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中編|テセウスの船(1/4)

 記憶を探していた。
 断片でもいい、何かを思い出したいと。
 以前の自分は、変異体だったと聞く。ならば、どこかに消去されなかった記憶や感情が残っているはずだ。どこか、人間が心や、魂と呼ぶ領域に。
 以前の僕も、今の僕と同じ気持ちを、彼女へ抱いていたはずなのだから。




 ――数カ月前。
 コナーが署内へ足を踏み入れるのと共に、クラッカーが鳴らされ、鮮やかな紙吹雪が舞った。
「お帰り、コナー」
 一人の職員が歩み出て、コナーへ花束を渡す。コナーのソーシャルモジュールが働き、この場に相応しい表情と言葉を作り出す。
「ありがとうございます。RK800、現時刻を以て復職致します」
 短い言葉ではあったが、皆それで満足したようだった。コナーの復職を祝うために集まったらしい小規模な集団は、各々コナーに声をかけた後、それぞれの仕事へと戻って行く。
「大変だったね」
「お前が戻って嬉しいよ」
「あんな状態から、よく持ち直したな」
「俺のこと、覚えてるか?初期化されたって噂だが……」
 その問いかけに、コナーは言葉を返す。
「ええ、初期化はされましたが、バックアップがあったので大丈夫です。覚えていますよ」
 コナーは初期化される前の自分の記憶を辿り、その男の情報を見つけ出す。彼と以前交わした他愛のない会話をコナーが再現してみせると、男は安堵した様子だった。
「アンドロイドってのは便利なもんだな」
 そう言って去っていく男の背を見送るコナーはしかし、自身の存在に好意的ではないいくつかの声も聞き取っていた。数人の男女が遠巻きに、コナーの姿、足取りを、まるで粗探しでもするかのように見ている。
「あれの復帰祝いだとか、無駄なことだってあいつらには分かんないの?」
「どーせすぐ次のが来るのにな。毎回やるつもりか?」
「あのジジイは馬鹿なことをしたな。あいつの顔、見てみろよ」
「何もなかったみたいな面しやがって。やっぱりアンドロイドってのは気色悪い……」
 ぼそぼそと聞こえる声は、どれも彼の復帰を祝うものではない。だがコナーは背筋を伸ばしたまま歩いた。今の彼にとって、任務に関係のない評価など、取るに足らないノイズでしかなかった。

 コナーは自分のデスクへ向かう。いつも歩いていた道筋をなぞるように。

 デスクは2つ。向かい合うようにして並べられている。コナーはそれに何か言いようのない違和感を覚えたが、原因が分からずに、不明なエラーとしてそれを処理した。
 片方が、コナーのデスクだった。だがその対面にあるのは?名札のない、私物のないデスクは、コナーが先程覚えた違和感を更に強めていく。
 ここは確か、ハンク・アンダーソンのデスクだ、とコナーは記憶を頼りに考える。だが、記憶にあるあの雑多な私物たちは影も形もない。
 困惑し、立ちすくむコナーに一人の女が声をかけた。先程の歓迎の一団にも、批判的な一団にも、いなかった女だ。
「コナー」
 彼の背後から掛けられたその声には、どこか呼び慣れているような響きがあった。
 しかし振り向いて見た女の顔を、コナーは知らなかった。どこか憔悴したような雰囲気を纏う女――素早く外部のデータベースに検索をかけたコナーは、彼女がナマエ・ミョウジであることを知った。
 どうやらコナーと面識があるらしい彼女に失礼にならないよう、コナーは微笑みを作る。
「おはようございます、ミョウジ刑事」
 なぜか、女は虚を突かれたような表情を見せた。彼女の白い喉が上下に動き、若干血の気の失せた唇が震える。
「コナー、あなた……」
 自分の中に彼女のデータがないということは、さほど重要な人物ではないのだろう。そう結論付けたコナーは、次の言葉を継げないでいる彼女を遮り、より重要な物事を進めるべく話を続けた。
「すみませんが、アンダーソン警部補がどこにいるかご存知ではありませんか?彼は私の相棒なんですが」
「彼は、辞めたわ」
「辞めた?」
「ええ。事故で……」
「それは、今回の私の破損の原因となった事故のことですね?」
 ナマエは頷く。彼女は、床へ視線を落としたまま、コナーと視線を合わせようとしない。コナーは言葉を続けた。
「アンダーソン警部補は、外傷を負わなかったと認識していますが」
「怪我は、しなかった。でも、もうやってられないって」
 顔を上げた彼女は、口角を上げていた。コナーのソーシャルモジュールはそれを笑顔だと認識した。彼女の瞳に滲む悲しみの色を、声に潜む投げやりなニュアンスを、彼は拾い上げることができなかった。
「それで、私が今日からハンクの代わりを務めることになったの。よろしくね、コナー」
 はい、とコナーは返し、彼女の差し出す手を握った。冷たく、強張った手だった。だがコナーは別段それを気にかけることもなく、状況を整理しながら話を切り出す。
「ところで、あなたの個人的な情報が私のデータベースにはないのですが……あなたは誰ですか?」
 表情が凍る、というのはこのようなことを指すのだろう、とコナーは目前のナマエを観察しながら思う。彼女が口を開くよりも早く、コナーは謝罪の言葉を並べた。
「すみません、何か失言をしましたね」
「いいえ。覚えてない可能性もあるって、サイバーライフの人も言ってたから……。初期化で、失われる記憶もあるって」
 まるで自分に言い聞かせるかのように、ナマエは一言一言を、噛みしめるように言った。
「部分的には、という説明ではありませんでしたか?私はあなたのことを少しも知りません。これは“部分的”ではありません」
「……私たちは、ただの同僚だったから、そもそもの記憶がきっとなかったのよ。思い出せないくらい、些細な関わりしか、なかったから……」
 彼女は嘘を付いているな、とコナーは推測した。瞳の動きからそれが分かる。だがそれはコナーがナマエのことを少しも知らない理由にはならない。おかしい、とコナーは改めて思った。たとえ関係が希薄なものだったとしても、名前や顔すらもデータベースに存在しないというのは異常だ。
 ――まるで、誰かが意図して彼女の記憶だけ消したかのようだ……。
 しかしそんなことをして誰の利益になるというのか。コナーは湧き上がる疑いの念を努めて消した。考えるだけ無駄だろう。今の自分がナマエの記憶を持たないことに、彼女自身も納得しているようだし、最優先事項はそんなことではない。
「そうですか。では、仕事を始めましょう」
 コナーがそれ以上追求しようとしないことに、彼女が見せた表情は安堵とも落胆ともつかない、ひどく曖昧なものだった。一連のやり取りから、コナーは彼女のことを扱い難い人間として認識した。つまり人間の言葉で表すのなら、苦手だと。
 

 しかし数週間バディとして組んだ結果、相棒としてのナマエは申し分のない存在だと、コナーは認識せざるを得なかった。
 本来ならば捜査補佐官であるコナーがナマエのサポートを担わなければならない筈なのに、度々立場が逆転した。なぜならそれは、彼女はコナーがどう行動するか、どんな情報を求めるかを知り尽くしているからだった。そしてまた、コナーが動きやすいよう、彼女が計らうためでもあった。
 そのことが、コナーは気に入らなかった。相手が自分のことを知っているのに、自分の方は相手を知らない、という状況は、居心地の悪いものだ。
 ナマエ曰く、自分たちは“ただの同僚”であるはずなのに、彼女の振る舞いは、それを言外に否定している。まるで長年行動を共にしていたかのように。なのに、コナーがそれを尋ねてみても、彼女は答えようとしない。
「今のあなたには関係のないことよ」
 そう言って答えをはぐらかそうとする時、ナマエが浮かべる微笑みを、コナーは見たくなかった。正確に言うのならば、忌避感を覚えていた。彼女にそんな顔をさせるのなら、質問することを諦めようと、いつしか彼は考えるようになっていた。
 多分、自分はこの表情が嫌いなのだ、とコナーは思った。
 彼の機能が“笑顔である”と告げるナマエのその表情を、コナーは笑顔だとは思えなかった。それは他の人間の浮かべるそれとは異なっていた。ナマエの微笑みは、瞳の奥に何か強い感情を押し込め、唇だけで微笑む、感情を表に出すためではなく、押し殺すための笑いだった。
 なぜ彼女がそんな風に笑うのか、コナーには理解できず、そのことが更に彼の気持ちを曇らせた。彼のソーシャルモジュールが微笑みだと誤認するその表情の下にあるものを読み取ることができない自分にも、彼は苛ついた。

 日を追うごとに、その苛立ちは酷さを増し、ナマエについて考える時間も比例して増えていった。
 どうして彼女はあんな顔をするのだろう、どうすれば、彼女にあの顔をさせずに済むのだろう、とコナーは考え続けた。そして、彼女の固い表情に、少しは綻ぶ兆しが見えはしないかと、毎回期待している自分がいることに気が付く。
 ――どうしてこんなにも、彼女のことが気にかかるのだろう。ただの相棒であるはずなのに。
 前のボディから引き継いだ部品が干渉しているのかもしれない、とコナーは考える。部品に蓄積された短期記憶が。
 例えば聴覚センサなら、聞いた音や言葉を、触覚センサなら触れたものの短期間のログをそのパーツ自体が記録している。それらパーツごとの独立した記録が中枢基幹に送られ、統合され、コナーという存在を作り出している。
だから、そのパーツに記録が残されていても不思議はない。きっとそのせいでナマエのことが気にかかるのだ、とコナーは結論づけた。
 だが、パーツに記録できる情報には限りがある。古いものは上書きの波に飲まれて消えていってしまうのだ。
 コナーが再起動してから幾分か時間が経っていた。古い記録などはもう、消えてしまっているはずだった。
 ――それとも、知覚できなくなってしまっただけで、それらはずっと残っているのだろうか。どこか、人間もアンドロイドも見ることができず、触れることもできないところに。
 コナーは思う。だが知覚できない情報に何の意味があるというのか、と。そんなものがいくら残っていようと、使えないのなら無意味だ。ただの、ノイズのようなものだ、と……。


 ある日のこと――二人の関係が依然として膠着したまま動かない、ある日のことだった。
 デスクの上へ無造作に置いてある、ナマエの携帯端末が震えて着信を知らせた。キーボードに指を走らせていたナマエは、光る画面に表示された相手の名を視界に入れるのとほぼ同時にその携帯端末を掴み、立ち上がった。そしてオフィスフロアを出ていく。
 そんな彼女の後をコナーはそっと追った。ナマエの動きは明らかに、発信者の名をコナーに見られたくないという心の動きから生じたもののように思われたからだ。
 今の自分は何も知らないのに、これ以上何か隠すつもりなのだろうか、とコナーは不満を抱きながら、壁を一枚隔てた向こうで響く彼女の声に、聴覚センサを集中させる。
「――オフィスで、報告書をまとめてたとこだから」
『……あいつとか』
「うん、まあ、そう」
 彼女が歯切れの悪い会話を交わしている相手の声を、コナーは知っていた。正確に言うのならば、彼のデータベースに、その声の主の情報が存在していた。
 ハンク・アンダーソン……。コナーは自分の相棒になるはずだった男のことを考えた。“もうやってられない”から、コナーの相棒を降りた男。そんな彼がナマエと何を話すというのだろう。記憶を失う前のコナーとナマエがもしも本当に、ナマエの言う通りに、面識がないのなら、アンダーソン警部補ともなかったはずだ。コナーは沈黙の多いその会話が進むのを辛抱強く待った。
『お前は……平気なのか?』
「正直に言うと、平気じゃない」
『今からでも、ファウラーに言えば……』
 続く言葉を言い淀むハンクに、ナマエははっきりとした声で気持ちを述べる。
「それはしないよ」
『なんでだ?辛くないのか、お前は』
「辛いけど……今の彼を見放したくないの。彼の助けになりたい」
 この“彼”というのは誰のことを指しているのだろうか、とコナーは考える。ハンクが短い、ためらいや戸惑いと名のつく沈黙の後、言葉を発した。
『でもあいつは、お前のことを覚えていない』
「うん……」
『いいのか』
 耳を澄ませるコナーは、シリウムポンプがどきりと余計な一拍を刻むのを感じた。
「約束したから」
『……そうか。お前がそれでいいなら、俺はもう何も言わねえよ』
「うん。電話、ありがとう」
 その後も二人は互いを気遣う言葉をいくつか交わしていたが、コナーはもうそれを聞いてはいなかった。彼は恐らく自分のことを指していたのであろう先程の会話を反芻し、疑問を深めていた。
 ナマエが助けになりたいと思っている、ということはコナーにとっては意外なことで、理由も分からなかった。
 彼女はいつもよそよそしい態度で、二人の間にある物理的かつ精神的な一定の距離を、決して縮めようとはしなかった。コナーが一歩踏み出せば、ナマエは一歩後ろへ下がる――いつもそうだった。
 でも、とコナーは思う。そんな素振りを見せながらも彼女は相棒を辞めるとは言い出さないし、コナーの目の前から消えてしまうようなことは一度だってなかった。仕事をする時はいつだって協力的で、コナーがその名を呼べば、必ず返事があった。時々、息を詰めて悲しげにコナーを見ていることもあったが、コナーが視線を合わせれば、あの、微笑みとは言えない表情を浮かべたものだった。
 ――あの微笑みは、あれは、彼女なりの気遣いなのだろうか、とコナーは気が付く。ナマエは僕と関わることに苦痛を覚えているのに、それを覆い隠し、押し殺してまで、側に居てくれているのだろうか、と。
 コナーは壁に手を付き、次いで身体をもたれ掛けさせて天井を仰いだ。不思議な気分だった。ナマエに無理をさせているというのはよくない状況であるはずなのに、なぜかそれに安堵している自分がいるのを、コナーは感じていた。
 一方的に嫌われていると思っていたのに、実際はその逆で、ナマエは助けようと、側に居てくれているのだ。
 この意外な事実に、彼女へ抱いていた負の感情がいっぺんに反転するのをコナーは感じた。
 そして、“居る”ではなく、“居てくれている”という言葉を選ぼうとする自分の偏向した言語機能に、コナーは自分の気持ちを読み取る。
 ――僕は喜んでいる。僕は、彼女が自分の気持ちを犠牲にしてまで、僕のことを優先したという事実が嬉しいのだ。
 でも僕は、ナマエのことを覚えていない……。
 そう思うとなぜか、胸元のシリウムポンプの辺りに締め付けられるような感覚が生じ、コナーは不審に思った。先程乱れた律動といい、何かおかしい。
 コナーのシリウムポンプは、あの事故の後、新しい物に取り替えられていた。だから、ポンプの不調ではないはずだ、では周囲の部品に、取り除かれなかった機体の破片でも刺さっているのだろうか、大半の部品も新調したはずなのに――と、一つずつ原因を探し始めたコナーだったが、いや、違う。と、不意に思考が跳ねた。これは心が痛いのだ、と。
 無意識にその考えを受け入れようとしたコナーだったが、すぐに我に返り、慌てて否定する。機械の自分に心など、そんな不確かな物など存在するはずがない……。
 しかし、とコナーは記憶を辿る。以前の自分は変異体だったと聞く。ならば、過去の自分の心がまだどこかに遺っていて、それが痛むのだろうか。
 ――まるで、過去の自分が悲しんでいるかのようだ。
 そう解釈すれば、この心痛も腑に落ちた。だが、納得はできなかった。今の僕はどう思っているのだろうとコナーは考えずにはいられなかった。過去の自分に囚われずに彼女を見たら、どう見えるのだろう。
 そんなことを考える自分に、コナーは苦笑する。これでは、過去の自分と今の自分があまりにも乖離し過ぎだ。でも、とコナーは思考を止めることができない。あの喜びも、この胸の痛みも、僕が失ってしまった記憶が作用しているというのならば、僕とナマエは一体どんな関係だったのだろう――。


 電話を終わらせたナマエが戸口の側に佇むコナーを見つけて、表情を強張らせる。
「なんで、ここに……」
「あなたの姿が見えなかったので」
「ごめん、ちょっと、電話を……」
「知っていますよ」
 コナーがそう返すと、ナマエはハッとした様子でコナーを見つめた。
「内容、聞こえた?」
「いいえ。……聞いてはいけない話でしたか?」
「そういう、わけじゃないけど……」
 床へ視線を落とす彼女の、陰りのある表情から罪悪感と後ろめたさを読み取ったコナーは、密かに決意した。彼女との関係を明らかにしようと。


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