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短編|Fly me to the moon

 コナーの「一緒に星を見に行きませんか」という初々しいデートの誘い文句にナマエはためらうことなく了承を返し、二人は星を見に行った。
 だがそれは自然の星、遥か彼方から投げかけられる過去の光ではなく、人工の星だった。二人はプラネタリウムにいた。少し硬い座席に身を預けて暗い天蓋を眺め、学芸員の解説と子どもたちの話し声を聞いていた。
 ナマエが顔をコナーの方へ向け、囁くような声で言う。その頬や額には、今夜見ることができるらしい星々の明るい影が落ちている。
「ね、プラネタリウムってどうしていつも月の存在をなかったことにしちゃうんだろう」
 その不思議な問いかけの理由を探して、コナーはナマエから星図へと視線を移す。確かに、暗いドーム内のどこにも月の姿は見当たらない。
「これは推測ですが――月があると、月明かりに負けて他の星が見えなくなってしまうからでしょうね」
「そっか。そうかもね」
 コナーの言葉に納得したらしいナマエは、ちらと笑みを浮かべ、再び星たちと向き直った。コナーは彼女の横顔を眺めながら、続くはずだった言葉を心の中で反駁する――あなたを見ている僕のように、他のものが目に入らなくなってしまうから――。今もそうだ。コナーの視覚センサに星の煌きは写らず、人々が歓声を上げる天の川も、流星群も、目に入らない。ナマエの微笑み、その横顔が月の光のように他の何もかもを見えなくしている。


 建物へ入った時にはもう既に傾いていた陽は完全に姿を消し、暗い夜空には星がいくつか、都会の明かりに呑まれながらも輝いていた。
 帰路に着いた二人は、当然のことのように並んで歩く。
「今日は月、見えないね。見えるって言ってたのに」
 結局のところ、月の存在は“なかったこと”にはされなかった。プラネタリウムの中盤で月は見事に登場を果たし、学芸員が今夜の軌道を解説した。
 だが今、月は薄い雲の向こうだ。
「もう少しすれば見えますよ、きっと」
「帰り着くまでに見たいな」
 雲の合間に月影を探すナマエが、静かに歌を口ずさんだ。そのワンフレーズを検索にかけたコナーは、それが古く有名なジャズだということを知る。
 そしてふと、ナマエは夜空からコナーへと視線を移し、何かとても良いことを思いついたかのような明るい表情を浮かべた。
「ねえコナー。私を月に連れて行ってよ」
 歌詞と関連付けたものなのだろうが、突然のその願いにコナーは足を止め、少しばかり悩んでから言葉を返す。
「……今の技術でも一応可能ではありますが、民間人が月へ行くのは難しいかと」
 コナーの真面目な返事に、ナマエは一瞬きょとんとまったく意外そうな顔を覗かせ、少しばかり唇の片端を持ち上げた。
「このお願いは、まだちょっと早かったかな」
 そして数歩先へ行ってしまう彼女のその含みのある言葉と、それに潜むどこか諦めのような陰を感じたコナーは、慌てて言葉を繋ぐ。
「あと50年もすれば、きっと行けるようになりますよ!そしたら一緒に行きましょう!約束します」
 コナーの大声に、驚きと共に振り返ったナマエの表情は瞬く間に笑顔へと変わり、次いで彼女は声を上げて弾けるように笑い始めたが、それは少しも嫌な笑い方ではなく、コナーは安堵に胸を撫でおろした。
 息を落ち着かせて再びコナーの横へ並んだナマエは、彼を見上げながら言う。「じゃあ、約束ね」と。
 二人はようやく顔を覗かせた月の光の下を歩く。


 数日後、コナーはハンクの車の助手席にいた。古いタイプのカーラジオのつまみを回して、どうにかヘヴィメタル以外の曲を聴こうと努力していた。そんな彼の耳を、聞き覚えのある曲が掠める。
 あの夜、ナマエの歌っていた曲だ――。
 ハンクは隣で古いジャズソングに耳を傾けているらしい相棒が、急に嘆きと後悔に満ちた大声を上げたので、慌ててブレーキを踏んだ。二人の身体は慣性の法則に従って前のめりになり、シートベルトが腹に容赦なく食い込む。ハンクは呻き声を上げ、フロントガラスの向こうを慌てて見やった。幸いなことに車は少なく、彼らの車の突然の挙動を責めるものはいなかった。
「ど、どうした?」
 痛感もなければハンクのように余分な腹肉もない彼の相棒は、急ブレーキを気にすることもなく、嘆くことに忙しい様子だ。独りでぶつぶつと、「間違えた」だの「なんて失敗を」だの呟いているコナーにハンクがそう声をかけると、暗い顔と暗い声で返事があった。
「僕はどうやらまたとないチャンスを逃してしまったようです」
「なんだ?さっきの現場のことか?」
「いいえ、ナマエのことです」
 コナーの言葉に、ハンクは緊張を緩める。
「ナマエが、なんだ?あいつとは上手くいってるんだろ?」
 再び緩やかに車を走り出させながら、ハンクはコナーの返事を待つ。
「そう、だといいのですが……」
 歯切れ悪く言葉をこぼすコナーは、深いため息をついた後、事のあらましをハンクへ語った。つまり、ナマエが曲の歌詞に乗せて、コナーからナマエへキスする機会をくれたのに、自分はみすみすそれを逃してしまったことを。あの時彼女の見せた落胆は、鈍いコナーへの落胆だったのだと。
 そうして助手席でこの世の終わりのような顔をしているコナーに対し、ハンクは笑い声を上げた。
「ナマエはそう簡単に愛想を尽かしたりしないと思うがな」
「そうでしょうけど、僕は、僕は……」
 コナーは両手で顔を覆い、小さな声で呟いた。
「ナマエとキスしたかった……」
「それが本音か」
 はは、とまた声を上げて笑ったハンクは一度あご髭を撫で、目前で項垂れる若人のために一肌脱いでやろうと思ったのだった。


 コナーの「一緒に星を見に行きませんか」という二度目の誘い文句に、再びナマエはためらうことなく了承を返し、二人は星を見に行った。
 今度は本物の星だ。
 助手席にナマエを乗せて、コナーは郊外へと車を走らせた。車はハンクに借りたものだが、コナーが念入りに掃除したおかげで、ハンクが車内でよく食べているスナック菓子の欠片一つも、犬の毛一本すらも落ちてはいない。窓だってピカピカに磨き上げた。
 そして目指すは、ハンク曰く星空がよく見えるという丘の上だ。今夜の天気は晴れ、ナマエの好きな月だって、まるでコナーの背を押すかのようによく輝いている。
 大丈夫、とコナーは心の中で呟き、ハンドルを握り直した。今のところは順調だ。
 いつもはヘヴィメタルを再生させられているカーラジオは今夜、雰囲気のあるジャズソングを流している。もちろんその曲の選択も、流れる順番だって、コナーが念を入れて用意したものだ。
 ……だがその音はどこか上手く馴染めていないように感じられた。カーラジオ自体にも、借り物の車にも、一張羅を着てきたコナーにも、そんなコナーを眺めるナマエにも。
 慣れないことをするコナーの、緊張が伝播しているようだった。
 じっとコナーの横顔へ視線を向けていたナマエが、おもむろに口を開く。
「ねえ、コナー」
「は、はい!」
「今日は無口だね」
「そ、そうですか?」
「そうだよ」
 勢いよく返事をするコナーに、ナマエは唇の端を持ち上げて、苦笑のような笑みを浮かべた。
「……こういう時は、無難に天気の話から始めようか」
 口数の少ないコナーを気遣って、ナマエが場を和ませようとしているのを感じたコナーは、自分の至らなさを悔やむ。
「えーと、今日は寒いね」
「寒いですか!?暖房を上げますね!」
 そう言い、慌てて車の機器へ手を伸ばすコナーを、ナマエは優しく笑って制した。
「言い方を変えるね。私が乗る前からコナーが暖房を付けておいてくれた車の中は温かいけど、外は寒そうだね」
「今日は、外で星を見ようと思っているんですが、寒いなら、やめに……」
「止めないで。寒いほうが、星はきれいに見えるんだって」
 宥めるようなナマエの声に、コナーは肩を落とす。
「すみません。なんだか、緊張してしまって」
「今更なに緊張してるの」
 微かな笑いを含んだ軽やかな調子で問いかけられ、コナーは促されるがままに口を開いた。
「この前の失敗を……取り戻したくて」
「失敗?この前の?」
「プラネタリウムへ行った夜のことです」
 唇へ浮かべていた微笑みを引っ込めたナマエは記憶を辿るかのように小首を傾げ、ややあってから「ああ」と小さく呟いた。それだけで、コナーはもう、穴があったら入りたいような心地になる。だが、ナマエの唇は再び優しい弧を描いた。
「私はべつに、失敗だったとは思わないけど」
「でも――」
「コナーの言う丘ってどのあたりなの?ここらへんに丘があったっけ……」
 コナーの言葉を遮り、ナマエは窓の外へ視線を移す。コナーも、いくらでも湧いてくる後ろ向きな言葉をぐっと押し込め、位置情報を確認する。
「ハンクから教えて貰った座標によると、もうそろそろなんですが……。多分、そこのカーブを過ぎたら見えるはずです」
 そしてコナーはハンドルを切り、視界を遮るアパートメント群を通り抜けた。……だが、丘は一向に見えてくる気配がない。そのかわり、暗闇にぼんやりとした水色の光のラインがいくつも走っているのが遠くに見える。
「……サイバーライフの工場だ」
 フロントガラスの向こうの暗闇へ目を凝らしていたナマエがぽつりとそう言って、コナーは車を止めた。

 ハンドルに額を押し当て、落ち込むコナーの背へ、ナマエは優しく手を添える。
「ハンクが若かった頃は、丘があったんだろうね。でも、再開発で……」
「……事前によく調べてくるべきでした」
「焦っちゃったね」
 全くもってナマエの言うとおりで、コナーは更に未熟な自分への自己嫌悪を深めた。
 そして、コナーにとっては最悪のタイミングで、カーラジオがあの曲を流し始める。『Fly me to the moon』を。本当は、ナマエと星を見ている時に流れるはずだったのに。
 コナーはもう悲しいやら自分に腹が立つやらで、顔を上げることができなかった。そんなコナーを他所に、緩やかな調子で流れる音楽に合わせて、男性ボーカルが歌詞を歌い上げていく。
『Fly me to the moon Let me sing among those stars……』
 助手席のナマエが動いたらしいのが、振動でコナーには分かった。もう思考が完全にネガティブ寄りになっているコナーは、ああきっと、愛想を尽かしたナマエは車を降りるんだ、と思いますます悲しみを深める。
『In other words, hold my hand』
 だがそんな予想に反してナマエは車を降りず、むしろコナーへ身を寄せて、そっとコナーの手へ自分の手を重ねてきた。驚いたコナーは悲しみを忘れ、顔を上げてナマエを見る。
『In other words, baby, kiss me』
 ナマエは少し恥ずかしそうに微笑み、次いでコナーにキスをした。
 彼女の柔らかい唇、閉じた瞼に塗られているアイシャドウの輝き、暖かい吐息。
 コナーは“月へ行く”というのがどういうことなのか、少し分かったような気がした。
 そして、唇を離したナマエは言う。
「私ね、この前のコナーの返事、好きだよ」
「す、好き……?」
 突然のことに混乱するコナーが言葉をオウム返しにすると、ナマエは頷いた。
「50年後、月に連れて行ってくれるんでしょう?」
「……ええ。確かに、そう言いました。でもあれは、あなたの求めていた返事ではなかったんですよね……?」
「私の欲しかった返事より、ずっとよかった」
 思いもよらぬ言葉に疑問符を浮かべるコナーへ、ナマエはにっこりと笑って見せる。
「だって、それって、50年後も一緒にいるってことでしょう」
 自分の発した言葉の意味を、こうして改めて示されたコナーはしばし返事に詰まった。しかしナマエが嬉しそうなことに勇気を貰い、姿勢を正し、自分の心に従って、言葉を並べる。
「それまでの50年間も、側にいていいですか?」
「もちろん、喜んで」
 今度はコナーからナマエへキスする番だった。車の窓から射し込む月明かりが彼女の頬を白く照らしている様子は美しい。ナマエはやっぱり月のようだとコナーは思った。彼女はいつだって彼の視線を釘付けにして離さない。星々が、夜空の女王である月には敵わぬように。
 ナマエがいれば、輝く星も、綺麗に掃除した車も、ムードのある音楽も、格好つけた衣装も、何も、何も、本当は必要なかったのだとコナーは理解した。

「でも、本当に月へ行けるようになるまでは、こっちの、いつでもできる月旅行を楽しみたいな」
 コナーの耳元でそう囁く彼女の瞳は、いたずらっぽく輝いている。どちらともなく二人は身体を寄せ合って、その短い“月旅行”を楽しんだ。 
 そんな中、コナーの設定したプレイリストを再生し終わったカーラジオは、次に何を再生しようか考えあぐねているかのように沈黙していたが、突然、いつものやり方を思い出したらしく、意気揚々とヘヴィメタルを流し始めた。
 それはハンクの車によく乗る二人には馴染みのある曲で、コナーとナマエは顔を見合わせて笑いあう。ようやく、いつもの雰囲気が戻ってきた。
「せっかくですし、このままドライブでもどうですか」
「いいね。そうこなくっちゃ」
 ナマエはやはりためらうことなく了承を返し、コナーはアクセルを踏んだ。
 二人を乗せた車は、煌々と輝く月の光の下を滑るようにして走っていく。


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