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02

 コナーが店主の胸ぐらを掴んだのは、義憤に駆られたからだけではない。彼女の悲しみに当てられたからだ。彼女は水槽の底にうずくまり、傷付いたかのようにその細い腕で自分自身を抱きしめていた。まるで自分以外に自分を抱きしめてくれるものなどいないことを知っているかのように。コナーには、水中に溶けた彼女の涙すらも見える気がした。
「なぜこんなことをした!?あのアンドロイドに事情を聞けたかもしれないのに!」
「事情?アンドロイドにそんなものないと思いますがね。それに、こいつは何も話さなかったと思いますよ。不必要なものは付けてないんで」
 全く悪びれる様子も見せずに、店主はそう淡々と――むしろ激情に身を任せるコナーを見下すような雰囲気を漂わせながら、言った。コナーはその“不必要なものは付けてない”という部分が気に掛かって、店主の襟から手を離さずに、水槽の死体を、今は三体になった死体を見た。女の口の中を見た。そこにはなにもなかった。彼女たちは、声を取り上げられているのだ。
 なんという尊厳を侮辱する行いだろうか。彼女らには声を上げる権利すらない。
 コナーは店主の襟ぐりを掴んだままその身体を易々と持ち上げると、そのまま水槽へ乱暴に押しつけた。衝撃が水中へ伝わったのか、中の彼女がびく、と身体を震わせる。
「この……」
 今にも腕を振り上げそうなコナーを制したのは、それまで脇でやりとりを見守っていたハンクだった。
「そこまでだ、コナー」
 背を軽く叩かれ、コナーは手を離した。店主がどさりと床に尻餅をついた。


「俺たちにできることはもうないんだよ」
 ハンクがコナーをそう諫めるが、コナーは未だ怒りを手放せずにいた。二人はかなり遅れてやってきた鑑識と共に報告書の制作に必要な捜査を済ませ、事件の後には必ず付いてまわる長いデスクワークに取りかかったところだった。だがコナーは依然として怒りに身を震わせていて、手に持った紙コップの中のコーヒーが揺れている。
 この事件は被疑者死亡という形で一応の幕を下ろした。あんなところで、あんな理由で死んだのだ。客の遺族は今回のことを表沙汰にはしないだろう。だがスタッフは気の毒だった、とコナーは思う。あの様子ではきちんと労災として扱われるかも疑わしいものだ。
 店主の方は管理不行き届きということで何らかのお咎めはあるだろうと考えてみても、コナーは少しの溜飲も下げられそうになかった。あの店主が裁かれるにしても、それは人間のためであり、殺された――しかも水道代とその命を天秤に掛けられたあげくに切り捨てられた――アンドロイドのためではない。
「俺も昔は色んなことに熱くなったもんだが、この歳になるまで色々と経験すると、無気力の方が先にくるようになっちまった。その点では、少しお前が羨ましいよ」
 どこか諦めたかのようにハンクはそう言うと、「シャワーでも浴びて頭を冷やしてこい」とコナーをデスクから追い払ったのだった。

 署内のシャワールームで冷たい水滴を身体に浴びながら、コナーは自分が店を出た時の彼女の様子を思い返した。彼女は水槽の厚いアクリル板に手を付いて、コナーの動きを目で追っていた。その悲しげで、諦めの混ざった瞳はしばらく忘れられそうにない。彼女は分かっているのだ、コナーが、いや、誰も、自分を助けてなどくれないことを。自分がいつか隣の彼女と同じように死ぬだろうということを。
 コナーはなによりも自分の無力さに憤りを感じていたのだった。

「さっきは止めて下さってありがとうございました」
 椅子へ座りながらそう言うコナーが、先ほどとは打って変わってひどく落ち着いた様子だったので、ハンクは少しばかり驚いた。今までの付き合いから、ハンクはコナーのことを「外面は機械みたいに冷たいが、内側は刑事にふさわしい熱さを秘めている男」と内心では評価していた。だから今回あのアンドロイドたちに同情しているのを隠そうともしていなかったコナーがこんなにも早々とその心を投げ捨ててしまうとは、ハンクにとって予想外の出来事だった。しかし、冷静になれと言った手前その話題を蒸し返すこともできず、ハンクは無表情で端末のキーを叩き始めたコナーを無言で見守るより他になかった。あいつがやばくなっちまう前にカウンセリングを勧めてやろう、とハンクは密かに思った。




 書類の制作が一段落し、コナーは自宅へ睡眠をとりに帰宅した。
 独身の男の家は大体二種類に分類される。荒れ放題か、生活感が皆無か。コナーの住むアパートメントの一室は後者だった。必要最低限の家具は揃えてあったものの、それらは滅多に使われることもなく、薄く埃を被っていた。窓を覆うカーテンは、彼が越してきてから一度も開けられたためしがなかった。どんなに陽気な人間でも、足を踏み入れた途端に生きる気力を失ってしまいそうな、そんな家だった。
 仕事に生きるコナーはこの家へシャワーを浴びるか、寝るか、そのどちらかのためにしか帰宅しなかった。もちろん女性を連れ込んだこともなかった。恋人がいたこともあったが、大抵は長続きしなかった。「本当は私のことなんでどうでもいいんでしょう」大半の別れ文句がこれだった。彼は他人を上手く愛せた試しがなかった。その原因は彼の家庭環境に端を発するものだったが、彼は努めてそれから目を逸らしていた。
 外で夕食を済ませてきたコナーは、特にすることもなく、早々に就寝した。この家には娯楽のためのものなど一つもなかった。

 彼は夢を見た。彼はいつも夢など見なかったから、これは珍しいことだった。
 あの人魚のアンドロイドと一緒に、コナーは水中に漂っていた。辺りは薄暗く、二人の足の下には深い穴が口を開けている。彼女はそれに落ちていくことを恐れているのか、コナーの腕に縋り付いていた。彼女があの、胸を打つ瞳でコナーを見つめる。
「助けて」
 彼女の唇は動かなかったが、その言葉はコナーの心と脳内に響いた。
「僕は、」
 言葉と共に、コナーの口からは空気の泡がこぼれた。彼は息苦しさを感じた。
「僕は刑事だ。君を助けることは窃盗になる。僕にはできない」
「私を見殺しにするの?」
 水中にいるのに彼女の瞳が潤むのが分かった。コナーは自身の良心が悲鳴を上げるのを聞いた。
「僕は……」
「また、見殺しにするんだ」
 後ろから声が掛けられ、肩に何かが乗るのが分かった。身体が沈んでいく。コナーが身を捩って振り返れば、ぞっとする顔と目が合った。ガラス玉の目、空っぽの口のなかは黒々としている。
「私を見殺しにしたように、彼女も見殺しにするんだ」
 それはあのクラブで死んだはずのアンドロイドだった。彼女は背後からコナーの身体に腕を回し、深みへと引きずり込んでいく。コナーはもがいた。肺から空気が逃げていく。
「僕は見殺しになんかしていない!僕のせいじゃない!」
 コナーは請うように、もう一人の彼女を見る。彼に縋っていた筈の彼女は、依然として瞳に悲しみの色を湛えたまま、彼の手をそっと引きはがした。
「私は死にたくない……」
 アンドロイドの鱗の剥げた尾びれは伸びて蛇を思わせるものへと変わり、コナーへ絡みつく。身体が沈んでいく。空気と入れ替わるかのように、水が口や鼻の中に入ってくる。息ができない。蛇のような尾がぎりぎりと締め付けてくる。その圧力に耐えかねたコナーは身体をくの字に折り、肺に残っていた空気を全て吐き出した。激痛が身を貫き……そこでコナーは目を覚ました。
 冷房が効いているはずなのに、大量の汗を吸った、寝間着代わりのTシャツが身体に纏わり付いて冷たい。激しく打っている心臓が落ち着くのを待って、コナーはベッドから身体を起こした。そしてキッチンで立ったまま、電気も付けずに水を飲む。酷く嫌な夢だった。
 彼女はどうなるのだろう、とコナーは考えた。数時間前から考えまいとしていたことだ。変異体であることがバレて廃棄されてしまうのだろうか。それとも、これからもあの水槽の中で、店主からの暴力と男たちからの陵辱を受け続けるのだろうか。そしていつか人を殺す。あるいは殺される。そこでコナーははたと気が付いた。もしかするとあの殺人を犯したアンドロイドは自ら死を選んだのではないのだろうか、と。人間に危害を加えれば、処分されることを知っていて、男たちを殺したのではないだろうか。人間を使って自らを死に追い込もうと。コナーが理解できなかった彼女のジェスチャーは、自殺を表していたのだろうか。シリウムポンプを、止めるという動作を……。
 コナーは突然不意打ちのような悲しみを味わった。彼女は同胞が死のうとしていることを知っていた。そしてそれをつたない動きで必死に彼に伝えようとしていたのだ。もしかすると、コナーにそれを止めてもらいたかったのかもしれない。コナーは胸が苦しくなった。
 僕はそれを防ぐことができなかった。
 なぜそれで自分が咎められないといけないんだ、という気持ちと、彼女に謝らなければという気持ちがせめぎ合う。

 コナーは暗い室内を何十回か往復すると、服を着替えて外へ出た。


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