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11

 雨だ、とコナーは思った。ばらばらと雨粒が鉄板を叩く音が響く。それ以外の音はしない。彼は目を開けた。ナマエの車の中だった。外は薄暗く、かなりの雨が降っているようだ。コナーは自身の足元を見る。濡れてはいない。運転席に座るナマエの靴が濡れているのかは分からない。彼女は無表情でシートに身を預けていて、その顔は外からの薄い光にぼんやりと照らされている。まるで昔に逆戻りしてしまったみたいだ、とコナーは思った。しかし、僕たちはここでなにをしているのだろう、とコナーは疑問を覚える。それを見透かしたかのようにナマエが口を開いた。依然として冷たさすら感じる無表情のままで、コナーは何か言葉に言い表せない違和感を覚えた。
「何をしているの、コナー」
 声も表情と同じく冷たかった。それはコナーの聞いたことのないナマエの声だった。彼女は続ける。
「新しい機体になって少しはましになったかと思ったのに、結果はどう?前よりずっと悪くなってる」
 コナーはなんと返せばいいのか分からなかった。彼女が本当にそう感じているのならば弁解しなければと思う気持ちはあるのだが、声が出ない。ナマエはコナーの方を見ようとすらしない。彼女の言葉はフロントガラスの向こうの暗闇へ投げかけられているかのようだった。
「あなたが早く成果を上げられないのなら、私はサイバーライフに新しいコナーを配備してもらうしかなくなるわ」
 その言葉にコナーは、システムのエラー以上の衝撃を感じた。シリウムポンプが止まるような、寒さに全ての機能が停止してしまうような。そしてコナーは自分がショックを受けているのだと知った。
「結果を出しなさい、コナー。私を失望させないで」
 氷のような声には、有無を言わせない圧があった。コナーは引きつった表情のまま、頷いた。


 本当に彼女だったのだろうか、とコナーは思う。目の前の彼女は最後の一個のドーナツをハンクの目の前で食べているところだった。その穏やかな様子からはあの時の冷たさは微塵も感じられない。だがもしも肯定されたらと思うと迂闊に聞くこともできなかった。
「ナマエ、俺はこの前お前にドーナツをやった。そうだろ?」
「でもそれはコナーが捨てたじゃん」
 ナマエに名前を出されたコナーのLEDが黄色に変わった。しかしそれは人目に付く前に青く戻る。
「それは俺の責任じゃないだろ?なあナマエ、俺は腹が減って死にそうなんだ」
「奇遇だね。私も」
「お前には慈悲ってもんがねえのか?」
「これを休憩所から取ってきたのは私だもん。苦労に対する正当な報酬です」
「ああクソ、そこからそこの距離だろ!?」
「それをめんどくさがったのはハンクでしょー?」
 そう言ってゆっくりとドーナツを囓るナマエは実に楽しげだ。
「ハンクは健康のためにも甘い物は控えないと。ね、コナー?」
 ナマエとしては自然な感じで笑いながら問いかけたはずだった。だがコナーがさっと緊張を露わにしたのを見て、ナマエの表情は不審がるものへと変わる。
「どうしたの?」
 その優しい声色の問いかけにも、コナーの警戒を帯びた緊張は解れない。
「いえ、僕はデータの処理をしていますので、お二人の問題はお二人で解決して下さい」
 つれない返事にナマエは目を白黒させたものの、どこか叱られたように感じたのか、大人しくなった。ナマエはドーナツから自分が囓った部分を取り除くと、残りをハンクへ渡した。礼を言ってそれを受け取るハンクも、彼女と同じような不審の目をコナーへ向ける。コナーは自身の端末へ向かって、黙々と仕事を果たしていた。


 それは突然で、さざ波のように広がっていった。誰かがタブレット端末を片手に、おい見ろよと言う。どうした、何が、誰が、という言葉はそれぞれが違う場所で起こった小さな呟きでも、連鎖して、繰り返されていくうちに大きな声へと変わっていく。署内に広がる異変に気が付いたナマエたちがそれぞれの端末から顔を上げるのとほぼ同時に、誰かがテレビのチャンネルを変えた。
 白い肌……アンドロイドだ。明確な自我を持ったアンドロイドの独立宣言とでもいうべきそれは、その後のニュース番組で幾度となく目にする事となる。だがまだそれを知らぬナマエたちはテレビ画面を食い入るように見つめた。目には見えぬ何かが確実に、そして性急に変化していくのを皆が肌で感じていた。いや、皆何かが変わりつつあることには気が付いていた。見ない振りをしていただけだ。それをこの電波ジャックをした果敢なアンドロイドは、白日の下に晒したのだった。
 放送が終わると、署内はシンと静まり返った。そして一拍置いてから、電話たちがその種類を問わず鳴り響き始める。興奮と恐怖の入り混じったコール音は状況を更に混乱させていった。
 一体のアンドロイドと、二人の人間は、それぞれ互いに顔を見合わせた。しかしそれは疑心暗鬼によるものなどではなく、現状の把握に努めようとする警察官の動きだった。



 長いエレベーターの中で、ナマエは隣に並ぶハンクにそっと尋ねた。
「ハンクは変異体のこと、どう思ってる?」
「俺か?俺は元々好きであいつらを追ってる訳じゃねえしな……人殺しはよくねえことだが、人間が一方的に裁けることじゃねえとは思う……。まあそんなとこだ」
 途切れた言葉の合間に、二人の後ろでコナーがコインを弄ぶ音が響く。
「お前はどうなんだ」
「私?私はそうだな、あの変異体のリーダーが言ってたみたいに新しい種族なら、それと共存の道を探るべきだと思う。……でも、変異体は人間を愛することができるのかな?」
 ぱしん、とコインがコナーの手の内に収まった。
「人間は変異体を愛することができますか?」
 朝からなんだか口数の少なかった彼が、ようやく発した言葉がこれだ。ナマエが驚いて振り返ると、コナーはなんだかばつの悪そうな表情を浮かべて、視線を床へ落とした。
「すみません、聞かなかったことにしてください」
「……できるよ」
 はっきりと断言された言葉は、確信に満ちていて、コナーは安堵と喜びを感じた。しかしそんな感情をどう処理すればいいのか分からず、困惑する。ナマエに見えたのはその眉間を寄せて目尻を下げた表情だけで、聞いてきた張本人であるコナーにそんな顔をされてしまった彼女も彼と同じように困惑して、ハンクに助けを求めた。
「ねえ、ハンクもそう思うよね?」
「あ?俺に話を振るんじゃねえよ」
 ばっさりと一刀両断されて逃げ道を断たれてしまったナマエは繋ぐべき言葉も見つからず、口を閉ざして、エレベーターパネルの数字が大きくなるのを見つめることに集中することにした。

 ナマエとハンクは胸の前で腕を組み、離れゆくFBIの後ろ姿を険しい表情で見送った。
「柿も青いうちは烏も突かず……、だったか」
「なにそれ」
「なんかの引用だ。あいつら、旨いとこばっかりかっさらって行きやがる」
「あいつらより先に証拠をつかんでやる!」
「それじゃ、後はお前に任せた」
「任せて!ってうん?」
 意気込みつつも、これは丸投げされたのだろうかとナマエは首を傾げた。

 大画面に映し出されるアンドロイドの顔を三人は並んで眺めた。
「あれがrA9か」
 変異体たちが崇める存在であるrA9。彼らを解放するという使命を背負った彼こそがrA9なのだろうかとは誰もが思うことだっただろうが、三人にとっては、どこか腑に落ちないことでもあった。彼らの崇め方は、実在する指導者に対するそれではなく、もっと概念的な存在に向けるもののように思えたからだ。そう例えば、人間から神への信仰のような。だがそれをあえて口にするものはいなかった。概念的な変異体たちの神を定義している時間は無かったからだ。
 しかしナマエは、コナーがそのアンドロイドの自由を表明する指導者から視線を外せないでいるのを見ていた。人間があの放送に対して抱える気持ちはたいていが恐怖や困惑だろうが、アンドロイドである彼はどうなのだろうとナマエは思った。彼はどちらの側に立ってこの指導者を眺めているのだろうと。自由か、恐怖か。
 だが彼女はそれを安易に尋ねられなかった。彼がなにであるのか、今ここで聞きたくはなかった。

 クリスから監視カメラとそれを担当していたオペレーターのアンドロイドの話を聞いたナマエはコナーを探した。今日の彼はどこかおかしい。意識して私から距離を取ろうとしているみたいだとナマエは思い、少しの寂しさを覚えた。
 入り口付近に彼はいて、誰かと話している。その珍しい光景にナマエは興味を惹かれた。近づいて話し相手の顔を確かめ、彼女は悲しみと僅かな焦りを感じる。コナーと話していたのは、八月のいつだったか、人質事件のあったあの屋上で“前の彼”が助けた警官だ。今のコナーではなく。ナマエは会話に割って入るべきか悩んだ。
「私ではありませんよ」
 文面だけでは冷たさを感じる言葉だったが、コナーはそれを柔らかな口調で、微かに申し訳なさそうな表情を浮かべながら伝えられるようになっていた。彼の目前に立つ警官が驚いたのは言葉の内容か、それともその人間らしい所作によるものか。
「そうなのか……俺はその……」
 言葉が見つからない様子で俯く警官に、コナーは助け船を出した。
「私の前任者があなたを助けたようですね。そのことなら、私も知っていますよ」
「そうなんだ。だから礼を言いたくて、あんたのその前任者とやらに……彼はどこだい?」
「彼はもういません」
 警官はその一言で察したようだった。気まずそうに視線を落とし、そうかと気落ちした様子で告げて仕事へ戻ろうとする。その後ろ姿へコナーは声を掛けた。
「ですが、彼はきっとあなたの命を救うことができてよかったと思っているでしょう」
 彼の言葉に振り返った警官は、少し戸惑いながらも頷きを返す。その動作に込められた感謝の念、それをコナーは、自分を通して前任者が受け取ることを自然なことのように思った。
「コナー」
 控えめに掛けられたその呼び声へコナーは向き直った。見れば、ナマエがどこか誇らしそうにコナーを見つめている。
「今のやりとり、すごくよかった」
「僕は褒められるようなことはなにも」
 謙遜ではなく、事実としてそれを述べるコナーに、ナマエは微笑みを送る。
「彼が傷つかないように気を遣ってた。それって大事なことだよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
 ナマエは笑顔で肯定したが、当のコナーは浮かない顔だ。コナーは去って行った警官をしばし眺めたあと、口を開いた。
「いなくなる、とはこういうことなんですね」
 その深刻そうな声色に、ナマエは姿勢を正して言葉の続きを待つ。
「彼がいなくなっても時間は流れ続け、彼が受け取るべきだった言葉や感情は、どこかへ消えてしまう」
 落ち着いた声だったが、そこにナマエは恐怖の影を感じた。しかしそれは誰もが抱えるもので、誰もがいずれは乗り越えなければならないものだ。彼女は励ましよりも現実を伝えることを選んだ。
「しかたないんだよ。だからこそ、彼が代わりのいない唯一の存在だったんだって皆が思える。彼の開けていった穴は彼にしか埋められない」
「僕にも、それはできませんか?」
 多分この言葉は、以前のような意図で発せられたものではないのだろう。ナマエは眉尻を下げて弱々しく笑った。
「結局は、自分で埋めていくしかないんだけどね。でも、あなたの存在が助けにはなると思う」
 そう言って彼の背をぽんと叩けば、たいした衝撃でもないはずなのに、彼のリングは黄色く光った。

 キッチンに並んだ三人のアンドロイドに、コナーは尋問を試みていた。数個の質問の後、ナマエがコナーの脇に立ち、そっと耳打ちをする。おそらくいるであろう変異体に唇の動きを読まれぬよう、広げた手のひらを二人の間の架け橋にして。
「左端が動揺してるみたい」
 そう言われたコナーがそのアンドロイドを視界へ入れると、他の二人が無関心に虚空を見つめているのに対し、彼はこちらへ視線を向け、どうやら様子を伺っているらしい。コナーが彼を目に入れると、その視線は慌てて逸らされた。
「君が変異体だ。そうなんだろう」
 返事はない。コナーは彼にずいと近づき、威圧する。
「もう目星はついているんだ。君を署まで連行する」
「私はこの放送局の所有物です。局外に所有物を移動させるのは禁じられています」
 どこまでもしらを切り続けるつもりらしいアンドロイドに、コナーは若干の苛立ちを覚える。彼が変異体であるという確証をここで掴まなければ、署まで連行したところでいつまでも変異していないふりを続けるだろう。
 コナーは自身の背へ注がれるナマエの視線を意識していた。そして彼女に車の中で任務について釘を刺されたことを思い出す。彼女に評価してもらえるような行動を取らなければと彼は思い、その焦りは彼を強硬手段へと走らせた。
 コナーがアンドロイドから鼓動を制御する生体部品を抜き取れば、背後のナマエが息をのんだ。
「ちょっとコナー、それはやりすぎ!」
「こうでもしないとしっぽを出さないようですから」
「でもそれじゃあ自白を強要しているようなものよ」
「問題ありません。彼がアンドロイドならシャットダウンへの恐怖など感じはしないでしょう」
 淡々とそう言うコナーへナマエの方が恐怖を感じた。まるで以前の彼に戻ってしまった、いや、それよりも無感情になってしまったかのような彼が怖かった。このままこの行為を続けさせることはコナー自身に悪影響がありそうで、ナマエは二人の間に割って入ると、コナーの手からモジュールを奪い、アンドロイドの胸部へ差し込んだ。
「何をするんです」
 ナマエの肩を掴んで、コナーが非難の声を上げる。ナマエはコナーへ向き合うとその冷静なブラウンの瞳を睨み付けた。
「もっと他の方法があるはずよ」
「これが一番早くて確実でした。なぜ邪魔をするんですか」
「今のあなたにこんな非人道的なことをして欲しくないから」
「私にどうしろと言うんです?結果を出せと言ったのはあなただ!」
 はしごを外されたような気分になって、コナーはそう叫んだが、ナマエは戸惑った様子で首をかしげた。
「私そんなこと言ってないよ」
 二人は互いに顔を見合わせた。だがそれは一瞬のことで、ナマエは急に背後から強い衝撃を受け、彼女を受け止めようとしたコナーを巻き添えにしながら床へ倒れ込む。やはり変異体であったらしいアンドロイドがその隙を突いて駆け出すが、素早く立ち上がったナマエがそれに猛然と掴みかかっていく。ナマエの渾身の体当たりを受けた変異体はバランスを崩し、ナマエがマウントを取ろうとそれを地面へ引きずり倒そうとする。抵抗する変異体とナマエは激しい取っ組み合いを始めた。ナマエの下敷きになっていたコナーは出遅れはしたもののそれに加勢しようと近づくが、一瞬のきらめきが全てを変えた。
 赤い飛沫が飛び散る。ナマエは悲鳴も上げず姿勢を崩した。それを押しのけて、その変異したアンドロイドは部屋の出口へと走る。その手には赤い血に濡れたナイフが握られていた。
「おい、なにが」
 戸口に現れたハンクはそれを見てぎょっとしたかのように飛びすさる。
「ハンク!変異体です!追って下さい!」
 コナーがそう言わずとも、ハンクは部屋の惨状を見て状況を理解したようだった。素早く踵を返して部屋を出て行った変異体を追う。
 コナーはナマエの元へ駆け寄った。跪いた彼女はあふれ出る血を押さえていた。シャツはそのほとんど全てを赤色に染めていて、もはやどこから出血しているのかすら分からない。スキャンしなくともこのままでは失血死の可能性が高いのは分かった。
「ナマエ!」
「変異体を、追って」
「ですが、」
「いいから、早く!」
 真っ青な顔をしながらナマエはそう命じた。コナーはプログラムと彼女の命令が体を動かすことを恨めしく思った。

 変異体を“射殺”したコナーは感傷に浸る間もなく、ハンクと共に急いでナマエの元へ舞い戻った。ナマエは床へ横たわり、タオルで出血箇所を圧迫止血していたが、押さえる力が足りないらしく、未だ出血は続いている。コナーはナマエを後ろから抱きかかえると止血役を替わった。
「変異体は」
「僕が射殺しました」
「こいつがやらなかったら、他の人間にも被害が及んでた」
 屈み込んだハンクが横からそっとフォローを入れる。
「よかった」
 その声があまりにも弱々しくて、コナーは強い不安を覚えた。圧迫する手に力を込めると、傷に響いたらしくナマエがうめき声を上げる。
「すみません、ナマエ。でも僕は、あなたに死んでほしくないんです。あなたを喪ったら、僕は……」
 ナマエがふっと笑った。動く唇に、言葉を聞き取ろうとコナーは耳を寄せる。
「コナー、LED真っ赤だよ」
 血の気の失せた白い手が、コナーのこめかみをぴんと弾いた。


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