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04

 濡れた服のままコナーは浴槽の縁に腰掛け、その中で水と戯れる彼女を眺めた。彼女はさっきまでは落ち着かなげに尾びれをばたつかせていたが、もうすっかりその狭さに馴れたようで、今は浴室を支配する女主人さながらの様子を見せている。あっという間に適応してしまった彼女にコナーは苦笑をこぼしたが、心のどこかでそれに安堵していることを否定できなかった。彼女がここに納まることを拒絶したらどうしようかと、コナーは帰りの車の中でそればかりを考えていたからだ。もちろん、彼女が他の場所を求めれば、喜んでそこへ連れて行くつもりではあった。だが少しだけでもいいから彼女と同じ時間を過ごしてみたいという、今まで他の誰にも感じたことのなかった欲求がいつしかコナーの心の中には芽生えていたのだった。

「名前は?なんていうんだい?」
 コナーはなるべく優しい口調でそう話しかけたつもりだったが、彼女は水で楽しむのを止めて困ったように顔を伏せてしまった。
「もしかして……ないのか?」
 その問いかけに対して、彼女は眉尻を下げたまま、ちらとコナーを見た。その沈黙はどうやら肯定を表しているようで、コナーはしばらく悩んだが、ある提案を口にした。
「呼び名を、考えても?」
 それまで彼女はコナーとは反対側の縁に身を預けていたが、この提案に興味をそそられたのか、少し身をもたげて、コナーの真横の縁に片腕を乗せた。そして彼を見上げてくるその瞳は好奇心に輝いてる。彼女はアンドロイドだが、まぎれもなく生きている存在なのだと、コナーは改めて感じた。

 コナーが思い付いた名前を一つ挙げると、彼女は首を傾げた。「理由は?」と目で問いかけてくる彼女に、彼は素直に答える。
「ペットを飼えたら付けたいと思っていた名前なんだ」
 ばしゃん、と抗議するかのように尾びれが水を叩き、コナーは既に濡れている服へさらなる水滴を浴びた。
「君の怒りはもっともだよ」
 顔にかかった飛沫を手で拭いながらコナーがそう言うと、彼女は不満げに腕を組んだ。今まで何かに名付けたことなどないコナーは再び長考し、待つのに飽きた彼女が蛇口を捻って浴槽に水を足し始めた頃、ようやく新しい名前を思い付いた。
「じゃあ……ナマエ、というのはどうだろう」
 彼女はまた、なぜ、と問いかける。
「僕が好きな歌手の名前だよ」
 彼女は尾びれを水面まで持ち上げ、それを振り下ろすか悩んでいるようだった。その感情の表し方を少し面白く思いつつ、コナーは続ける。
「僕が孤独だった時、彼女の歌声にいつも救われたからだと言ったら、君は納得してくれるかな」
 尾びれは音もなく水の中へ納められた。
 そして彼女は自分を指さして「ナマエ」と唇を動かし、次いでコナーへ指先を移して首を傾げた。そこでようやく、コナーは自分が名乗っていなかったことに気が付く。
「僕の名前はコナーだ」
 「コナー」とナマエは空気の動きだけで彼の名を呼び、笑みを浮かべた。コナーにはそれが彼女なりの感謝の気持ちを表しているように思われた。

「君の友人のことを謝りたい」
 唐突にそう切り出され、ナマエはその時のことを思い出したのか、こめかみのリングを黄色に変えた。さっきまでは溌剌と輝いていた表情にさっと影が差す。浴槽の縁に添えられていたその手が震え始め、コナーは彼女の頬を透明で美しい水滴がなぞるのを見た。思わず彼がそれに触れようとすると、ナマエは顔を背けた。
「すまない。僕はあの男がやることを止められなかった」
 それ以上なにをどう弁解すればいいのか分からず、コナーも視線を浴室の床へ落とした。
 しばらくコナーはそうしていたが、声もなく泣くナマエとその沈黙の重さに耐えかねて、立ち上がり浴室を出て行こうとした。だが、ナマエは遠ざかる彼の手へ怖々と触れて、それを引き留める。コナーが振り返ると、ナマエは首を左右に振った。
「なにが違うと言うんだ」
 ナマエはコナーを指さし、唇でも、「コナー」という言葉を紡ぐ。
「僕が、違う……僕のせいではないと、そう言いたいのか?」
 頷き。肯定。赦し。
「でも、僕は……」
 再び横に振られる首、否定。
 コナーはしゃがみ込んで視線をナマエと合わせた。ナマエは掴んでいた手を一度離すと、改めて握り直し、自分のシリウムポンプの上へ押し当てた。それは動いていた。
 「少なくとも、私は救ってくれた」とその振動は伝えていて、コナーにはそれの動きがとても尊いもののように思われた。自分が救った命。
 二人は見つめ合った。ナマエがもう片方の腕を伸ばしてきて、服の上から、コナーの心臓を覆う薄い皮膚へ優しく触れた。コナーは自分の鼓動が早まるのを感じた。そして彼は彼女の頬に改めて触れ、彼女はそれを受け入れ、背へ腕を回されて引き寄せられることを甘受した。

 しかしリビングから無慈悲にも鳴り響いてくるアラーム音が、二人の動きを止めさせた。それはコナーがテーブルの上へ置いていた携帯端末が、寝ているのなら起きるべき時が来たのだとそのアラーム音で伝えているのだった。コナーはしぶしぶナマエから身体を離した。そして自分が未だにびしょ濡れであることと、あちこちに鱗を付けている状態なのだということを再確認する。彼はほとんど無意識に、シャワーを浴びなければと思い、そしてそのシャワーの下の浴槽にナマエがいるのを認めた。
「すまないんだが……シャワーを浴びてもいいかな?」
 ナマエは視線を上げ、コナーの言うシャワーなるものを見つけた。彼女は頷いた。
「……それで、その……よかったら見ないでいてもらいたいんだが」
 コナーはその申し出に、ナマエが笑ったような気がした。彼女は浴槽の縁に腰掛けると尾びれを水から出し、くるりとコナーへ背を向けた。まるで「分かったから、ご自由にどうぞ」とでも言うかのように。コナーは慌てて服を脱ぐと、ナマエの白い背を眺めながらシャワーを浴びた。


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