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短編|彼女はそれを知らないけれど。 ※悲恋/失恋系
彼女がこんなところでお酒を飲んでいるのは、恋人に振られたからだ。
古いジャズのかかる、狭いバーに一人でいるのは。
彼女が雨の中、傘をさしてその恋人を待っていたことをコナーは知っている。秋から冬に変わる季節の中、彼女の息は白かった。彼女はコナーの存在に気が付くと、微笑んで手を振ってきた。コナーはそれ以上の熱量を持った笑みを彼女に返す。
僕のことを待っていてくれればいいのに。
でも彼女は僕のことを待たない。僕が人間ではないから。
コナーがそのバーのカウンター席へ腰掛けると、彼女は顔を上げた。瞳は潤んでいて、頬には涙の跡がある。
「コナー」
彼女が彼の名を呼ぶ。それだけで彼は喜びを得られることを彼女は知らない。
「過度な飲酒は健康を害しますよ」
「大丈夫だよ」
その声は震えていて、彼女が泣くのを堪えていることをコナーに伝えてくる。
僕が現れたせいで、彼女は泣けなくなった。でも、それでいい。あの男のために涙なんで流してほしくない。そう、コナーは思う。
「大丈夫ではなさそうです。ほら、送りますので、もう帰りましょう」
お酒の入ったグラスを彼女の手から遠ざけ、店主を呼んで会計を済ませる。彼女の肩へ手を置いて立つよう促すと、彼女は首を左右に振った。
「帰りたくない……」
「いずれは帰ることになるんですよ。一人で帰るよりは、助けがあった方がいいんじゃないですか?」
暫く沈黙があったが、しぶしぶといった様子で彼女はそのバーの高い椅子から降りようとする。それを支えようとコナーはその手を握った。温かく、血の通った手。
彼女がどうして泣いているのか僕は知っているけれど、彼女は僕が何を思っているのか知らない。そして彼女にそれを知る手段はない。僕がそれを伝えぬ限り。
「足元に気を付けて下さい。外にタクシーを呼んでありますから」
「私はあなたの相棒じゃないから、こんなに気を遣ってくれなくていいんだよ」
「僕がやりたくてやっていることです」
「酔っ払いの介抱を?」
「あなたの手助けを」
彼女が立ち去る恋人の背に手を振っていたことをコナーは知っている。それが小さくなり見えなくなってしまうまで、彼女はそこにずっと立っていた。それを建物の中から窓越しに見つめるコナーの存在を彼女は知らない。
僕の背もそういう風に見送ってくれればいいのに。
でもそうすれば、彼女は僕の背にあるアンドロイドという文字を見つめることになるんだろう。
車内で、彼女は窓の外を眺め続けていた。無人タクシーの狭い車内に彼女とコナーは二人きりだったが、彼女はそれを気にしていないようだった。玄関のポーチに立ってコナーへ背を向けた時も、彼の前で家のドアを開いた時も、彼女にとって彼は決してそういう対象ではなかった。彼はアンドロイドだから。
コナーがその気になれば、閉まりかけたドアの向こうの彼女に伝えることもできた。
「僕はここにいますよ。あなたがそれを知らなくても」、と。
でも彼は代わりにこう言う。
「おやすみなさい」
彼女は無理矢理浮かべた微笑と共に言葉を返す。
「おやすみ、コナー」
ドアが音を立てて閉められた。オートで鍵のかかる冷たい音がそれに続く。
彼女がどういう気持ちで恋人を待っていたのか、僕は知っている。
どういう気持ちでその背を見送っていたのかも、僕は知っている。
彼女はそれを知らないけれど。
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