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05

 デスクで端末に向かうコナーは明らかに眠たげだった。まさか彼が盗み出してきた人魚とほとんど一晩を浴室で過ごしたことなど露知らぬハンクは、彼が先日のことを思い悩んで眠れなかったのだろうと誤解して、同情した。彼はその気の毒な相棒のためにわざわざコーヒーを淹れてやった。
「あんまり引きずんなよ」
 その言葉と共にコーヒーを差し出せば、コナーはコーヒーは受け取ったものの、怪訝そうな表情を浮かべた。
「何をですか?」
 ああ、こいつはあのことを忘れようと努力しているんだな、とますます誤解を深めたハンクは気遣うような頷きを返した。
「いつでも休みを取ってカウンセリングを受けに行っていいんだからな」
 そう言って自分のデスクにつくハンクへコナーは疑問符を浮かべたが、何も言わずにコーヒーを啜った。

 コナーは気もそぞろに報告書を書き上げながら、ナマエのことを考えていた。彼女はあの狭い浴室で退屈しているだろう、とコナーは思った。一応、彼女が外の音と光を楽しめるように浴室の換気と明かり取りのための窓を開けておいたものの、それは浴室の高い位置にあって、立ち上がらなければ外の景色を眺めることはできなかった。そして、あの尾びれでそれをするのは難しそうだった。
 帰りになにか買っていこう、とコナーは考える。何がいいだろうか、水に浮かべるおもちゃ?まさか、彼女は子供じゃない。防水仕様のタブレット端末にしようか。だが電波設備の整っていない彼の家では、それはただの光る板に成り果ててしまいそうだった。
 コナーは新たな現場に行く最中のハンクの車の中でもずっとそのことを考えていた。心ここに有らずな相棒を気遣って、ハンクは話しかけるのを控え、車の音楽プレイヤーを操作する。突然轟音で鳴り響いたヘヴィメタルにコナーは助手席で肩を跳ね上げ、しかし同時にこれだと思った。音楽。彼女が音楽を好きかどうかはまだ分からないことではあったが、少なくともこれはあの殺風景な浴室に花を添えてくれそうだった。
 ナマエの暇をつぶせそうなものに取りあえずの目星の付いたコナーは、次は早く家に帰るべく、それまでとは打って変わって意欲的に職務に取り組み始めた。それをハンクは、仕事で気を紛らわせることにしたのかと更に誤解を重ねて同情し、しかしコナーが定時――あるいは二人が何となく定時だと思っている時間――に帰り支度を始めたのでひどく驚いた。
「今日は残んねぇのか?」
「ええ。今日の分の仕事は終わらせたと思いますが、問題がありますか?」
「いや……お前がこんなに早く帰るのは初めて見たよ」
「僕も初めてですよ。では」
 そう言い残して足早に立ち去るコナーの背を眺め、ハンクはようやく疑問を覚えた。どうしちまったんだ、あいつは、と。


 暗い浴室で、ナマエはその壁面に設けられた高い窓を見上げていた。そこから差し込む月の光が彼女の顔を照らしている。物思いに耽っている様子のその横顔はまるで彫刻のようで、美しさにコナーは息を呑んだ。それに気が付いたナマエがぱっと振り向き少し恥ずかしげに微笑む。コナーは部屋の電気を付け、浴槽の傍らにしゃがみ込んだ。
「退屈したかな」
 ナマエはちょっと肩をすくめて笑ってみせた。「あの店よりはましよ」とその動きで彼女は言っていた。大勢の人間の目に晒され、時々客を取らされるよりは狭い浴槽に横たわって一日を過ごすほうがよっぽどいい、と。コナーはそれに微笑みを返し、つい先ほど買ってきた音楽プレイヤーを箱から取り出した。スピーカーを内蔵しているタッチパネルタイプのそれをコナーがタイルでできた壁に吸盤で取り付けるのを、ナマエは興味深げに見守っていた。
「音楽プレイヤーを買ったんだ。君がどんなものを好きか分からなかったから、曲は適当に入れてきたんだが……」
 ほら、とコナーはプレイヤーを指さし、ナマエに触ってみるよう促す。彼女はその身体に好奇心をみなぎらせながら、恐る恐るそのタッチパネルに指先を走らせた。防水式のそれは彼女が濡れた手で操作しても問題なさそうだった。そしてあっと言う間に操作方法を理解したらしい彼女がアーティストの一覧を表示するのをコナーは見ていた。最近の彼はあまり音楽を聴かなかったから、インストールしたのは主に昔聴いていた曲と、ハンクが聴かせてくる曲で、アーティスト一覧は闇鍋めいた様相を呈していた。そんな中から、華奢な指先が、何か明確な意思を持って一人の歌手を選び出す。
 コナーにはとても聞き覚えがあり、そして同時に思い出深い曲がプレイヤーから流れ始めた。ナマエは初めて聴く曲として、自分の名を冠するアーティストのものを選んだのだった。
 ナマエはコナーの表情を伺った。彼はまるで不意打ちのように流された曲に記憶を掘り返され、身体が硬直してしまったかのように動けなくなっていた。
 幼少期、いなくなった父親、母親からの過度な期待、周囲からの孤立……。
 ぱしゃん、と水面が揺れ、コナーは沈み掛けていた意識を浮上させた。見れば、ナマエがコナーの顔を覗き込んでいる。その、「大丈夫?嫌だった?」と不安げに問いかけてくる瞳に、コナーは苦笑を返した。
「懐かしい曲だな。君が好きになってくれるといいが」
 彼女は水の中で身体をくるりと一回転させた。エメラルドグリーンの鱗がきらきらと輝き、それに反射した光が浴室の中で砕ける。それはまるで好きという気持ちを身体で表現しているかのようだった。
「喜んでもらえたようで良かったよ」
 その言葉に笑みを返し、再びプレイヤーを操作し始めた彼女の後ろ姿を眺めながら、コナーはふとあることを思い付いた。

 白い背景に並んだ罫線とキーボードを模した画面を表示させた携帯端末をコナーは差し出した。
「何か入力してみてくれないか」
 ナマエはそれを受け取ったものの、複雑な表情を浮かべたまま、なかなかその文字入力の画面に触れようとせず、これでようやく彼女と意思の疎通が図れると心の内で喜んでいたコナーはしびれを切らして、彼女の手を取り、無理矢理画面へ触れさせた。
「ほら、文字を打つんだ。こうやって――」
 その手を、ナマエは強い力で振り払った。二人の手を離れた携帯端末は宙を飛び、浴室の硬い床に音を立てて落下する。
「なにを……!」
 コナーは慌ててそれを拾い上げ、画面に傷が入っていないことを確認した。そして彼女の突然の反発に若干の驚きと苛立ちを覚えながら向き直ると、ナマエはまるで侮辱されたかのように唇を噛んで俯いていた。その苦しげな表情にコナーは苛立ちがきれいに溶けていくのを感じ、次いで自分の行いを恥じた。
「すまない、強要するつもりはなかったんだ」
 返ってきたのは頭を左右に振るという否定の動作だった。コナーは再び彼女の傍らに跪き、労るかのように尋ねた。
「何が嫌だったんだ?」
 彼女は暗い顔をしたまま、水面へ視線を注いでいる。その態度はコナーに名を尋ねられた時のものと似ていて、コナーは嫌な予感に身を震わせた。彼女は文字を読み、理解はできる。だが――。
「もしかして、君には言葉を出力するためのプログラムが組み込まれていないのか……?」
 返事はシンプルな動作で返された。頷きという肯定の動作で。それは、例え彼女に舌があったとしても、話すことはできないのだということだった。ペンと紙があったとしても、アルファベットの積み木があったとしても、彼女は文章を組み立てることすらできないのだ。彼女は豊かな感情をもち、それに伴う自分の意見というものを持っている。だが彼女はそれを周囲へ伝える一番強い力、言葉を、取り上げてられているのだった。
 “不必要なものは付けてない”――あの時の店主の言葉が蘇ってきて、コナーは炎のように激しい憤りを覚えた。あの店に舞い戻って、店主を殴ってやりたくなった。そんなことをすれば今回のことが明るみに出てしまうから、それは想像に留めたものの、そのせいで行き場を失った怒りは彼を苦しめた。
 怒りにわななくその拳をゆっくりと解いたのは、ナマエの冷たい指先だった。コナーが彼女と視線を合わせると、彼女は弱々しくだが微笑んで見せた。まるで「私のために怒ってくれてありがとう」とでも言いたげに。実際に彼女が何を思っているかなど、彼女以外の誰にも分からない。だがその時のコナーには、優しく彼の手を広げていく彼女の仕草はそういう風に見えたのだった。


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