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短編|水で文字を書く

 カフェのテラス席に、ナマエが座っているのが見えた。
 「ナマエ」と呼べば、彼女は振り返って手を振る。
「すみません、待ちましたか」
 対面に置かれた椅子を引いて座りながらコナーがそう問いかけると、ナマエは微笑んで首を横に振る。
「ううん。今来たところ」
 そう言う彼女の目の前に置かれたアイスコーヒーの氷はもう随分と小さくなってしまっていて、結露した水滴がグラスのまわりに水たまりを作っていた。
 コナーの視線に気がついたナマエは微かに肩をすくめて、話を逸らそうとする。
「今日は暑いね」
「店内へ移りますか」
「……もう少し、ここに居たいな」
 ナマエはカフェの店内を眺めていた。日光を反射して眩しいガラスの壁の向こうに、店の中に居る人々の姿が見える。
 唐突に、彼女が言う。
「一番覚えてることって、ある?」
「一番、覚えていること、ですか」
 唐突なその問いかけをコナーがオウム返しにすると、ナマエは「うん」と頷く。
「思い出に一番残っていること」
「僕にはあなたとの時間全てが、思い出深いことですが」
「そうじゃなくて」
 ナマエは笑い、「そうじゃなくて」と繰り返す。
「時々ふっと思い出すこととか、独りでいるときに思い出すこととか……」
「それなら、ありますね」
 コナーはナマエと同じようにガラス窓の内側を眺める。半年ほど前のあの日――あの時は僕が店内から彼女を見つけたのだったと、記録ではなく記憶を、辿りながら。


 ――あの日は雪が降っていた。


 ガラス一枚隔てた外を、人間たちが寒さに震えながら歩いている。それを見ながら、コナーはアイスコーヒーを頼んだ。店に居るつもりなら、何か注文して欲しいと店員に言われたためだ。
 そのカフェのメニュー表のなか、一番最初に目についたのがアイスコーヒーで、コナーは適当にそれを選んだ。人間の店員は、数カ月前、そこに立っていたであろう機械の店員と変わらぬ他者への無関心さを顕にしたまま、会計を済ませた。

 コナーには行く宛がなかった。
 州法によって、変異したアンドロイドには週に一日、休暇を与えなければならないと定められた為に、コナーは予定もないのに署を追い出されてしまったのだった。当然彼は相棒に助けを求めたが、あいにく相棒の方は仕事の真っ只中であり、「友人でも作ってこい」と彼の懇願を一蹴した。
 相棒の言う通り、コナーに友人はいなかった。もちろんジェリコには革命の際に手を取り合った者たちはいたものの、それが気さくに友人と呼び合える仲であるかと問われると、コナーは素直に首を縦に振ることはできないのだった。
 ――僕が普通の変異体だったなら、休暇を一緒に楽しめる友人の一人や二人、いたのだろうか。
 コナーは飲みもしないアイスコーヒーのグラスを眺めながらそう考える。彼が一時期サイバーライフの猟犬のように振る舞っていたという事実は、彼から人々を遠ざける充分な理由となり得た。
 そして彼は人間社会のなか、人間の友人もなく、かと言ってアンドロイドの友人もない、少数派の変異体として孤立を深めていたのだった。


 コナーが選んだのはカウンター式の席だった。外が見えるガラス張りの壁へ向き合うようにして、一枚板のテーブルと椅子が並べてある。二人掛け、四人掛けのテーブルがあるそのカフェで、わざわざカウンター席を選ぶのは連れのいない客だけで、コナーもその内の一人だった。ただし彼以外は皆、人間ではあったが。
 そしてコナーは何をするでもなく、ただそこに座っていた。座って、アイスコーヒーの氷がじわじわと溶けるのを、黙って見ていた。氷が溶けて沈み込むたびにグラスに刺されたストローが左右に揺れて、それはまるで彼を嘲笑っているかのようだった。
 彼の目前のガラス窓は寒暖差によって生じた水滴で、すりガラスのように曇っていた。店の表の歩道を行く人々の姿が、その向こうに透けて見える。ぼんやりとした幽霊たちのような影。不意にコナーは、そんなガラスに四方を囲まれているような心地に襲われた。世界から切り離されているかのような、恐怖を。
 閉塞感を覚えたコナーは、気を紛らわせようと目前のガラスへ指先を付けた。そして丸を描く。
 ガラス上に現れた丸のその少し歪な形に、コナーは自分が丸という記号を書こうとはしていないことに、他人事のように気が付いた。彼はもう少し指先を滑らせ、無意味な丸をアルファベットにする。
 それへ続くべき文字が何なのか、コナーには考えずとも分かった。
 フォントを適用したかのように整った筆記体で現れたその言葉を眺め、コナーは独り自虐の笑みを浮かべた。

 彼が文字の終わりから指を離すと、水滴が下へ垂れていった。
 それを目で追いながら、僕の存在もこんなようなものだ、とコナーは思った。
 ――僕のことが見えるのは僕だけで、他の人には何も見えない。僕の言葉は、誰にも届かない。水で書かれた、文字のように。
 垂れた水滴は木製の窓枠へ辿り着き、行き先がなくなったことを戸惑うかのように暫くそこへ留まっていたが、乾燥した木枠に滲み行って消えた。あとには茶色の染みが残る。やがてそれも消えるのだろう。最初からなにもなかったかのように。
 僕は、何をしているのだろう、とコナーは思う。
 彼の指先がなぞった部分だけ水滴が拭われ、そこだけ切り取られたかのようにクリアになっている。
 窓の中の窓のようなそれを通して外がはっきりと見えた。ぼやけていた人々の姿が。

 ふいにコナーの視覚センサがガラスの向こうから投げかけられた視線を捉え、オートでピントを合わせる。
 歩道に独りの女性が立っていて、不思議そうにコナーを見ていた。彼女は切り取られた単語のなかに佇んでいた。
 冬の褪せた色彩のなか、ぽつんと咲いた花のように淡いピンク色の唇が動き、言葉を紡ぐ。
 「alone」と。
 孤独、と。
 コナーが水で書いた文字を。

 コナーが立ち上がると、窓の向こうの彼女は驚いたように一歩後退った。コナーは慌てて叫ぶ。「待って!」と。店内の視線が一斉に集まるが、今の彼にはもう、そんなことは関係なかった。
 到底届くはずのない声も、彼女には聞こえたようだった。店から飛び出して来たコナーを、彼女は先程と同じように少し不思議そうな表情を浮かべて待っていたのだった。
「あの……」
 と、コナーが切り出すと、ナマエは無言で小首を傾げた。その表情と視線に、どうやら彼女は僕のLEDリングを見ているようだ、とコナーは気が付き、無性に悲しくなった。人間とアンドロイドの間にある壁、透明だが確かに存在するそれが、行く手を阻むことを見越して。
「アンドロイドだったんですね」
 コナーの推測通り、ナマエはそう言った。ある種の拒絶や落胆を含む言葉だ。だが彼女はその台詞をネガティブには発音しなかった。まるで事実確認のような、そして少し面白がるようなニュアンスすらも伴うその響きに、今度はコナーが首を傾げる番だった。
「ええ、そうですが……」
「あんな感傷的なことするの、いったいどんな人だろうって思ってたから……」
 そう言いながら、ナマエは窓の文字へ視線を送る。コナーもそれに習って窓を見たが、鏡文字になっているaloneの文字を見つけるのは書いた本人でさえ難しいことだった。
「……がっかりしましたか?」
「どうしてですか?」
 ナマエは心底不思議そうにそう尋ね返し、言葉を続けた。
「まあ、ちょっと驚きはしました。私の周りにいるアンドロイドの人たちって……なんだか団結してるイメージだったから。あなたみたいな人は初めてです」
「今いる変異体は、革命を乗り越えたことによる仲間意識が強いんですよ」
「ずいぶん客観的な意見ですね。そう言うあなたは?」
「僕は……」
 言いよどむコナーは、ナマエが寒さに震えていることに気が付いた。
「あの、よければ店の中で話しませんか」
「ありがとう。実はずっとそう言ってくれないかと思っていたところなんです」
 その時の、僅かながら持っていた警戒を手放したナマエの、力を抜いたような微笑みがコナーの心を捉えた。

 先程大声を上げたうえ、飛び出していったアンドロイドが戻って来るというのは、ひどく店内の人目を集めた。それを紛らわせるべく、コナーはナマエに尋ねる。
「さっき僕が店の中から、待ってと言ったのが聞こえましたか?」
 ナマエは首を横に振る。
「いいえ。何か言ったような雰囲気は分かりましたけど」
「ならどうして、僕が出てくるのを待ってくれていたんですか?」
 コナーの問いかけに、ナマエは面白そうに口角を持ち上げた。
「興味があったから。孤独って書いちゃうぐらい孤独な人はどんな人だろうって思って」
 一杯のホットコーヒーを買った二人は、先程コナーが独りで腰掛けていたカウンター席に並んで座る。再び水滴に覆われ始めたaloneの文字と、氷の溶けたアイスコーヒーが二人を迎えた。
「それに、ちょっと嬉しかったんです」
 席へ着いたナマエが、早速コーヒーを啜りながら言う。
「私も孤独を感じていたところだったから……同じ人がいるんだって」
「あなたが、孤独を?」
 こうして初対面の相手と楽しげに会話を続けられるほどコミュニケーション能力に長けている彼女が孤独だというのは、少なからずコナーを驚かせた。彼のその反応に、ナマエは寂しげな微笑みをこぼす。
「みんなそう思うから、でしょうね。自分が連絡しなくても、ナマエは誰かと楽しくしてるだろうって」
 少しばかり気まずい沈黙があったが、ナマエが再び口を開く。
「そういえば、さっきの質問の答えを聞いてないですね」
「さっきの……?」
「変異体の仲間意識の話です」
「ああ、それは……僕は微妙な立場なんです。人間の社会に属しているけれど、僕自身は変異体で……どちらにも馴染めないでいる」
 そこまで言い、コナーは一旦言葉を切ってため息をついた。
「……すみません。初対面の人に話すべきことではありませんでしたね」
「私は別に構いませんよ。私たちはほら、なんというか……」
 ナマエはコナーが書いたaloneの文字を上からなぞった。
「孤独な者同士じゃないですか。たぶん孤独の種類は違うけど、気持ちは一緒です」
「……そうなるならもう、僕たちは孤独ではないのでは……?」
 コナーの純粋な疑問に、ナマエははたと気が付いた様子で、一拍置いてから笑い始めた。
「じゃあこうしましょう」
 ナマエは指を軽やかに動かし、コナーの文字の横に言葉を付け足した。togetherと。彼女の個性の滲む、丸みを帯びた書体で。
「孤独……でも一緒。どうですか」
 単語だけで見ると矛盾する二つの言葉が、並び、繋がって、意味のある文になり、コナーは僅かに口角を持ち上げた。
「それだと、ニュアンスが変わってきますね」
 同じくその文を眺めて気が付いたらしいナマエも、あ、と声を上げ、慌てて自分の書いた文字を消そうとする。だが、コナーがその手を素早く掴んでそれを止めた。
 彼女が、出会ったばかりのこの孤独なアンドロイドを慰めようとしていることに、コナーは気が付いていたのだった。
「……ありがとございます」
「なにがですか?」
「見ず知らずの僕に、付き合って下さって」
「……誰だって、孤独は嫌なものですから」
 ナマエはコナーと視線を合わせ、目尻を下げて柔らかく微笑み、小声で、囁くようにしてそう言った。
 カフェの店内はやや混みつつあったが、それら全ては遥か彼方に遠ざかり、コナーは自分とナマエしか存在していないような、そんな心地になった。ついさっきまでは自分しか居なかった世界に、今はナマエがいた。
 そしてコナーはもう、自分が孤独ではないことを知った。



「alone together」
 話の締めにコナーがそう呟くと、ナマエも優しく同じ言葉を返した。
 そして彼女はもうぬるくなってしまったであろうアイスコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「じゃあ行こっか」
「どこに行きますか?」
「二人っきりになれるところ!」
 明るく言う彼女に、コナーも笑みを返す。
 ――ナマエとなら、どこへでも行けるだろう。一人ではできないことだってできる。二人でなら、どんなことでも。
 彼らの行く先には、見えない壁も、水で書かれた文字も、もうないのだから。


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