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短編|別れた恋人とコナーとコーヒー豆の話(あるいは、壁のペンキの跡の話)

 朝、コナーはベッドの上で身を起こす。
 彼は眠らない。彼にベッドは必要ない。
 だが、恋人がいた頃の名残で彼は夜をベッドの上で過ごす。ダブルサイズのベッドに敷かれたシーツの半分にだけ、皺が寄っている。
 足を降ろしたフローリングが薄く埃に覆われていることに気が付いて、コナーは掃除の必要性を感じる。今までは、綺麗好きな恋人が率先してやっていたことだ。
 そしてコナーはシャワーを浴びる。再開発前に建てられた一軒家の給湯システムでは、お湯が出てくるまでに時間がかかる。コナーは冷水を浴びる。ちょうど彼がシャワーを終える頃にようやくお湯が出てくる。だから、ナマエはいつもコナーの後にシャワーを浴びたものだった。意味のない記憶。意味のない行為。

 下の階へ行く。いつも漂っていたコーヒーの香りがなくなってからしばらく経つ。ナマエが置いていったコーヒーメーカーは、キッチンで他の調理家電たちと一緒に埃を被っている。使わなくなると、どれもこれもすぐに埃に覆われる、とコナーは思う。もしかすると、僕にも埃が積もっているのかもしれないな、とも。
 彼は家電たちに同情し、掃除をしてやる。今日は割り当てられた休暇を消化する日であり、時間は嫌になるほどあった。外は雨だったが、コナーには関係がなかった。ナマエがいない休日に、やることなど何もない。
 古典的な掃除道具の一つであるハタキを持って、コナーは家の中を歩き回る。映像を映さなくなって久しいテレビや、片方の端だけ凹んでいる二人がけのソファの埃を払う。ナマエはほとんどの物をこの家へ置いていった。その理由は分からなかったが、コナーはそれに感謝していた。物を見る度に、ナマエのことを思い出せるからだ。彼がほとんどの部屋も機能も必要としていないこの家に住み続けているのも、同じ理由からだった。

 古い家だった。内外共に荒れていたこの家を借り、二人はリフォームを重ねた。ドアや窓枠を取り替え、レンガを積み直し、階段を補強して、壁を塗った。中でもリビングの壁は思い出深い。ホームセンターで一番安かったティールブルーのペンキを大量に買い込み、二人は丸一日かけてその壁を塗った。滑らかな壁面はコナーが塗ったところで、少し刷毛の跡が残ってしまっているのが、ナマエの塗ったところだ。コナーは愛情深く、そのペンキの溝を指先でなぞった。
 アンドロイドに、記憶の劣化というものは存在しない。それに伴う感情の減退もまた、ない。コナーはいつでもナマエと恋に落ちた時の衝撃や、晴れて彼女を恋人として迎えることができた時の喜びを、思い出すことができる。何も薄れず、何も変わることはない感情を。
 だがそれはよくない記憶や感情においても同じことだった。ナマエとの間に度々起こった些細な諍いや、相容れなかった意見の数々を、それが起こった時と同じ繊細さ、新鮮さを保ったまま、コナーは思い起こすことができた。
 それが、彼は嫌だった。
 だから彼はそれらの嫌な記憶を、圧縮し、アーカイブ化して、簡単には記憶の表面へ浮かび上がってこないようにした。
 彼らが別れる原因となった喧嘩に関してもそうだ。コナーはその時の記憶を別の記憶領域へ移して、意識して掘り起こさなければ思い出せないようにした。そうしなければ、時系列順にみて一番直近にあるその記憶が、それ以前の、ナマエと出会い、恋に落ち、そして付き合っていた頃の幸福な記憶に重しのように覆いかぶさってくるからだ。

 外の雨音が強くなる。結局、壁が薄い問題は解決しなかったな、とコナーは思う。建てた時に断熱材を節約し過ぎたらしい壁は薄く、外の音をよく伝えてくる。ナマエはそのことがあまり気に入ってはいなかった――うるさいし、冬は寒い、と彼女は文句を言っていたものだ。
 コナーは好きだった。壁を通して人間たちの行き交う音を聞くことや、暖房の効きが悪いと言って身を寄せてくる彼女を温めてやることが。
 もしも今、ナマエがこの家にいたのなら、雨のせいで寒いと言って、コナーにじゃれついていただろう。ソファか、ベッドの上で。何度繰り返しても飽きない行為。何度思い起こしても薄れない記憶。

 ソファへ腰掛け、記憶の海に身を浸すコナーを包む雨音が、不意に乱れた。外で響くその音が、ナマエの足音に似ている、とコナーは思う。いつもそれを聞き取っては、玄関で彼女を待ち受けたものだった。大抵それは夜のことだったから、コナーは玄関の明かりを灯し、鍵を、ドアを開ける。ナマエは明かりが付いた時点でコナーがドアを開けてくれることを知っているから、ただ、待っている。彼女の信頼に応えるあの短い時間。その瞬間をコナーは愛していた。
 足音。やはり足音のように聞こえる。傘はさしていないようだ。踏まれる砂利の音には迷いが感じられた。行き、戻る。雨の降りしきる中を。
 コナーは立ち上がり、玄関へ向かう。薄暗いものの決して暗くはない天気だが、彼は明かりを灯す。儀式のような行為。ナマエのための一連の手順。鍵を開ける。足音が、引き寄せられるかのように近付く。
 そしてコナーはドアを開いた。


 もしかすると、その願掛けのような行為が、結果を手繰り寄せたのかもしれない、とコナーは思う。あり得ないと知りつつも、彼は思う。目の前に、ナマエが立っている。雨に濡れて、震えながら。
 ナマエはコナーを見上げ、そして視線を地面へ落とす。コナーは何と声をかけるべきなのか分からない――選択肢が多すぎる――だが、彼女をこのまま雨に打たせていていいわけがないことは分かった。
「中に――」
 その言葉に、ナマエは顔を上げる。色の失せた唇が震え、言う。
「……ごめん」
 何に対しての謝罪なのだろう、それは。この家へコナーを置いて出て行ったことか、この家へ再び戻って来たことか?
 その時選ぶべき台詞が一つしかないのなら、それは真に心から出た言葉だ。
「ここはまだ、あなたの家ですよ」
 ナマエは目元を拭う。拭われたのはただの雨水だったのかもしれないし、他の何かだったのかもしれない。どちらにせよ、コナーは彼女を抱きしめ、温めてやりたくなった。だが二人の間に横たわる、短くはない時間と空間がそうさせてはくれない。コナーは半歩引いて、ナマエへ家の中に入るよう促した。彼女はそれに大人しく従う。たちまち、玄関は水浸しになった。
「タオルを――いや、シャワーを浴びるべきですね」
「……いいの?」
「服なら、クローゼットにそのままになってますよ」
 あなたが置いていった時のまま、とコナーは声に出さず続ける。微かな頷きを返すナマエは、別れた時から少しも変わっていないように見えた。何も損なわれてはいない。
「ありがとう」
 そしてバスルームのある上階へ向かう彼女の背を見送り、コナーは短い夢を見ているような気持ちになる。いつか覚めてしまう夢を。しかし彼はアンドロイドであり、夢は見ない。ナマエの使うシャワーの音が、現実の延長線にあることを告げてくる。彼はコーヒーを淹れて待つことにした。

 冷蔵庫にコーヒー豆があったはずだ、とコナーは考える。彼の記憶の通り、ほとんど何も入っていない冷蔵庫の片隅にそれはある。賞味期限のぎりぎり端で踏みとどまっているコーヒー豆。未練の塊。
 ナマエは他の物と同じように、冷蔵庫もそのままにして残していった。だから、冷蔵庫の中では食べ物や調味料たちが、使う人間もおらず、ゆっくりと消費期限を迎えて死んでいったものだった。彼らはまるで、コナーの偽物の生活には付き合えないと無言で突き付けているかのようだった。
 そしてこれ――コーヒー豆だけ残された。
 ナマエがいつか戻って来るのではないかという願いを託されていたそれをコナーは取り出し、香りを確かめる。だが彼にコーヒーの良し悪しを判別する能力はない。彼はそれをコーヒーメーカーにかける。
 コーヒーが出来上がる頃、ナマエが髪を拭きながら上の階から降りてくる。いつもの朝の光景のリフレイン。彼女の表情が明るくなることに、コナーは希望を見る。
「……コーヒー、淹れたの?」
「ええ」
 コナーはナマエへソファを勧め、自分もその隣へ腰を下ろす。彼女はコーヒーを飲む。
「これ、私が置いていったやつ?」
「そうですね」
「酸化してる」
「それは……不味いということですか」
「古い味がする」
 と言いつつも、ナマエはコーヒーをもう一口飲み、そのままカップの中へ視線を落としたまま言葉を続けた。
「まだこの家に居ると思わなかった」
「居ると思ったから、ここに来たんじゃないんですか?」
 ナマエは気まずげに「まあね」と返す。なぜ再びこの家へ戻って来る気になったのか、コナーは問う。
「なにか、あったんですか?」
 ナマエをなるべく長く引き留めるために、コナーは慎重に言葉を選ぶ。たかだか一杯のコーヒーでは、長い時間は稼げない。彼女はため息をつき、憂鬱そうに言葉を返す。
「家を追い出されたの。彼氏に」
「……彼氏に?」
「そう。別れようって言ったら、追い出された。家賃払ってたのは彼だから、そうする権利があるんだってさ」
 コナーは驚きと若干の悲しみを覚えた。コナーとナマエが別れてから経った時間は短いものではない。しかし、ナマエがコナー以外の誰かへ気持ちを向けたのだと知ることは、コナーには辛いことだった。
 だがすぐにそれは怒りへと取って代わる。彼女を雨の中へ放り出した男への怒りだ。
「なんて酷いことを……!」
「ね。だから……」
 ナマエは言葉を切り、少し視線をさまよわせた後、呟く。
「あなたが、まだこの家に居てくれてよかった」
「……他に、行くところなんてありませんよ。僕には」
 返す言葉に秘められた皮肉と寂しさを、ナマエは敏感に感じ取る。困ったように眉尻を下げて黙ってしまった彼女へ、コナーはずっと答えを知りたかったことを尋ねた。
「どうして僕をここから追い出すのではなく……あなたの方が出て行ったんですか?家は人間の住むべき所ですよ。僕一人では、持て余してしまう」
 言葉の終わりに、僅かながら乞うような響きがあることに彼女は気が付いただろうか?しかしナマエは考え込むかのように、再びカップの中を覗き込んでいる。コナーは返事を待つ。彼女は言う。カップへ言葉を注ぐかのように。
「この家はあなたとの思い出が多すぎるから……」
 顔を上げたナマエは物憂げに部屋の中を、家具たちを見渡し、言葉を継ぐ。
「何を見ても思い出しちゃう」
「僕のこと、思い出したくなかったんですか」
「喧嘩して、別れた後に?」
 ナマエはコナーを見つめる。思い出したい?という省略されて仕草に押し込められた言葉をコナーは読み取り、反論する。
「僕はあなたとのことなら、なんだって思い出したいですよ」
 微かに細められたナマエの瞳が、奇妙な感情の色を帯びる。疑いのような、怒りのような。
 彼女はコナーから顔を背けて、室内へ視線を移す。
「壁、塗り直したの?」
 不可解な問いかけに、コナーは首を傾げて見せる。
「いいえ?」
 ペンキ跡の残る壁をナマエは見つめている。そこは、彼女が塗ったところだ。コナーが塗ったのなら、跡は残らないはずなのだから。ナマエは壁を見つめ続ける。沈黙が場を支配する。思考と、不穏の、沈黙が。彼女が口を開く。
「また、やったんだ」
 とナマエは言う。そしてコナーを見据える。
「あの日、なんで喧嘩したのか、覚えてる?」
 あの日。おそらくそれはナマエが出て行った日のことを指している。
 あの日。
 コナーは心の奥底に沈めていた記憶を嫌々辿ろうとするが、ナマエの声がそれを妨げる。
「もういい」
「でも……」
「思い出さないといけないってことは、忘れたってことでしょ」
 気怠げな様子で、ナマエ息を吐いた。それはコナーの、思い出さなければならない、という思いを加速させていく。
 ナマエはコーヒーカップをテーブルの上へ戻し、立ち上がろうとする。湯気の立つコーヒーはまだ半分以上も残されているのに。コナーは彼女の翻える袖を引き、元の場所へ戻そうとする。何もかもを。
「ま、待って下さい」
「私は、また同じことで喧嘩したくないの」
「同じ――?……僕がこうして、忘れること、ですか」
 ナマエは頷く。
「あなたはいつもそう。私たちの間にあった、嫌なこと全部、一人で消していってしまう」
 ナマエが静かな声で「私たちのことなのに」と呟く。ぱちん、と記憶の泡が弾ける。

 ――――ティールブルーのペンキは二人が買い占めてから補充されておらず、かわりにコナーは青と緑のペンキを混ぜて使った。
 完璧な色。あのペンキと同じ色。刷毛へ付ける量も同じ。塗る時の腕の角度も、微妙な力加減も、残る跡も。
 そしてコナーは壁の傷を塗りつぶした。

「壁に、傷が……」
 そんなことなどなかったかのような壁面を見ながら、コナーは言葉をこぼす。そして時系列を遡り、なぜそれができたのかを“思い出す”コナーを、ナマエは遮り、先手を打った。
「怒った私が物を投げて、あなたはそれを避けた。物は壁に当たって……傷が付いた」
 信じがたい言葉に、コナーは思わず反論する。
「あなたは感情的になって物を投げたりなんかしない。そんな人じゃないはずだ」
「いいえ。投げた。私は投げたの。怒って、言葉にするより簡単な方を選んだ」
 淡々と言葉を並べるナマエに、その時の怒りはもう、ないようだった。今はむしろ悲しみの方が上回っているようで、微かにその瞳は潤んでいる。
「私はあなたに分かってほしかったのに。そんなに怒ってるんだってこと……怒ってたんだってこと……」
 コナーと別れてからナマエは、幾度となくこの喧嘩のことを思い出したのだろう。自分の発した言葉を振り返り、感情を辿り直していたのだろう。そしてコナーの言葉も同じようになぞり直していたのだろう。もしかすると、あの時見つけられなかった、より良い解決策を思いついて悔やんだかもしれないし、お互いの心無い言葉を掘り返して涙したかもしれない。ナマエは。

 だがコナーはそうしなかった。

 壁の傷には確かにナマエの感情が残されていたはずなのだ。分かってくれないコナーへの憤りや、こうせざるを得ないことへの悲しみが。
 だが、コナーはそれを塗りつぶした。そして全てを忘れ、何事もなかったかのように、毎日それを眺めていたのだ。
 ――僕は、ナマエにも、同じことをしたのか。彼女の感情を塗りつぶし、消して、素知らぬ顔をしていたのか。
 コナーは堰を切ったように襲い来る罪悪感に、思わず身震いをした。
 ――今までは自分だけのことだと思っていた。自分の記憶なのだから、それをどう切り取り、固定し、忘れようとも、誰にも関係がないことだと。
 だから、“あの日”もナマエの言い分を理解できなかった。だがそれは――二人の間にあった嫌な記憶から目を背けることは、彼女の感情を無視し、押し殺し、抹消することでもあったのだ。
 そのことを、ようやくコナーは理解した。

 解凍された記憶はあるべきところへ収まり、コナーはナマエの愛すべき顔の、その眉が釣り上がり、唇は歪み、瞳が鋭く睨みつけてきた時のことを思い出した。
 ナマエから完璧さのヴェールは取り払われ、盲目的な美しさは失われた。
 だがそのことで、コナーは彼女の顔に散りばめられた記述子をよりよく読み取ることができるようになった。
 目の下のクマは、彼女が眠れぬ夜を過ごしたことを伝え、痩けた頬は、彼女の荒んだ日常を教え、手入れされていない唇は、彼女が愛の失せた日々を送ってきたことを表していた。
「……思い出した?」
「ええ」
 コナーの向けてくる視線が、少しばかり変化したことを、ナマエは感じることができた。そして自分が立ち去るべき時が来たのだということも。――雨が止み始めていた。
 幾分か冷めたコーヒーを一息に飲み干したナマエは改めてソファから立ち上がる。「コーヒーをありがとう」と言って。コナーはそれを引き止めはしなかったが、後に続いて玄関へ向かう。
「これから、どうするんですか」
 ナマエより先にドアノブを握ったコナーがそう尋ねると、肩をすくめた彼女は疲れた笑みを見せる。
「彼氏のとこに戻って、荷物とか取ってこないと……」
 どこかにトランクルームがあったっけ、と独り言のようにぼやくナマエが、自身の言葉を修正する気配を見せないので、じれたコナーは口を挟む。
「“元”彼氏、ですよね?今は」
 そう言った自覚のなかったらしいナマエは「え?」と聞き返したが、コナーの返事を待たずに言い直す。
「そうだね。元。あの男はもう元彼」
 ナマエはぐ、と大きく伸びをする。それは鳥が羽を伸ばす仕草に似ていた。思わず、コナーは言う。
「あなたが荷物を取りに行くのに、同行してもいいですか?」
「いいよ。コナーがいてくれたら、心強いな」
「それで、よければその後……」
 黙ったままコナーを見上げ、言葉の続きを待つナマエを形作る全てを、二人が今の関係に至るまでを形作る全ての記憶を、コナーはもう二度と忘れようなどとは思わないだろう。
「……コーヒー豆を買いに行きませんか?家にあるのは……もう古くなっていますから」
 ナマエはコナーと視線を合わせ、微笑む。玄関の窓から射し込む一筋の光が、その頬を温かく照らしている。
「私もそう言おうと思ってたの」
 玄関に佇むナマエは、コナーがドアを開けてくれることを知っている。コナーは彼女の信頼に応える。
 家の外では、青い空が雲の合間に現れようとしていた。


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