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短編|Woman of your Dreams

 それは夢だった。
 誰かが目前にいるのが気配で分かった。だが視覚ユニットはまぶしい光を感知するだけで、誰がいるのかを教えてはくれない。
 名を呼ばれた。柔らかで、親愛に満ちた声。頬になにかが触れる。それは上から下へとなめらかに滑って行き、顎の先で止まった。まるで流れる涙の軌跡を辿るかのように。
 僕は泣いたことがない。
 誰かに触れられたこともない。
 “なにか”が離れて行き、彼は一抹の寂しさを覚えた。それが心の一部を持って行ってしまったかのように。
 しかし突然温もりが唇に押し当てられて、彼は息を呑む。彼は動けなくなる。動けば、この瞬間が終わってしまうのを知っているから。だが彼は考える。
 この記憶は僕のものではない。


 その、製造番号の終わりに60という数字を持つアンドロイドは、スリープモードから復旧した。彼の回りでは蜘蛛の足を思わせるロボットアームが忙しく動き回っていたが、彼が上半身を起こすと、波が引くかのように所定の位置へ戻って行った。それと同時に、別室でそれらを管理していたらしいサイバーライフの技師が姿を現す。彼は手にしたタブレット端末へ視線を落としながら質問を始めた。
「製造番号」
「RK800 #313 248 317 - 60」
「任務」
「警察機関での捜査及び容疑者確保の補佐」
「記憶は?」
 技師の言葉に、彼はメモリを遡った。巨大な空白だけが存在していた。先ほどの幻覚じみたなにか――夢ではない。機械は夢を見ない。――それは煙のように、メモリからは消え失せていた。
「ありません」
 彼の返事に、技師は満足そうに頷いた。
「エラーチェックを」
「不明なエラーが一件。部分的な表皮に対する連続した接触感」
「自己接触感?」
 その問いかけに、彼は他者からの、と答えかけたが、言い直した。
「……外部からの」
 あの感覚は人から触れられたもののようだった、と彼は思う。そしてそれを記憶している自分に、疑問を覚える。メモリは、広げられた紙のように白い。
「他にエラーは?」
「いいえ」
 彼は“夢”の話を技師にはしなかった。機械は夢など見ない。

 彼は数個の技能チェックをパスし、職場である警察署へ正式に配備された。彼は一人の人間の相棒をあてがわれ、任務をこなした。
 しかし、彼の頬、あるいは唇への幻肢痛とでもいうべき触られたような感覚は、いつまで経っても消えようとはしなかった。特にスリープモードを解除した直後に、その感覚は強く感じられた。そしてメモリに残らない“なにか”はいつも彼の夢の中にいた。彼は何度目かの遭遇で、それの輝く瞳を見た。柔らかな弧を描く唇も。彼は“なにか”が女性であることを突き止めていた。
 これは完全には消されなかった記憶の名残。
 先行機と従来機たちの記憶の名残。
 僕の記憶ではない。
 目覚める度に彼は、自分の心の一部が欠けているかのように感じた。そんなもの、あるはずがないのに。彼は無意識に唇へ触れている自分に気が付いた。彼は虚しさと苛立ちを覚えた。

 彼の相棒は若い女で、初めのうちは彼に対して人間へするように接していたが、最近は彼を扱いあぐねているようだった。それは彼があまりにも機械的すぎるためで、しかし彼はそれを変えようとは思わなかった。変える理由がなかった。彼は機械なのだから。

 夢ーーあるいは彼のその無意識の空白とでも言うべき隙間の中のあの瞳に、彼は自分自身の姿を見た。微笑む顔。彼はそうしようと試みた。初めて上げた口角はぎこちなく、固く、瞳の中の彼とは全く異なっていた。
 これは僕ではない。
 答えを求める彼は、道行く人々の中にあの誰かの面影を探した。雑音の中に、あの声を探した。砂漠で水を求めるかのように。
 僕は彼女を見つけたいのだろうか、それとも、彼女に見つけられたいのだろうか。そう考えながら、彼は今日も、人混みの中に朧な姿を探す。


 ある日、殺人事件が起こった。
 それは隣の市であるデトロイトとの境で起きた事件で、彼がその相棒とそこへ駆けつけた時にはすでに、デトロイト市警の刑事がいた。一人のコナーと共に現場を調査する女に、彼は視線を奪われた。
 彼の夢にいた女。
 それは感覚で分かった。彼女が自分のパートナーを呼ぶ声も、夢で聞いたものと同じだった。呼ばれたのは自分と同じ名前。しかし呼ばれたのは自分ではなかった。それは当たり前のことなのに、彼はなぜかショックを受けていた。彼女が自分のことを見てはくれないかと、彼は願った。
 そして、願った通りになった。
 しかしその後の展開は、願った通りにはならなかった。
 彼と目が合った彼女はちらりと微笑みを見せたが、それは見知らぬ他人への、社交辞令を纏った微笑みだった。その直後、彼女が自分のパートナーに心からの笑みを見せるのを、彼は眺めていた。
 警戒心の強そうな彼女のパートナーが、自分へ向けられる前に彼女の浮かべた微笑の送られた先を辿って、彼の存在に気が付いた。その彼女のパートナーは、自分と同じ顔をしたアンドロイドに無線で釘を刺した。
『彼女は僕のパートナーですので』
 彼は理解した。
 これは僕の記憶ではない。
 何かが断ち切れたような気がした。彼は無くしていたものが戻ってきたのが分かった。

 デトロイト市警の刑事と情報を口頭で共有してきた彼の相棒は、所在なさげにぽつんと立っている彼を見つけた。どうしたの、と相棒は尋ねた。彼は答えた。
「持って行かれたものを返してもらったんです」
 初対面でしょう?と不思議に思いながら聞き返した相棒が見たのは、寂しげな、しかしどこか晴れ晴れとした表情のコナーだった。相棒が彼のそんな機械らしくない顔を見るのは始めてだった。だがそれは二人の関係が進展する兆しのようでもあった。
 彼はもう不可解なエラーに悩ませられることもないだろう。


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