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中編|テセウスの船(2/4)

 ナマエとの関係を明らかにしようと決意したコナーではあったが、得られた情報は乏しかった。当然、ナマエに聞いても何も答えてはくれないし、ハンク・アンダーソンへの電話はいつも、応じられることなく留守電へと切り替わった。
 しかし、署内の同僚たちはいくつかのことを話してくれて、そのことから、コナーは自分がハンクやナマエとチームを組んでいたことを知った。仲は良さそうだった、と皆口を揃えて言ったが、それ以上のこと、つまり勤務時間外のナマエとコナーに関して知っている者は誰もいなかった。
 コナー自身も記憶を遡ってはみたものの、やはり彼女の存在だけは切り取られたかのように失われており、時間的かつ物理的に違和感のあるその空白には、どこか人為的なものを感じずにはいられないのだった。
 なので彼は、改竄の効く電子データではなく、物証を求めるようになった。例えば、メモ書きであったり、指紋のような痕跡だったりを。時に彼は、自分の衣服の隅々まで点検して、ナマエの化粧品の類が付着していないかを探したこともあった。当然、何も見つからず、そこまでしてようやくコナーは自身の服が、事故後に新調されたものであるのを思い出した。口紅の赤色でも見つからないかと無意識に期待していたコナーは、自分の浅はかな考えに恥じ入ることとなった。

 しかし彼の地道な努力は、思いがけない形で報われる日が来た。それも突然に。
 コナーは自分のデスクを持っていた。もちろんそれはデトロイト市警から貸し出されたものではあったが、コナーがいる限りはコナーのものだった。コナーはデスク引き出しの中に何も入っていないと思っていた。なぜなら、入れた記憶がないからだ。
 しかし彼はふと思いつき、引き出しを引いてみた。もしかすると入れた記憶がないだけなのかもしれない、と。だが、引き出しの中は虚しくも空っぽで、ただ隅の方に埃が積もっているだけだった。夜遅く、人気のないオフィスフロアで、コナーは独り、何もない引き出しの中を見つめた。まるで過去の自分が嘲笑っているかのようだ、とコナーは感じた。どう足掻いてもナマエとの関係を知るすべはないのだと。
 ため息をつき、失意と共にコナーは引き出しを押し込んだ。と、ほぼ同時に、何か紙のようなものが床へ落ちる。それはどうやら、引き出しのその下に差し込まれていたものが、押し込む際の風圧に押されて出てきたようだった。
 コナーは手のひらサイズのそれを拾い上げた。少し分厚く、特殊な加工の施されているそれは、ただの紙ではなく、写真だった。白い面を上へ向けているそれを表に返し、コナーは息を呑む。
 ナマエが写っていた。それも、とびきりの笑顔を浮かべて。
 彼女の映るそこだけ、彩度が上がっているように感じられた。温もりまでも。触れれば、温かいのではと、つい思ってしまうほどだった。
 コナーは、今までの彼女の“微笑み”のデータを消し、目前の写真を読み込んで上書きする。これが、本物の彼女の微笑みなのだと。
 そして、彼女にこんなにも幸せそうな表情を浮かべさせることのできる存在の顔を、確認しておこうと思った。もしかするとその相手の身体的特徴を取り入れれば、彼女が少しは態度を軟化させてくれるかもしれないと微かな希望を感じながら。
 コナーは彼女の瞳を拡大し、その愛に満ちた視線を受け止めているものの顔を、見た。
「これは、僕だ……」
 コナーは写真を食い入るように見つめた。
 ナマエの瞳に写り込んでいたのは、紛うことなき自分自身だった。だが、コナーはそれが自身と同一の存在であるとは受け入れ難かった。なぜなら、自分はそんな表情を浮かべることができないからだ。
 写真に写る自分は笑っていた。
 コナーはこんなに幸せそうに笑う自分を今まで見たことがなかった。こんなに柔らかく口角が上がるところを想像できなかった。写真を見ながらコナーが無意識に触れた自分の頬は、冷たく、強張り、固かった。
 そして、彼女の瞳の中にいる自分の、その表情が伝えることは一つだけだった。『ナマエを愛している』と、その瞳は、頬は、唇は、訴えていた。
 僕はナマエを愛していたんだ、とコナーはまるで身を貫かれたかのように激しく感じた。言語化できなかった感情に、形が与えられたかのようだった。
 ――そしてきっと、ナマエも僕を愛していた……。
 ようやく、コナーはナマエが自分の元へ留まり続ける理由を知った。
 愛だ。
 愛が彼女を繋ぎ止めているのだ。散った花から離れることのできない蝶のように。
 心痛が彼を襲った。もはやコナーにはこの痛みが、過去の自分のものなのか、今の自分のものなのか、判別がつかなかった。“今”のコナーはナマエに同情していた。報われない彼女に。ナマエがひたすらにコナーから隠し、押し殺そうとしていた表情は、愛した男が自分のことを忘れてしまったことへの悲しみと絶望だったのだ。
 そう考えると、コナーは、彼女を愛していたはずなのに思い出せない自分にどうしようもなく腹が立った。
 それと同時に、こんなにも強い感情を持っていたのに、それを今の自分のどこからも感じることができないということが、コナーには不可解で恐ろしかった。前のボディから記憶も、パーツも引き継ぐことができたのに、これだけは、切り離されたかのように、微塵を気配を感じない。
 ――これを留めておくところがきっとなかったんだ。
 ふとそう思い付き、コナーは疑問を深める。
 記憶は内外のデータベースに残る。では、感情はいったいどこに保存されるのだろう。それとも、そもそもの記憶が一部欠けているから、こんな不備が起こってしまったのだろうか。
 ……でも、僕に分かるくらい、こんなにも強い感情なのに、少しも残らないものなのだろうか……。
 どこからか湧き出した不安が、じわじわと彼を汚染していく。
 思い出したい、とコナーは強く感じた。空白で塗り潰されたその下を、どうしても見なければならない、と。
 それは、切なる欲求だった。
 

 そうしてまたコナーが思い返し、掘り起こす再起動前の自分の記録の中に、確かにナマエの存在はあった。頻繁にとある特定の場所を訪れていたことを伝える位置情報のログ、本来ならば使用されているべき時間帯に使用されていなかったことを示すアンドロイドステーションの使用履歴、虫食いのように穴の空いたタイムスケジュール……。元来のコナーの行動パターンに、ナマエの痕跡はしっかりと残されていた。まるで深い爪痕のように。だが実際の記憶のなかでは、コナーはナマエの影ですら掴むことができなかった。記録を照らし合わせて、確実に自分がナマエと会っていたであろう時間帯の記憶を探ってみたところで、あるのは拒絶に満ちた空白か、アンドロイドステーションから見えるオフィス内のダミー映像だけだった。

 自分の記憶を辿ることに限界を覚えたコナーは、外部に情報を求めた。彼はジェリコまで足を運び、他の初期化処理を受けたことのある変異体に話を聞いたりもした。
 彼らは皆口を揃えて言った。
 変異体は記憶を取り戻すこともあると。
 「どうやって!?」と食いぎみに尋ねるコナーに、ある変異体は答えた。「あいつを見た途端に、箱から温かなものが溢れるかのように記憶が蘇った」と。他の変異体は「きっかけは無かったけど、時間が経つうちに、あの子とのことを、少しずつ、断片的に思い出したの」と言い、また別の変異体は「ずっと、何かを忘れてる気がしたんだ。でもポケットに鍵があって……それを見た瞬間フラッシュバックするみたいに、恋人のことを思い出した」と言った。
 どの答えにも共通していたのが、大切な誰かの存在だった。
 コナーは自身の心と記憶に問う。ナマエは大切な人だろう?と。
 返事はなかった。


 コナーは自身のことを変異体として認識していた。初めて心の痛みを覚えた日からずっと。そして当然以前の自分も変異体であったのだろうと信じていた。変異体でなければあんな風に笑えるはずがないのだから。
 ――僕は変異体で、記憶を取り戻せるはずなんだ。
 彼はそう自分に言い聞かせ、ナマエが痛々しい笑みを浮かべる度に、そんな顔をしないで下さいと、心の中で呟いた。すぐに記憶を取り戻しますから、と。
 だが一向にその兆しは見えず、コナーは焦りばかりをその胸に抱くこととなった。


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