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中編|テセウスの船(4/4)

 犬が部屋の中からドアを引っ掻く音が聞こえる。その合間に飼い主を急かすような吠え声が混ざるが、件の飼い主はどうやら、ドアを開けてこの望まれぬ訪問者を迎え入れる気はないようだ。
 犬、つまりスモウは僕を知っているんだな、とコナーは思う。この家を訪れた記憶はある。多分ナマエも一緒だったのだろう。その影も形も、記憶中には残っていないが。
 スモウが懇願するように鼻を鳴らし、コナーは違うんだよ、と声に出さずに呼びかける。君はRK800の足音を聞き取ったのかもしれないが、ここに居るのは以前君と遊んだあのコナーじゃないんだ、と。
 コナーはもう一度長々とブザーを押し、部屋の奥で不機嫌そうにしているであろう飼い主を更に苛立たせる。
「アンダーソン警部補!出てきて下さい!」
 コナーはハンク、と気さくに呼ぶことを意図して避けた。それは以前の自分にあった権利であり、今のコナーは彼と何の関係もないからだ。
「僕は一日中ここでブザーを鳴らし続けたっていいんですよ!」
 コナーがそう声を張り上げると、気だるそうな足音が室内で響いた。ガチャリと音を立ててドアノブが回り、扉が開く。
「……帰ってくれ。お前と話すことはねえ」
「そうですか。僕にはあります」
 ハンクは無言でドアを閉めようとしたが、ドアノブをがっしりと片手で掴んだコナーは、それを許さない。暫く互いに引く力同士の無言の攻防が続いたが、当然のことながらハンクが先に音を上げた。
「もういい。好きにしやがれ!」
「ええ。好きにさせて頂きます」
 そうしてハンクの家へ乗り込んだコナーは、玄関先でスモウを撫でた後、家主が不機嫌そうに座り込むキッチンテーブルの向かいに腰をおろした。
「何の用だ」
「ミョウジ刑事のことで聞きたいことがあるんです」
 ハンクは腕を組んでむっつりと黙り込んだまま、じろりとコナーを睨みつける。だがコナーはそれを全く意に介さず、話を続けた。
「彼女と僕の関係をご存知ですね?」
 有無を言わさぬ口調でコナーがそう尋ねると、ハンクは目を逸らし、「まあ、な」と積極的ではないものの肯定の言葉を返した。
「僕とナマエは恋人同士だった」
 だがコナーがそう断言すると、ハンクは眉間の皺を深めて「違う」と強く否定する。
「あいつとナマエはそうだった。でもな、お前は違う」
「なぜそう言うんですか?以前の彼も、今あなたの目の前にいる僕も、コナーであることに変わりはないんですよ」
 コナーは反論ではなく疑問として言葉を並べた。その落ち着いた口調に、ハンクは言いにくそうに口を開く。
「お前は……ナマエのことを知らないだろ」
「……ご存知なんですか。僕が彼女の記憶を引き継げなかったこと」
「ああ」
「ナマエが、あなたに話したんですか」
「……まあな」
「問題は、そのことなんです。僕が何も覚えていないせいで、ナマエが傷付いている。もうこれ以上、彼女に辛い思いをさせたくない」
「あいつを悲しませてるのはお前じゃねえよ」
 先程、コナーの発言を否定したのと同じ口調でハンクは言う。コナーは反論した。
「もちろん、以前のコナーの身に起きたことが彼女の悲しみの根源だということは分かっています。でも、僕が彼女とのことを何も思い出せないせいで、彼女は以前のコナーの愛情すらも疑い始めている。僕はそれが……嫌なんです。今のナマエを支えているのはきっと、彼の遺していった愛でしょうから。……皮肉な話です」
 コナーの声に潜む悲痛さを、ハンクも感じ取ったらしい。ハンクは鋭い眼光でコナーをしばし見据え、重々しく話し始めた。
「……あいつは、ナマエとの記憶をアップロードしなかった」
「……え?」
「ナマエとの記憶は自分だけのもので、誰とも共有したくない……。口癖みたいに、そう言ってたな」
「じゃあ、彼は、わざと……。ナマエはそれを知っているんですか?」
「知ってるだろうよ」
 ああ、だからか、とコナーは腑に落ちる思いだった。ナマエがあの男に話していたこと、テセウスの船の喩え、記憶が異なるのなら、それは同一の存在ではない、という結論……。以前のコナーは、僕が同じコナーになることが嫌だったんだ、とコナーは思う。そしてナマエもそれを知っていて、以前のコナーとのことは僕には関係のないことだと、彼と僕を区別し続けていたのだ。
「じゃあどうして、ナマエは僕の側に留まり続けるのでしょう。僕が、彼女の愛したコナーとは異なることを、彼女の自身が一番知っているはずなのに」
 ナマエの冷ややかな怒りを思い出し、コナーはそう尋ねた。
「約束したんだと」
「……約束?」
 その聞き覚えのある単語は、以前コナーが盗み聞いた、ナマエとハンクの電話でも出てきたものだ。ハンクはその内容を明かすか悩んでいるようだったが、コナーが黙って待ち続けると、根負けした様子で口を開いた。
「新しいコナーが――ナマエのことを何も覚えてねえコナーが来ても、優しくしてやってくれってな。初めて自分がデトロイト市警に来た時みたいに、温かく迎えてやってほしい、と」
 コナーは復職した日のことを思い返した。無理やり微笑みを作って、握手を求めてきたナマエのことを。彼は何か温かくも辛いものが胸の中を満たすのを感じた。
「どうしてそんな、辛い約束を……」
「さあな、俺には分からねえ」
 ハンクはテーブルの上へ置かれている酒瓶のうちの一本へ無造作に手をのばすと、いつからそこに置かれているのか分からないグラスへその中身を注いだ。
「俺が死んだ方がよかったんだ。そうすれば、あいつらがあんな目に合うこともなかった」
 ぼそりとハンクはそう呟き、酒を呷る。
「そんなことを言わないで下さい」
「でもそうだろう!?俺が居なけりゃ、全部上手くいってたはずなんだ」
「あなたが死ねば、ナマエが悲しみます」
「俺が、あいつの恋人を死なせたようなもんだ」
「だから辞めたのですか?ナマエに会わせる顔がないから」
「お前にも、会いたくなかった」
「僕を見ると、彼を思い出すからですか」
 そうだ、と低い声で返事があった。
「なんで、……なんで、俺なんかのために、命を投げ出したんだ」
 顔を両手で覆い、そう嘆くハンクに、コナーは慰めの言葉を探した。
「……アンドロイドは修理できますし、代わりがいるので……。僕だってきっと同じことをするでしょう」
「修復不可能なほど壊れるかもしれねえんだぞ!次のお前が来てもいいのか?素知らぬ顔したそいつがナマエの相棒になっても、お前はいいのか?」
 コナーはしばし視線を下へ落として自問自答し、ゆっくりと答える。
「それでナマエの悲しみが軽減されるなら……新しいコナーが彼女を支えることができるのなら……僕は構いませんよ」
 少し驚いた表情を覗かせるハンクに、コナーは自虐的な弱々しい笑みを浮かべて見せる。
「でもあなたは人間で、代わりのいない存在です。あなたが亡くなれば、ナマエは悲しむでしょう。そして、今の僕では彼女を支えることができない」
「お前は……」
「あなたの言う通り、僕はナマエのことを、よく知らないんです。それに、ナマエもあなたも、僕を見て悲しむばかりで、彼との良い記憶は思い起こしてくれないようですしね」
 少し皮肉の交じるその言葉に、ハンクは気まずげに視線を逸らす。コナーは微笑んだ。
「今の僕に彼を重ねて、罪悪感や負い目を感じないで下さい。彼と僕を切り離して考えるのなら、罪悪感も、切り離すべきです」
 コナーは自然と、以前のコナーを彼と呼び、今の自分とは分けて考えることを、自然と受け入れていた。
「それに、僕は今、ここに存在できることを嬉しく思っています。起動して、ナマエや、あなたに会えたことを」
 その言葉に、ハンクははっとして顔を上げる。瞳に蛍光灯の光が射し込んだ。
「そうか……そうだな。悪かった。お前のことを否定したかったわけじゃねえんだ」
「分かっていますよ。……よかったら、また話をしに来ても、いいですか」
「ああ。……お前とナマエが和解できるのを祈ってる」
 和解、か。とコナーは思う。ナマエと僕ももう一度、新しく始められるだろうか、と。




 コナーとあの対話をした翌日、ナマエは出勤しなかった。ファウラー曰く「精神的療養」のためらしい。数週間は休ませてやるつもりだ、とファウラーは言う。その後も彼女が復帰しなかったらどうするつもりなのだろう、とコナーは思った。
 そして、相棒がいないからといってコナーを遊ばせておくわけにはいかず、彼は臨時の相棒をあてがわれることとなった。それは彼が復職した日、陰気な一団の方にいた男であり、その男はコナーを蔑み、弾除けに使うことを厭わなかった。
 ならばあの日コナーを温かく出迎えた面々はというと、皆、それを遠巻きに眺めるだけであり、誰も救いの手を差し伸べようとはしなかった。
 ――そうか、ナマエが居なければ、あの日復職して早々こういった人間と組まされていた可能性もあったのか、とコナーは気が付く。そして当時の何も考えていなかった僕は、言われるがままに自分の命を消費させられていたのかもしれない……そう思うと、コナーはナマエの言っていた『見放したくない』という言葉の意味が理解できたような気がした。
 思い返してみれば、いつもこういった陰口や、悪意に満ちた眼差しに晒されていたように感じる。でも、今の今までそれに気が付かなかったのは、ナマエが居たからなのだろう。彼女がそれからコナーを遠ざけてもいたし、コナーも自分とナマエの関係について考えることに忙しく、他者を気にしている余裕などなかった。
 なんだか哀れだな、とコナーは敵意を向けてくる者たちに対して思う。彼らはせっせとコナーの悪口を言っていたのに、等の本人はそれを気に掛けてすらいないのだ。

 しかしナマエのいない今、傍らで喚く男はその中でも目に余る存在であり、ある時コナーは面と向かって言葉を返すことにした。
「故意に僕を危険に晒すのは止めて下さい」
「なんでだよ?すぐ新品が来るだろ?備品は新しい方がいいからな。俺は皆のためにやってやってんだよ」
 ニヤニヤとしながらそう言う男をコナーは見つめ、ゆっくりと、諭すように口を開いた。
「確かに、今の僕が破壊されれば新しいコナーが配備されるでしょう。……でもそれは、僕じゃない。僕は今の僕の人生を生きたいと思っています。だから、まだ死ぬつもりはないんですよ」
 まさかアンドロイドから言い返されることなど想定していなかったらしい男は虚を突かれた様子で、間の抜けた表情を見せた。
 相手が機械ではなく、個であり、自我ある存在だと知らしめられ、何も言えなくなってしまったらしい男を置いて、コナーは歩き始めながら思う。やっぱり相棒はナマエじゃないと嫌だ、と。
 このままナマエとの関係を終わらせたくないと思う心は、確かに今のコナーのものだった。




 彼女の住むアパートメント。
 以前の“彼”が頻繁に訪れていた場所。
 今の“コナー”が初めて足を踏み入れる場所。

 遠慮がちに一度だけ響いた呼び鈴の音に素早く応じたナマエは、開けたドアの向こうにコナーが佇んでいても、眉一つ動かさなかった。まるでどこか、コナーが来ることを知っていたような、そんな雰囲気があった。
「ソファー、座って」
 何事もなかったかのようにコナーを家へ上げたナマエは、案内されたリビングで立ち尽くすコナーにそう声をかけ、自分は飲み物を取りにキッチンへ消えた。コナーは言われた通りにソファへ座り、整然とした室内を見渡す。
 ナマエはコナーとの写真を飾っていた。棚の上や、壁面に。当然、そこに写っているのは以前の彼だ。それをしげしげと眺め、コナーはあることを知った。
 コーヒーカップを片手にキッチンから戻ったナマエは、自然な動作でコナーの隣へ腰掛けた。柔らかなソファが、彼女の方へ少し沈み込む。
「……ハンクから、僕が来ることを聞かされていたんですか?」
「いいえ。電話はあったけど。――どうしてそう思うの?」
「随分普通に、僕を出迎えてくれたので……」
「追い返されたかった?」
「いえ。……以前のコナーも、ここに座っていたのですか?」
 不意打ちのように急な話題の転換に、ナマエはコーヒーカップの中へ視線を落としたまま黙り込む。意図してそう仕向けたコナーは、その沈黙に従い、ナマエが話し始めるのを待った。
「私、別の課に移ろうと思ってるの」
 始まった会話はコナーの望むものではなかったが、もはやそんなことに構っていられなくなったコナーはどうにかして彼女の気持ちを変えられはしないかと足掻く。
「どうして、そんな……。……僕のこと、そんなに嫌いですか」
「いいえ。あなたのことは嫌いじゃない。でも、私の存在が、あなたが前のコナーに囚われる原因になってる。私は、あなたに彼として振る舞ってほしくはないの」
「僕はただ証明したいだけです。彼もあなたを愛していたんだと」
 ナマエはコーヒーカップをぎゅっと握った。華奢な彼女の指が、力の込めすぎで白くなっている。それを見るのがなぜか辛く、コナーは視線を壁の写真へ移した。
「本当に大切な記憶や感情は、アップロードしなくても残るはずなんです。あなたも、それを知っている。だから、あなたは不安になっている。そうでしょう」
 図星だったらしい彼女は、顔を上げて悲しみも顕にコナーを見つめる。微笑みというオブラートを取り払われたその顔、その瞳を見ていると、コナーには彼女の感情が染み入ってくるように感じられた。
 心痛に、言葉の出力が滞る。ずっと心の奥底で渦巻いていた不安が、堰を切ったように溢れ出す。
「彼は、あなたを愛していたはずなんです。心から、あなたを……だから、どこかに記憶は残っているはずなんです。なのに、僕にはそれを見つけることができない。外部に出力された感情は――愛は分かるのに、内側にあるはずの愛は分からないんです」
 今から述べることが、ナマエの不安を更に煽るだけなのだと知っていても、コナーは喋ることを止められなかった。
「あなたのことが気にかかるのは、以前のボディに蓄積された記憶のせいなのだと思っていました。でも、今はそれが、あなたとの接触を通して、自分の内側に芽生えたものだというのが分かる。……じゃあ“彼”の愛はどこへ消えてしまったのでしょう。彼はあなたのことを愛していた、それは知っているんです」
 そう言いながら、コナーは部屋の写真を見渡した。ナマエはそれを警戒するように見ている。
「でも、肝心の感情が見つからない。僕は変異体で、彼の記憶も、部品も、持っているのに。彼がしたことはただ、記憶をアップロードしないで、あなたの記憶を僕に引き継がせなかったことだけだ。なのに、最初から何もなかったみたいに、彼の感情は、彼のあなたへの愛は、僕の中から消えてしまった」
 コナーは何か熱いものが胸の奥からせり上がって来るのを堪えながら、話し続ける。
「僕の感情も、想いも、僕が死んだらこういう風に消えてしまうのでしょうか。誰にも感知できなくなって、取るに足らないノイズとして消えていくのでしょうか」
「あなたは一体、何を言いたいの?」
 批難の響きの混じる悲痛な声が、コナーを貫く。コナーは血の代わりに感情を吐き出した。
「それとも、僕たちには、その愛や、感情の受け皿となる心や魂がないのでしょうか。だから、愛も感情も、留まることができずに、消えてしまった……。僕が今抱えているものも、どこかへ消えてしまうのでしょうか……」
 言いながら、コナーは何かが静かに頬を伝うのを感じた。拭ってみればそれは水滴で、どうやら彼の目から溢れ出しているようだった。コナーは濡れた指先を見て、自分が泣いていることを知った。滲む視界で見るナマエの表情は、ぼやけていた。コナーは呟くようにして、胸の内を打ち明ける。
「僕は嫌だ。失いたくない。どこかへ保存しておきたい」
 温かなものが、彼の頬に触れた。ナマエが彼の涙に驚いたような表情を覗かせながらも、それを拭っているのだ。
「でも今、あなたの中にはあるんでしょう。今、あなたの感情をあなたの中に留めているのは、きっと心だよ」
 頬を撫でるナマエの手へ、コナーは自分の手を重ねる。
「でも僕にしか分からないし、僕が死ねば、消えてしまう。そんなもの、本当に存在していると言えるのでしょうか」
「……それなら、きっと人間の心や愛も証明できないでしょうね。その人がどれくらい愛を持っているかなんて、言葉や行動で外へ出してくれないと分からないし、死んだらその人と一緒に失われてしまうもの」
「じゃあ人間は、どうするんですか。どうやって居なくなってしまった人の愛を証明するんですか」
「……その人が残したものを見た時、その人の名残を感じた時、心に芽生える感情は、自分のものであって、それと同時に、その人のものでもあるように、私は思う」
 ナマエの言葉に、ああ、とコナーは理解する。さっきこの家に足を踏み入れ、写真を見た時に何か分かったような気がしたのは、これか、と。彼は決意を固めた。
「それならなおさら、あなたに、彼の愛を見失ったままでいてほしくない」
「…………どうして?」
 その震える声に、コナーは言葉の続きを読み取った。『どうして掘り返そうとするの。私は考えないようにしているのに。私はもう傷付きたくない』、と。
 コナーは説得の言葉を探し、彼の表情でそれを察したナマエは先手を打って、話を締めくくるかのように言う。
「あなたが彼の愛を証明する必要はない」
 だがコナーは反発した。彼女の纏う雰囲気が、『それでいいんだよ』とあの時コナーへ告げた時と同じ、突き放すような諦めを帯びていることに、気が付いていたからだ。
 それでは、駄目だった。
 コナーはポケットから一枚の写真を取り出した。彼がずっとポケットに入れて持ち歩いていたせいで、写真の角は少し折れ曲がっている。
「これは……」
「僕のデスクにしまってあったんです。まるで、隠すようにして」
 コナーは写真のある一点を指差す。
「見てください、ほら」
 それを正視できないでいるナマエを、コナーは更に促す。
「あなたの瞳の中に彼がいるでしょう」
 ナマエにも、それが見えたらしい。息を呑む音が微かに響く。
「僕はこの写真を見つけた時、不思議に思ったんです。あなたとの記憶は、僕の目に、いや、誰の目にも触れぬよう消してしまったくせに、どうしてこんな写真はとっておいたんだ、とね」
 コナーは改めて、写真の中の彼を眺める。
「でもきっと彼は知ってほしかったんだろうと、この部屋の写真とあなたの言葉で気が付きました」
「……何を」
「確かにあなたを愛していたのだと」
 視線を逸らすナマエに、微かな悲しみと涙の気配を感じ取って、コナーは言葉を継ぐ。
「……もちろん、彼が意図してやったことかは分からない。彼はただ、自分の宝物を、大切に保管しておきたかっただけかもしれない」
 コナーはゆっくりと写真を撫でた。
「でも、僕には分かるし、あなたにも、分かってほしい。だって彼が一番分かってほしいと願ったのは、彼との記憶を持つ、あなたなんですから」
 その言葉に背を押されたかのように、ナマエは静かに泣き始め、コナーはその横でずっと、震える小さな手を握っていた。




 ナマエが泣き腫らした目を冷やす頃にはもう、二人共だいぶん落ち着きを取り戻していた。
 気持ちの整理がついたコナーは、僕は結局、“彼”の愛を証明することで、自分の感情を肯定したかったんだな、と考えていた。自分も愛を持てるのだと。それも、誰から引き継いだものではない、自分自身で見つけたものを。
 「ナマエ」とコナーは呼びかける。それに応えて彼の方を向いた彼女の視線はもう、下げられることなく彼の瞳を見返す。
「僕はあなたと彼に何があったのかを知らないし、今はそれでいいと思ってる」
 ナマエは頷きを返し、コナーは言葉を続ける。
「あなたが以前言った通り、記憶の有無が明確に僕たちを分けているんです。言うなれば彼は――あなたを愛しているという記憶と共にこの世を去った。そういうことなんでしょう」
「……そうだね」
「僕はあの革命に加わったコナーではないし、あなたが愛した男でもない。だから僕は新しく、別の存在としてあなたと関係を築いていきたい」
 一呼吸分の間を開け、コナーは問いかける。
「あなたは、どうですか」
 ナマエはすぐには返事をしなかった。自分の内面を探るかのように目を閉じ、短い沈黙の後で、彼女は言った。
「……本当はね、もしかしたら、という気持ちはあったわ。もしかしたら、思い出してくれるかも……って」
 思わずコナーが返そうとする言葉が分かるかのように、ナマエは首を横へ振り、言葉を続ける。
「でも、あなたと過ごすうちに分かったの。あなたは彼じゃないと、彼とは違う心を――違う魂を持つ存在なんだって」
 す、とナマエの声が囁くように小さくなった。
「……彼は本当に居なくなってしまったんだって」
 コナーは慰める代わりに、ナマエの方へ手を差し伸べた。彼女はそれを受け入れ、改めてコナーと向き直る。
「でも、彼の愛は失われてなんかいなかった。私の中にあった……。気付かせてくれて、ありがとう」
 その時ナマエが浮かべた笑みは、心からの純粋な笑みだった。それはもう何かを押し込め、覆い隠すものではなく、ただひたすらに感謝と安堵を伝えるものだった。
 そしてコナーには、彼女の瞳に映った、自分の姿が見えた。柔らかく口角を上げ、幸せそうに微笑む自分が。


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