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06

 それまではわざと署に残っているのではないかと思われるぐらい頑なに残業をしようとしていたコナーが、連日、早々に帰宅しようとするのは嫌でも人目に付いた。彼に恋人ができたのだと噂する者もいれば、彼の性格を少しばかりは知っていて、それはありえないと否定する者もいた。だがもしも本当に恋人がいるのなら、彼はそうとうその恋人に入れ上げているようだ、というのは満場一致の意見だった。
「趣味でもできたか?」
 その日もそそくさと帰宅しようとしたコナーはハンクにそう尋ねられ、首を傾げた。
「違いますが……」
「じゃあこれか?」
 と、小指を立ててくるハンクのその古くさいジェスチャーを鼻で笑い、コナーはそれも否定した。今度はハンクが首を傾げる。
「なんだ、俺はお前に趣味ができた方に賭けたんだが、大穴ですらなかったか」
「僕が早く帰りたがる理由を皆さんが“邪推”してるのは知っていますよ」
「で、その理由は何なんだ?」
「僕、実は私生活をあまり話さないタイプなんですよ。知ってました?」
 少しばかり皮肉の混じる口調でそう返され、ハンクは苦笑して肩を竦めた。
「……そうだな」
「そうです。それでは」
 と別れの挨拶にすらなっていない言葉を残すと、コナーは同僚たちの好奇心に満ちた視線を浴びながら署から出て行った。
 独り残されたハンクは、改めてコナーの私生活について考えた。彼自身も私生活を他人へ話すタイプではなかったが、一度家へ不法侵入のような形で押し入られたこともあり、コナーはハンクの家とその人となりを表す内装を見たことがあった。ハンク自ら、息子の話をしたこともあった。それに対してハンクはコナーの家を見たことがなく、彼から恋人の話はもちろん、家族の話すらも聞いたことはなかった。一応、ここへ至るまでの遍歴――一時期サイバーライフに勤めていて、アンドロイドについてはある程度の知識を有しているということだとか、それが彼の変異体への認識を一時期間違わせていたのだとか、市警に来る前は交渉人をしていたことだとかは知っていたものの、どこでどういう幼少期を過ごしたのかというようなことがコナーの口から語られるのを聞いたことは今までたったの一回もなかった。
 もう少し心を開いてくれてもいいもんだが、と空になったデスクを前に、ハンクは若干の寂しさを覚えた。


 コナーが浴室を覗き込むと、ナマエは彼が先日置いた観葉植物の葉に水滴を並べているところだった。コナーは彼女を邪魔しないよう気を付けながら、すでに自分の定位置となっている浴槽の脇の丸いパイプ椅子に腰掛けて、買ってきた夕食を食べつつそれを眺めた。

 浴室はよくあるタイプの設計だった。部屋の奥を浴槽が占めており、その上にシャワーと小さな窓が設けてある。浴槽の隣には洗面台があり、陶器でできたそれの上にはいつも細々とした使い捨ての日用品が置いてあった。鏡の裏は戸棚になっていたものの、中にあるのは数個の医薬品と日用品のストックだけだった。水場から一番遠いところにはトイレが設置されている。床と壁は白いタイルで覆われており、掃除は楽ではあったが、物がほとんど置かれていないのもあってどこか寒々しい雰囲気を漂わせていた。
 だが、それは数日前までのことだ。
 たった十数日の間に、浴室は様変わりしていた。今では浴槽の縁に置かれた安っぽいバス用品に紛れるようにして黄色いアヒルのおもちゃと数個のキャンドルが並び、イミテーションの花と蔦が垂れ下がっている。床には観葉植物が二種類。葉が広いものと、尖っているもの。そのどちらかは花を咲かせるそうだが、それを見るには長い時間がかかりそうだった。早くも湿気で剥がれ始めた安い模造品の絵画と共に壁を飾るプレイヤーは音楽を流し続け、辺りには、彼が一日一個までと制限した個包装の入浴剤の香りが満ちている。それらは全て、乾燥すると崩壊を始めてしまう尾びれのせいで浴室に押しとどめられているナマエの心を和ませようとコナーが買ってきたものだった。
 以前まではここに一丁の水鉄砲もあったのだが、それでナマエが髭を剃っている最中のコナーばかりを狙って撃つので、早々に没収された。

 観葉植物の細い葉の先に水滴を落とし終わったナマエはコナーの方を見やり、得意げな笑みを見せた。コナーがよく分からないながらも頷きを返してやると、ナマエはその葉をピンと弾いて、水滴を全て落とした。
「それにはあまり水をやらない方がいいらしいが。特に入浴剤の混ざった水は」
 コナーのそんなアドバイスに、ナマエは慌てた様子で鉢を覗き込み、どのくらいの水が土に吸い込まれてしまったのかを確認した。そして彼女はコナーの傍らへ近付くと、浴槽の縁へ組んだ腕を乗せ、その上へ顎も重ねて、彼が今日一日のことを話し始めるのを待った。ナマエはコナーが贈ったどんなものよりも、彼の話を聞くのが好きなようだった。多分、あの店では彼女は個を持った存在として誰かに話しかけられたことなどなかったのだろう、とコナーは思っていた。
 それまでのコナーはいつも夕食を外で手早く済ませるか、食べないかのどちらかだったが、最近は浴室でナマエに話しかけながらゆっくりと食べるのが日課となりつつあった。彼は、それを楽しいと思い始めていた。

「……で、僕は犬が苦手なんだ。でもハンクの家には犬がいて、しかも大きいのが」
 ハンク、という言葉にナマエは身体を起こし、両手を下顎の辺りでわさわさと動かして見せる。その的確な表現に、コナーは笑みを浮かべた。
「そう、僕が君と初めて会った時、一緒にいた髭の生えてる男の人だよ」
 続けてナマエはコナーを指さし、浴室の外へ指を動かす。そして再び中へ戻ってくる動作。片手の指を二本立て、そこへもう片方の手の一本の指が合流する動き。
「これは……彼を連れてこないのかって?」
 伝わると思っていなかったのか、ナマエは驚いたように目を丸くしながらもうんうんと頭を上下させた。しかしコナーは首を左右に振る。
「それは無理だ。僕は君を助けるために法を犯したからな。一応は刑事なのに」
 そう言ってコナーが自虐的に笑って見せると、ナマエはしょんぼりとして彼に背を向けてしまった。下げられた肩と丸まった背が哀愁を誘う。
「君を責めてるわけじゃない。僕は君を助けたくて、助けた」
 コナーが優しい声色でそう告げると、ナマエは微かに振り向き、不安げな瞳で「本当に?」と問いかけてくる。
「本当だよ」
 と、コナーは返したが、向き直った彼女の瞳はまだ「本当に?」の色を湛えていた。その裏に隠された「なぜ?」のメッセージを受け取って、コナーは言葉を続ける。
「君は僕に助けを求めただろう――言葉だけではなく、心で。僕にはそれが分かった。そんなのは今までなかったことだ。誰かと……心が通じ合ったと思ったことは」
 ざば、と水面が動いた。ナマエが浴槽の縁へ手を付いて上半身を持ち上げたのだ。そのまま彼女はコナーと視線を合わせ、初めてここへ来た時のように、その服の上からコナーの胸元へ触れた。シャツが水を吸って彼の肌に張り付く。女性に触れられたのはこれが初めてではないはずなのに、コナーは自分がひどく緊張しているのを感じた。
 コナーは微かに震える手のひらで、同じように、彼女の胸元へ触れた。彼女が目を閉じてゆっくりと吐息をこぼす。コナーは緊張が興奮に変わっていくのが分かった。何かに操られ吸い寄せられるかのように、コナーはナマエの唇に自分の唇を重ねた。ナマエはまるでそれを待っていたかのように動きを止め、コナーがその身体へ腕を回すと、主導権を譲るかのように力を抜いた。
 実際にどのくらいの時が過ぎたのかは分からない。だが体感では永遠と思われるほど長く、コナーはナマエの唇を味わった。そうして自分が、彼女を水槽で見た時からずっとこうしたいと思っていたのだということを知った。
 コナーが唇を離すと、こめかみのリングを黄色く光らせたナマエの瞳は、不安そうに揺れ動いていた。それがどちらへの不安なのかコナーには分からなかった。このまま先へ進むことへの不安か、彼が進まないという選択肢を選ぶ可能性があることへの不安か。
 もしかしたら、彼女は助けられたお礼に、自分の身体を捧げようとしているのではないだろうか。
 ふいにそんなことを思ってしまったコナーは、ナマエから身体を離した。二人の間に挟まれていた濡れたシャツが剥がれていくのは、まるで生皮を剥がされていくような感覚だった。
「……僕は君に対価を求めたいわけじゃない」
 そうコナーが告げると、ナマエは戸惑ったように眉尻を下げた。コナーはその目元にもう一度キスすると、例え彼女がそう思っていなくとも、自分がそう思ってしまうことを危惧して、浴槽を離れた。
 親切の対価を身体で払われるのはまっぴらだった。


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