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10

 翌朝、短く鳴らされた玄関ブザーに応じてみれば、ポーチにナマエが立っていた。
「おはようございます」
 コナーがドアを開けて顔を覗かせれば、ナマエはどこかほっとしたような表情を浮かべた。
「それじゃあ、喧嘩したりとかはなかったんだね」
「ええ。ハンクもそれほど飲まれなかったので」
「そのハンクは?」
 馴れた様子でドアをくぐったナマエは室内を見渡しながらそう尋ねる。平日の午前8時、普通の人間ならばもうとっくに起床している時間だ。
「まだ就寝中です。今日は特にこれといった事件の通報も入っていませんし、昨日から働き詰めでしたから」
 そう言ってコナーは同じく働き詰めであるナマエへ視線を向ける。コートを脱いだ彼女は勝手知ったる様子で、キッチンでコーヒーを淹れている。
「あなたは十分な休息を取れましたか?」
「私はほら、若いから」
 ナマエはDETROIT POLICEと印刷されたマグカップ片手に冷蔵庫の中身を改めながら、そんなのんきなことを言う。
「無理はしないでくださいよ」
 釘を刺すように言えば、返ってきたのは微笑みだった。はぐらかされたように感じたコナーは更に続けるべき言葉を探したが、彼がそれを発するよりも早く、ありがと、という若干の照れを含んだ短い返事があり、コナーは満足した。

 あ、と声を上げてナマエは冷蔵庫から出した牛乳パックのある一部分へ視線を落とした。そして、コナーをちらりと見やり、ぎこちない動きでそれを背に隠す。それになにか不穏な気配を感じとったコナーは素早くナマエの元へ行き、その手から牛乳を奪い取った。
「まだこれ飲め」
「飲めません」
 ナマエの問いかけを遮って、コナーはまだ半分以上あった牛乳の中身を容赦なくシンクへ捨てる。それをナマエはあーと力の抜けた声を発しながら見守った。
「まだいっぱいあったのに!」
「消費期限の切れたものを摂取しようとしないで下さい!」
「でも昨日切れたばっかだった!」
「消費期限というのは限度を表しているんです。摂食可能な限度を、です。あなたに体調を崩されたら困るのは僕なんですよ」
 もっともな言葉に反論できないらしいナマエは不満げな顔をしたまま、マグカップを揺らして見せる。湯気の立つその中身は黒いままで、ナマエはそれを飲むことができない。彼女のそのいじらしい無言の訴えに、コナーは思わず表情を崩した。
「買いにいきませんか」
「行く」
 その即座な返事に、コナーは微笑んだ。

 久々の日差しが、デトロイトの街に降り注いでいた。昨晩降った雪は集められた道路脇で溶けつつあり、もう少し日が高くなればそれは跡形も無く消えてしまうだろう。
 ナマエが傍らを歩くコナーへ視線を向ければ、それに気が付いたコナーもまた、ナマエへとそのブラウンの瞳を動かす。ぱっと視線がかち合い、二人はまるでお互いに魅入られたかのように動けなくなった。相手が自分と同じことを考えているのが分かる。しかしナマエは理性の力を持って、その誘惑から抜け出した。コナーもどこかしぶしぶといった様子で視線を戻す。
 しばらく二人は全く別々の方向を眺めながら、しかし同じものを見て歩いた。アンドロイドだ。
 ナマエは笑顔で人間に付き従うアンドロイドを眺めながら、彼らも心の中では人間を憎んでいるのだろうかと考えていた。彼女が出会った変異体は全て、人間に対して恐怖か嫌悪の気持ちを抱えていた。それは今まで人間に奉仕してきた反動なのだろうと理解はできるが、同時に悲しくもなる。人間と変異体は共存できないのだろうか?ナマエはコナーのことを思う。彼も変異したら私のことを憎むだろうか。
 コナーは彼らと自分の違いを考えていた。人間に従順な彼ら。人間の後ろを歩く彼らと、彼女の隣を歩く自分とは、明らかに何か違いがある。それは元々のプログラムの違いか、主人の有無か?あるいは自身を定義してくれる存在の有無だろうか。無意識に彼は自分と似た存在を探していた――変異体を。そんな彼に誰かが、そっと目配せしたような気がした。だがそれはほんの一瞬のことで、彼がそれに気が付くよりも早く、それは人混みのなかに紛れて消えた。
 急に立ち止まったコナーを追い越してしまったナマエは、振り向いて声をかける。コナーは誰かを探すかのように、人混みのなかに視線を送っていた。
「どうしたの?」
「いま、誰かに……いいえ、気のせいだったようです」
 不思議そうに首を振るコナーは、なにか自分が重大な機会を逃してしまったような不透明な焦りを感じつつも、再びナマエの隣へ並んだ。
「それで、どこまで買い物にいくつもりですか?」
 すでに何軒かの食品量販店は通り過ぎていたが、どこか目的地のありそうなナマエの歩みに、改めてそう問いかける。
「せっかくだから外で朝ご飯食べて行こうかと思って。牛乳はそのあと」
「まだ朝食を摂取してなかったんですか?」
「署に行く途中で食べようと思ってたんだよね」
「ハンクの家へ戻ったら、そのまま署へ向かいますか?」
「そうだね、証拠品とデータの整理をしないと」
 言葉は意欲ある刑事のそれだが、表情の方はナマエの本音を語っている。彼女は面倒くさそうにふわとあくびをした。
「疲れているようですが」
「ただの寝不足。昨日の乱闘のせいで体中が痛くて」
 その言葉にコナーは昨晩のナマエの様子をメモリから引き出す。痛覚もなく、打撲に強いボディを持っているコナーは受けたダメージも少なく、後遺症のたぐいも残らなかった。しかし、ナマエは人間だ。見れば頬ではファンデーションを透かして紫の打撲痕がうっすらだがその存在を主張しているし、歩き方もどこかぎこちない。
「すみません、僕は……気が付きませんでした」
 こんな大切なことを見落とすなんて、という後悔の念が込められた言葉に、ナマエは優しい微笑みを返す。
「大丈夫。私はほら……若いから、ね?」
「あなたももっと自分を労るべきです……いえ、それ以前に僕がもっと早くあの二人を制圧できていれば」
 俯いて完全に落ち込んでしまった様子のコナーに、ナマエは励ましの言葉をかけてやる。
「私たちはパートナーなんでしょ、パートナーはお互いのために体を張るし、それを申し訳なく思ったりしない」
 顔をのぞき込んで、ね?、と無理矢理同意の言葉を引き出そうとすれば、コナーは未だ眉尻を下げたままではあったが、唇の両端を微かに持ち上げた。
「僕たちはパートナーですか」
「自分でそう言ったじゃない。私は、覚えてるけど?」
 明るい日差しの元、からかうような調子で言う彼女の存在がまぶしい。それは集光センサーを調節しても、変わることはなかった。

 彼女の目的地というのは、アンバサダーブリッジの見える小さな公園だったらしい。その近くの屋台でホットドッグを買ったナマエは空いているベンチに座る。コナーも同じように隣へ座った。昨日より暖かいのもあって、公園には親子連れが多い。目の前を小さな子供が駆け抜けて行くのを見て、ナマエはその平和を象徴するかのような光景に頬を緩めた。
「なぜここに?ホットドッグなら他にも何軒か販売しているところがありましたよ」
「ここの景色が好きだから」
 大河とそれに架かる巨大な橋は確かに壮大ではあった。しかしコナーはそれよりもそれを眺めるナマエの横顔を見ることを優先した。
「ここはね、ハンクがいなかった時に探す候補地の一つだったとこなんだ」
 昔を懐かしむような雰囲気がそこにはあった。しかしそれに混じるのは悲しみではなく、なにかを喜ぶような、それを過去形で話せることへの安堵のようなものがあった。コナーは昨晩のハンクとのやり取りを思い出す。
「ハンクに一体、なにがあったんです?」
 もしもコナーが、ただの情報収集の一環としてそれを尋ねてきているのならば、ナマエは話さなかっただろう。だが彼女はコナーの声に潜む、ハンクを心配する気持ちを見逃したりはしなかった。
 ナマエはハンクとその息子の話をした。その後、ハンクがどのように荒んでいったのかも。
「真夜中に、ハンクはここでお酒を飲んでた。嵐が近づいてて雨が降ってたのに、ハンクは傘も差してなかった。多分、気付いてすらなかったんじゃないかな。彼は水位の上がった川を手すりから身を乗り出して、食い入るように見てた。私は彼が、死ぬんじゃないかと思って怖くなった。彼を無理矢理自分の家に帰らせて、そのテーブルの上に銃が乗ってるのを見て、もっと怖くなった」
 ナマエは一端言葉を句切り、遠くを見ていた視線を自身の手の上へと戻した。
「その時の私はまだ何も失ったことがなくて、彼になんて言ったらいいのか分からなかった。想像で言うしかなかった……でも、今はここでハンクがなにを思っていたのか分かる」
 声は一度悲しげに沈んだ、だがまたすぐに明るい調子を取り戻す。ナマエは顔を上げた。
「それに、前を向くよう言ってくれる人のありがたさもね。……私はあなたにも感謝してるの、コナー」
 急に話を振られて、彼女の話に身を入れて聞いていたコナーは驚く。
「僕に?なぜですか」
「あなたが先に進もうとしてる姿を見て、私も過去から抜け出そうと思ったの」
 ありがとう、という言葉と共に重ねられた手は柔らかく、温かかった。人間の体温。アンドロイドは寒さを感じないから、温もりを求めたりはしないはずなのだが、その時のコナーは違っていた。もっと彼女を触れあっていたかった。
 コナーの冷たい指が頬に添えられるのをナマエは感じた。ブラウンの視線が、許可を求めるかのように彼女の瞳を探る。ナマエは目を閉じた。
 優しく落とされた口づけにはどこか怖々としているような固さとぎこちなさがあって、ナマエは思わず微笑んでしまった。


 ハンクの家へ帰り着くと、その家主は片手に持ったナマエのメモ書きをひらひらとさせて見せた。
「牛乳買いにどこまで行ってんだ」
「お昼ご飯も買ってきたよ。あと、ハンクの当座のご飯もね。この家乾き物しかないんだもん」
 コナーから手渡された袋の中を覗き込み、ハンクは一応の礼の言葉を返す。
 一方キッチンへ向かったナマエは自分がコーヒーを淹れたはずのマグカップが空になっていることを知って、不満げな声を上げた。
「私のコーヒー!」
「悪いな、俺が飲んじまった」
 飄々とした口調で返された言葉に対して、ナマエは抗議の声を上げる。しかしコナーがそれをなだめた。
「僕が新しいのを淹れますよ。あなたのコーヒーの好みを知りたい」
 そう言いながらキッチンへやってきたコナーをナマエは笑顔で迎え入れ、どこに何があるのかを嬉しげに教え始める。
 仲良くなりやがってよ、とハンクが言葉とは裏腹に嬉しげな様子で呟いたことにコナーは気が付いていた。


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