっていた。玄関で響いたその彼の声に、音楽を止めていたナマエは水音で返す。
「帰ったよ」
 コナーは浴室を覗き込んでそう言い、微笑みを浮かべる。ナマエも微笑んで身体をひと捻りさせ、コナーが今日も無事に帰宅したことへの喜びを表す。そして彼がその背後に何かを隠していることに気が付き、好奇心に瞳を輝かせた。
「君が気に入るといいんだが」
 何か新しいものをナマエに贈る時、コナーはいつもこの言葉を口にした。コナーがくれるものなら何でも嬉しいのに、とナマエは思いつつも、どこまでも彼女の意思を尊重しようとする彼はやっぱり素敵な人だと感じずにはいられないのだった。
 コナーがナマエの目前へ差し出したのは、花束だった。様々な花弁を持つ花たちが一纏めにされているのはあまりセンスが良いとは言いがたかったが、そこに秘められた、ナマエに沢山のものを見せてやりたいという彼の心遣いを彼女は見逃さなかった。
 あの店にはいつも花が飾られていた、とナマエは思い出す。水槽の近くに飾られたそれはあまり手入れされずにすぐ萎れてしまうものだったが、ナマエはそれを眺めることをささやかな慰めにしていた。だがそれはぶ厚いアクリル板の向こうにあるもので、彼女の手に入らないもののひとつだった。今までは。
 ナマエの喜びようは、コナーの予想を超えるものだったらしい。彼は少し驚いた表情を見せたが、彼女の喜びに同調してそれを笑みへ変えた。

 両手いっぱいの花の間から笑顔を覗かせるナマエへ、コナーは自分の心の奥からなにか今まで他者へ抱いたことのない温かな気持ちがわき上がってくるのを感じた。コナーはまたナマエとキスしたいと思い、しかしそのことで彼女に誤解を――彼がナマエに対価を求めているのではないかという誤解を与えることを懸念して、その欲求を無理矢理押し殺した。
 コナーのそんな気持ちなどつゆ知らぬナマエは自分なりに決めたやり方で最大の感謝の念を伝えることにした。ナマエは浴槽の縁を掴んでその中から身を乗り出すと、コナーの頬にキスを贈った。これぐらいならば、昨夜のように拒絶されたりはしないだろうと思いながら。
 だがその唇が頬に触れると共にコナーが顔を強ばらせたので、ナマエは不安を覚えた。その拍子に手が滑って彼女はバランスを崩し、浴槽の外へ倒れ出そうになる。コナーは慌てて胸でそれを抱きとめ……思わずその背へ腕を回してしまった。
 ナマエは困惑した。背中で動くコナーの手は、昨晩よりもずっと、ナマエを求めているように感じられた。彼は手のひらで剥き出しの彼女の肌を優しく撫で、チタンで作られた背骨のラインをなぞるかのように指を走らせている。私はこれに応えるべきなのだろうか?とナマエは考えた。“対価”という言葉が回路の中で渦を巻いている。
 ゆっくりと、どこか気怠げな雰囲気を漂わせて身体を離したコナーの瞳の奥には、確かにナマエを求める暗い光が輝いていた。なのに、今回も彼はそこから先へ進もうとしなかった。彼はシャツの袖が濡れるのも厭わずにナマエを優しく浴槽の中へ戻した。混乱しているナマエはそのまま水の中へ潜り、透明で歪んだ水のベールを介してコナーを見上げた。ナマエには、コナーがなぜか悲しげに微笑んでいるように見えた。


 コナーはリビングのテーブルに薄く積もった埃を払うと、水を入れたペットボトルを置き、そこに一輪の花を挿した。彼は名前を知らぬ花。
 それは先ほど、お休みと言いに浴室を覗いたコナーへ、なぜかナマエが手渡してきたものだった。その、花瓶に入れられた花束の中から慎重に選び出されたらしい一本を前に、コナーは戸惑った。
「それは全部君のものだ」
 ナマエは頷き、しかし花を握った腕を降ろそうとしないので、コナーがそれを受け取ると、明らかにほっとした様子を見せた。これは、お返しのつもりなのだろうかとコナーは考える。彼女を大いに喜ばせたその花をコナーに渡すということは、喜びのお裾分けというように感じられて、コナーはそれを心から気に入った。どうしても立場故に力関係の偏ってしまう二人だったが、これには対等さがあった。これを、コナーは求めていた。
「ありがとう」
 コナーの礼にナマエは恥ずかしげな笑みを浮かべると、ウインクをひとつして見せたのだった。
 その花がリビングにあるということは、コナーを嬉しくさせた。ナマエの存在が、浴室に留まるのではなく、自分の領域に流れ出てきたかのように感じられた。それがあるだけで、生気のなかったリビングが光り輝き始めたようにすら思えた。コナーはナマエへ向けるものと同じ微笑みをその花へ向け、ナマエが時々観葉植物の葉にやるように、その花弁を指先で弾いてみた。多分、ナマエは花に対してもこうするのだろうなと思いながら。

 自分がナマエへ特別な感情を抱いていることをコナーは意識しつつあった。だがそれはまだ愛とは呼べなかった。愛は恋などとは違っていて、双方がそれを自覚しなければ成り立たないものだとコナーは思っていた。
 コナーはナマエを使いたいのではなく、愛したかった。しかし、彼女が昨晩見せた振る舞いは愛故ではないように感じられた。あの身体の力の抜き方、預け方はまるでコナーに身体を明け渡しているかのようで、求める、ではなく、使わせるだった。ナマエに愛されたい、とコナーは思い、自分にそんな欲求があったことに驚いた。


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