Main|DBH | ナノ

MAIN


短編|雨の日の話

 ナマエは空から絶え間なく落ちてくる雨粒を前に、大きなため息をついた。確かに、家を出た時から空は暗く曇っていたけれど、予報は昼から本降りになると言っていたはずだ。だからナマエは傘を持ってこなかった。というより傘は職場にあった。ここから目下300メートルほど先にあるデトロイト市警の傘立てに。ナマエは先日持って帰るのを忘れたきりそれをそのままにしていた自分を恨んだ。だがここでまた傘を買って家を傘まみれにもしたくはない。乗り越えるべき距離はあと300メートル、たったの300メートルなのだ。
 家から乗ってきた電車を降りてからナマエは、少々の遠回りをして極力雨に濡れないようにしながらここまで辿り着いた。だがここから署までの300メートルには全く雨を遮るものがない。バケツをひっくり返したような夏の雨が、ナマエをせせら笑うかのように降り注ぐ。
 今のナマエの肩はすでに薄っすらと濡れていたが、この程度ならば自分の体温を犠牲にしてエアコンの風にでも当たれば乾くだろう。だがここから署まで雨の中を歩けば、あるいは走ったとしても、ずぶ濡れになることは間違いない。そんな自分を想像して、ナマエは再びため息をこぼした。きっと整えてきた髪の毛はべしゃべしゃになり、メイクは流れ崩れるだろう。それに、都会の雨というのは積極的に浴びたいものではない。

 ナマエはその雨宿りしている店の軒下で時計を確認する。いつもの出勤時間はもう過ぎてしまった。遅刻、ではまだ一応ないが、あと数分ここで足止めを食らえばそれは確実になる。遅刻者へ向けられるであろうファウラーの冷たい一瞥やギャビンのからかいの言葉を想像し、ナマエは今から暗い気持ちになった。何より一番気にかかるのは規律を体現しているような存在のあの彼が自分にがっかりするのでは、ということだった。
 走ろうか、とナマエは覚悟を決めてバッグを握りしめ、その中で携帯端末が震えていることに気が付いた。取り出せば、つい先程思い浮かべたばかりの彼の名前がそこに表示されている。そのことに喜びつつも、珍しいな、と思いながらナマエはそれに応じた。彼から電話だなんて、初めてじゃないか?
「おはよう、コナー。どうしたの?何か事件?」
『おはようございます、ミョウジ刑事。事件はありませんが、あなたがいつもの時間になっても出勤してこないので……気になって』
 携帯の向こう、始めは緊張しているかのように淡々としていたコナーの声だったが、最後の方には少し伺うような雰囲気があった。ますます珍しいと思いつつナマエは言葉を返す。
「雨のせいで足止めされててね。近くには来てるの。多分、署の窓からなら私が見えるんじゃないかな」
 短い沈黙があり、もしかしたら彼は本当に窓の外を覗いているのかもしれないとナマエは想像して、思わず微笑んだ。
『でしたら、体調などを崩されたわけではないんですね』
「うん。もしかして心配してくれたの?」
 からかうようにそう言えば、柔らかな声色で返事があった。その響きにナマエは心を微かにくすぐられる。
『そうですね。もしあなたが病気などでしたらどうしようかとは思っていました』
「どうするつもりだった?」
『看病しに行きましたよ、もちろん』
 もちろん、だって。ナマエはコナーの言葉を心の中で繰り返し、思わず雨の中へ飛び出して行きたくなった。そして風邪を引く第一条件を満たし、彼にその言葉通りのことを実行してもらうのだ。
「それじゃ、遅刻したくないし、今から行こうかな」
『雨の中を、ですか?』
「遅れるよりいいかも」
『ちょっと待って下さい』
 しばらくの沈黙。そして彼女を呼ぶ声。だがそれは携帯とすぐ近くとの両方で聞こえた。
「ナマエ!」
 彼女が顔を上げれば、道の先にコナーがいた。黒く大きな傘を差し、片手を大きく振っている。ナマエがそれに手を振り返せば、彼は満面の笑みを浮かべて水溜まりも気にせずに駆けてきた。
「あの、あなたがここにいらっしゃるのが窓から見えたんです。それで、あなたを雨の下に晒す訳にはいかないと思い……」
 そう、まるで自分の行為を弁解するかのようにまくし立てるコナーにナマエは微笑み、彼が傘をその差している一本しか持ってきていないことに気が付く。ナマエの視線の動きでコナーも彼女の疑問を知り、その彼なりに合理的な理由を説明するため再び口を開きかけた。だがナマエはそれよりも早く一歩踏み出して彼の隣へ並ぶ。彼女のその行動にコナーは少し驚いたようだったが、元々そうなることを望んでいたらしく、照れたような笑みを見せた。ナマエも笑みを返す。
「わざわざありがとう」
「いえ、お礼を言われるほどのことは…………もう少し内側にどうぞ。肩が濡れますよ」
 傘は大きい。二人並んでも十分な余裕がある。でも、そんなことを言って自然な手付き……いや、若干固い動きで、ナマエを近くに寄せようとするコナーに誰が逆らえるだろう?二人は様々な自分なりの理由を付けてお互いに肩を寄せ合いながら、目的地までの300メートルをゆっくりと時間をかけて歩いたのだった。
 


[ 29/123 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -