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短編|水の中で

 その時のことを今思い返している。薄暗い水の中で。
 コナーがサイバーライフの定期メンテナンスを受けて帰ってきた時のことを。
 新しい機能が追加されたんですよと嬉しそうに言う彼に、結局、その機能とやらを尋ねられずに会話は終わってしまった。
 ……いや、後で改めて聞いたんだっけ。私は記憶を辿りながら、身体を伸ばして、車内の上部に残る貴重な空気を吸い込んだ。それと同時に車がぐらりと動き、割れた窓からその最後の空気も逃げていってしまった。大きな泡が手の届かない水面へ逃げていく絶望的な光景に私は恐怖を覚え、パニックを起こしそうになる自分を必死で抑え込む。
 それで、それでコナーはなんと言った?
 私はこうして今の状況とは全く関係のないことに意識を飛ばすことによって、パニックとそれによってもたらされる死の魔の手から逃れている。
 彼の答えは「内緒です」だったはずだ。「あなたを驚かせたいので」とも言っていた。その後何の脈拍もなくプールに行かないかと誘ってきたから私は、その新機能は水に関係あることだと目星をつけたんだった。
 私は水の中でかがみ込み、潰れた車のフロント部分に挟まれた自分の脚を引っ張る。鋭い痛みが走って水に混じる赤色の量が増えたが、車は中々くわえ込んだ脚を離してくれそうにない。溺死するくらいなら脚を一本犠牲にした方がましだとは思うが、実際そうできるかはまた別の問題らしい。私は更に脚を引っ張るが、腕にうまく力が入らない。再び恐怖が顔を覗かせ、私は目を閉じる。
 私がコナーの手を握って、水かきでもできたのかと眺めていれば彼は少し恥ずかしそうにはにかんで見せたのだっけ。それで私も急に恥ずかしくなって、彼の手を離した。そしたら彼は、
 水が私の肺を圧迫し、その中に蓄えている空気を吐き出して我々を迎え入れろと言う。私はそれに従いたい。水を飲み込んで楽になりたいと、混乱した脳が騒ぎ立てる。僅かに残る理性だけがそうしそうになる自分を必死で押し留めている。私は無理矢理、現実から意識を背け続ける。
 私が手を離すとコナーは明らかに名残惜しそうな顔をしたのだ。彼のあんな表情を見たのは、きっと私だけだろう。彼はかわいい。彼が好きだ。
 でもどうやら、それを伝えることなく私の人生は終わってしまうようだ。自分が泣いているような気がするが、涙は水と混ざってしまっていて分からない。死ぬのか、ここで。私は足掻くのを止め、唇から空気の漏れる様を眺めた。死にたくない……。


 走馬燈か、私を迎えに来た天使かと思った。死神?そんなわけないだろう。
 窓の割れた部分から車内へ上半身を乗り出したコナーの背後には、水面から差し込んだ光の筋が眩く輝いていた。彼の周りには小さな空気の泡が踊っていて、キラキラと光を反射している。私はそれを幻覚でも眺めるかのようにぼうっと見ていた。
 そして腕を伸ばしてきたコナーは私の頬を両手で包み込み、今の状況に一番ふさわしくないことをした。
 彼は私にキスをした。
 私は死にかけていたことも忘れて、目を見開く。二人の唇の触れ合うところから空気が溢れる。大量のあぶくが生まれ、生き急ぐかのように上へ流れていった。コナーはどこかもどかしそうに私の後頭部へ手を回すと、もう一度唇を重ねてきた。そして彼の舌が私の唇を無理矢理こじ開ける。口内に空気が満ちる。
 始めのうちはそれを水と共に飲み込んでしまっていた私だったが、やがて要領を得て、口呼吸のやり方でその空気を受け入れられるようになった。それを確認したコナーは唇を離すと、外側から車のドアを開けようと試み始めた。そしてしばらく彼は水圧のしつこい抵抗にあっていたが、窓ガラスが失われていることも幸いしてか、最終的にドアは開いたのだった。
 それによって車内の水に動きが生じ、私から流れ出た血液の溶け込んだ赤い水が、車内へ泳ぎ込むコナーを包んだ。彼はぎょっとしたように身体を強張らせ、今にも泣きそうな目で私を見た。一方私は、先程まで抱えていた死の恐怖など既に手放し、むしろどこか安らいだ気持ちすら覚えかけていた。そんな気持ちになれたのは肺が酸素に満たされているからというよりは、コナーが来てくれたからで、彼が絶対に助けてくれることを信じているからだった。
 私が怯えていないことで、コナーもすぐに落ち着きを取り戻し、挟まれた私の脚に取り掛かった。人間のように運動に酸素を必要としない彼の腕が、ひしゃげた金属をもとの形に戻していく。コナーは時折身体を起こして私に酸素を与え、そしてあの名残惜しそうな表情をちらと見せてから、金属を押し上げ、車から私の脚を解放した。
 自由になった私はコナーに縋りつき、彼はその細いながらも逞しい腕で私を抱き締めた。彼のブラウンの髪に小さな泡がまとわり付いている様は綺麗だった。
 その後のキスには酸素の供給以上の意味があったように思う。

 コナーに抱きかかえられながら明るい水面へ向かうなか、私は少しだけ、本当に少しだけだが、もうちょっと、彼と共にあの車内にいてもよかったな、などと考えていた。




 固い陸に引き上げられると、傷付いた脚が、まるで次にお前の命を脅かすのは俺だと主張するかのように痛み始めた。ずぶ濡れの私とコナーの周りには大きな水溜まりができたが、それが広がっていくのは、私の血が未だに流れ続けるせいだろう。コナーはLEDを黄色と赤に振れさせながら慌てた様子でネクタイを解くと、私の太腿にきつく巻き付けて簡易的な止血を施した。彼はずっと泣きそうな顔をしている。
「大丈夫だよ」
 コンクリートの上に横たわったまま私がそう言うと、傍らに跪くコナーは大きく頭を振った。
「これが大丈夫なわけがないでしょう!?」
 私はコナーを安心させたかっただけなのに、どうやら逆効果だったらしい。彼はまるで制御が効かないかのように唇をわななかせ、しかしそれをすぐに一文字に結んで私の胸元に頭を垂れてしまった。
「あなたを喪うかと……」
 肩を震わせる彼は泣いているのかもしれない。私は力の入らない腕を苦労して持ち上げると、コナーの頭を優しく撫でた。
「新機能、すごいね」
「体内で酸素の生成が可能になったんです。……こんな形で披露したくはありませんでした」
「でも助かったよ。ありがとう」
 彼から返事はなく、しかし動こうともせず、私は彼を撫で続けた。
 やがて救護班が慌ただしくやってきて、私からコナーを引き剥がしたのだった。


 乗せられた担架の上から、私の乗った車に車を衝突させて湖に突き落としたその容疑者が、ハンクに取り押さえられているのが見えた。運ばれながらもハンクと目の合った私が軽く手を振って見せると、ハンクはいつもの呆れの滲んだ微笑を見せた。でもその前に、確かな安堵の表情が彼の顔を横切ったのを、幸運なことに、私は見逃さなかった。
 私たちの追っていた容疑者の犯罪リストに、殺人の二文字が加わらなかったことは素直に喜びたい。今上がっている罪状だけでも、この容疑者は数十年は刑務所から出られなさそうではあったし。


 容疑者の逮捕手続きのせいで同行することのできないコナーは、救急医療を施すアンドロイドに私のことを何度も念押ししてからようやく、救急車を降りた。そんな彼の後ろ姿に、私は声を掛ける。
「あれ、もしかしてファーストキスだった?」
 私の突然のその問いかけに、コナーは少し驚いた様子で振り向き、やや戸惑いつつも頷いて見せた。
「上手だったよ」
 私がそう告げた時の彼の表情といったら。こんな状況でそんなことを言う私に怒って見せたいくせに、褒められた嬉しさを隠せないでいる。やっぱり、彼はかわいい。
「私、コナーのそういうところが好き」
 全くもって残念なことに、彼が何か返す前に救急車の後部ドアは無情な救急隊員の手によって閉められてしまった。

 脚の大量出血のせいで、視界は端から黒く塗りつぶされつつある。私は気合で開いていた瞳をようやく下ろした。
 全然ロマンチックではなかったが、あのキスは絶対に一生忘れられないだろうと思いながら。




「あの……」
 見舞いにきたコナーがおずおずとそう口を開いて、私はやっとか、と思う。彼は連日、任務の方は大丈夫なのかと心配になるぐらい連日、見舞いに来てくれていたのだが、その度に何かをひどく言いたげな表情を見せるのだった。
 だが、どうやらやっと彼はその心の内にしまっていた言葉を明かしてくれる気になったようだ。私は読んでいた本を閉じて、コナーへ顔を向けた。
「どうしたの?」
「その……」
 私は待つ。コナーは視線を逸らして虚空をしばし眺めたあと、ようやく決心がついた様子で居住まいを正した。
「ファーストキスをやり直してもいいですか?」
 その全く予想だにしていなかった発言に、私は思わず笑ってしまった。だが、コナーの方が真面目な顔を崩さないので、私もすぐに笑うのを止めた。
「私、あのファーストキスは最高だったと思うんだけど。あれで私は生きてるわけだしね」
「……でも、理想的とは言いがたいものでした」
「コナーの理想って?」
「それはこう……のどかなムードで……もちろん水の中でもあなたが負傷している状態でもなくて……あなたが幸せな状態でそれを望んでいて……」
「そんなこと考えてたんだ」
 いつから彼はこの“理想的なファーストキス”の状況なるものを胸の内で温めていたのだろう。私が彼の並べる言葉の合間にそう言えば、彼は恥ずかしそうに目を瞬いて顔を伏せた。
「考えるのはタダだと、ハンクも言っていましたよ」
 ちょっとだけ拗ねるようにそんなことを言う彼はやはり可愛らしい。私は微笑んだ。
「今って理想的な状態なの?」
 私の質問に、コナーはちらと私の怪我を――ギプスに覆われた私の脚を見て、逆に聞き返してきた。
「あなたはどうですか、理想的だと思いますか?」
「多分ね。少なくともあなたの言う条件のひとつは完璧に満たしてるよ」
「……それはつまり……?」
「私が幸せな状態でそれを望んでいるってところかな」
 コナーは目を丸くし、次いで心からの笑みを見せた。正直なところ、私はあの水中でのファーストキスをやり直す必要性は微塵も感じていなかったが、その笑顔に負けた。
 そうして、彼は腰掛けていたベッドの端から腰を浮かすと、まるで映画かなにかのように私の顎に手を添えて、優しく唇を重ねたのだった。
 これもたぶん、忘れられないキスになるだろう。
 


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