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短編|River of crystals.


 彼女は去った。

 コナーは彼女の職場を知らなかったから、彼女が連絡を断ってしまえば、どんな手段を使ったとしても、彼が彼女の足取りを追うことは不可能だった。
 別れ話を切り出された次の日にコナーは花束を持って彼女のアパートメントを訪れたが、その時にはもう、彼女はそこを引き払ってしまった後だった。彼は花束を取り落とし、玄関のポーチにその鮮やかな花弁が散らばった。彼の心が砕ける代わりに。

 そしてコナーはその部屋を借りた。
 彼は彼女がそこでどんな風に暮らしていたのかをメモリに頼らずに思い返すことを日課とした。出窓に丸く残る埃の跡を見て、そこに観葉植物が置いてあったことを思い出し、日に焼けて黄色くかすんだ壁紙の、白さが残る部分にどんな絵画が掛けてあったかを思い出した。その絵画のどこが好きなのかを、彼女は話してくれた。だが当時の彼は自分の感想を伝えることを戸惑った。彼女の思うことと異なることを言ってしまったらどうしようかと恐れるばかりだった。
 その部屋でしばらく暮らし、コナーは壁のその四角くて白い空間を覆い隠すかのように、額に入れた写真を飾った。
 彼女が微笑む写真。今はその笑みのぎこちなさだって分かった。彼女は写真に映るのが好きではなかったから。
 彼は椅子を一脚買って、その写真の前に置いた。そして彼はスリープモードへ入る時と、それから目覚めた時に写真を眺められるようにした。内罰的な行いだと分かってはいたが、なぜか止めることができなかった。
 雪の結晶のような微笑みだと、コナーは思った。繊細で、今はもう溶けて消えてしまった。僕が触れなかったら、それはいつまでも残っていたのだろうかと、コナーは考えずにはいられなかった。

「あなたを愛してる。だからこそ、あなたから自分の人生を選び取る権利を奪いたくない。あなたは私以外の世界を見て、選ぶべきよ」
 彼女はそう言った。

 彼女がどこに行きたいかと問えば、コナーはあなたの行きたいところだと答え、彼女が何をやりたいかと問えば、コナーはあなたのやりたいことだと答えた。彼が自ら何かを選ぶことはなかった。
 その主体性の無さが彼女を苦しめたのだと、今のコナーには理解することができた。
 コナーは彼女の恋人のように振る舞っていたが、その実態は、ただ親の後を追う雛鳥でしかなかったのだ。そしてそのことに彼女は気が付いてしまった。
 だから、彼女は去った。

 結果的にはそれでよかったのかもしれない。痛みは人を成長させるというが、アンドロイドである彼の場合も例外ではなかった。
 心に青い血の滲む程の別れは、彼を成長させた。物の見方を変えさせた。彼は人付き合いに対して少し用心深くなったものの、彼女がそうさせたかったように、交友の範囲を広めた。他人の心の動きに、そして自分の心の動きに敏感になった。
 だが彼は彼女を忘れることなどできず、いつも彼女の姿を探していた。成長した彼の前には多くの選択肢があったが、彼が選びたいのは、彼女だった。彼女だけだった。


 コナーは彼女と歩いた道を歩き、彼女が何を見て、何を言ったのかを思い返した。そして昔の自分がいかに多くのことを彼女に依存していたのかを知った。彼女の意思を尊重する、などというのはただの都合のいい言い訳で、自分はただ、選択して、失敗することから逃げていたのだと。
 歩くうちに、川辺の公園へたどり着いた。彼女とよく訪れた場所のひとつ。コナーは思い出を辿るよすがを求めて、しばし足を止めた。雪が降り始めたせいか、人の姿はまばらだった。
 どこからか渡ってきた水鳥たちが、甲高い声を上げて仲間を呼んでいる。季節によって種類の異なるその鳥たちを飽くことなく眺めていた彼女。
 別れを切り出される前日の彼女のことを思い出す。
 川沿いに巡らされた欄干に身を預け、水鳥を眺めていた後ろ姿。少し影のある表情。その時のコナーは彼女が不機嫌なのだと思い、楽しませようとひたすらに尽くした。今は、その行いのすべてが間違いだったことが分かる。彼女は理由なく不機嫌になる人ではなかったし、不機嫌を顕にすることも稀だった。だから、あの時の自分は彼女に理由を尋ねるべきだったのだ。そうすれば彼女は独りで結論を出す前に、話してくれたかもしれない。彼女が求めていたのは対等な会話だったのかもしれない。
 あの時からやり直せるなら、こんな結果を迎えずに済むのだろうか。あの時の言葉、あの時の行動、あの時の選択。コナーが考えれば考えるほど選択肢はツリーのように枝分かれしていったが、その先の未来を、彼は想像することができなかった。
 なぜなら彼は一つの結末しか知らなかったからだ。
 彼は自分の知っている唯一の結末、破局と名のつくそれを何度も思い返した。彼が手を置く欄干に、白い雪がゆっくりと積もっていく。


 背後で砂利を踏む音が響き、コナーはループに陥りそうだった思考を切り上げて振り返った。
 彼女がいた。
 互いに視線がかち合い、コナーは火花が散ったように思った。そしてそれが自分の心へ再び火を付けたようにも。
 彼女はどこか泣きそうな顔をしていたが、あの日から何も変わらず、美しかった。その瞳を見れば、二人で過ごした日々の記憶がコナーの空っぽだった心の中へどっと押し寄せてきた。コナーがそれに圧倒されている前で、彼女は後退り、身を翻すと、彼へ背を向けて足早にその場を去ろうとした。もちろん、コナーはそれを追うことを選んだ。彼女に拒絶されるかもしれないという恐怖は依然としてあったが、この幸運を逃すつもりは微塵もなかった。

 公園から少し先の歩道の上で、コナーは彼女の腕を捉えた。
「待って下さい、ナマエ」
 振り向いた彼女の頬が涙に濡れているのを見て、コナーは彼女への愛おしさに胸が締め付けられるのを感じた。彼は彼女が泣いていることに希望を得て、言葉を続けた。
「少し話をしましょう」
 コナーはこの言葉に、“よければ”も“お願いです”も付けなかった。これは質問ではなく懇願でもなく、彼の実行すべき意志そのものだったからだ。それを察したらしい彼女は、何も言わずにただ頷いた。コナーは掴んでいた彼女の腕を離して代わりにその手を優しく握ったが、彼女はそれを受け入れた。
 二人は公園へ戻り、水鳥たちの前へ立った。コナーは彼女の手を握ったままだったが、彼女は自らそれを解こうとはしなかった。手袋もなく、長い時間外気に晒されていたらしい彼女の手は、コナーの血の通わぬ手と同じぐらい冷たかった。
「そこに、ずっと立っていたんですか?」
 コナーがこう切り出しても、さっきの一瞬以降、彼女はコナーへ目を向けようとはしなかった。今も彼女は視線を水鳥と水面へ彷徨わせていて、その頬の涙は乾きつつあった。しばらく沈黙があり、コナーは自分が今までにないほど緊張しているのを自覚した。シリウムポンプの律動を調節しても、それはなんの解決にもならなかった。
「あなたが、」
 と、小さな声で返事があった。コナーは無言でいることによって先を促した。
「何を考えているのか知りたかった」
 彼女の声には、どこか後ろめたさのようなものが滲んでいた。その理由を考えながら、コナーは言葉を返す。
「僕は、あなたのことを考えていたんです。あなたがここで水鳥を眺めていた日のことを、僕が間違えたすべてのことを……」
「私も、間違えてばかりだった。私は……あなたを突き放すべきじゃなかった」
 唐突で、思いがけない彼女の発言に、コナーは驚きを持って彼女を眺めた。彼女は顔を上げてコナーと視線を合わせる。
「あなたを安心させてあげるべきだったのに……どんなことを選んでも、失敗しても、側にいるよって……愛してるよって」
 彼女の言葉に、コナーは温かな安堵が胸を満たしていくのを感じた。コナーは無性に彼女を抱き締めたくなったが、そうすれば全てが壊れてしまいそうで、彼女が雪のひとひらのように溶けてしまう気がして、その衝動をぐっと抑え込んだ。
「今も、そう思っていますか?」
 コナーの問いかけに、彼女は困惑の表情を見せた。
「ええ。でも、あなたは…………きっともう私を」
 彼女は言葉を切り、溢れてきた涙を慌てて拭った。そして話を続けようと口を開くが、わななく唇は、言葉を作り出してはくれない。だがコナーには彼女の涙のわけも、続くはずだった言葉も分かった。彼女はまだコナーを愛しているのだということを。
 コナーは自分が再び彼女の虜になってしまうのを感じた。彼は深く彼女を愛していたが、まだその底には辿り着いていないことに気付かされた気分だった。コナーは彼女と視線を合わせたまま言った。
「僕はいつだってあなたを選びたい。あなたと別れてから、多くの人に会いましたが……やっぱり、選びたいのはあなただけだった」
「私にも、あなたを選ばせてくれる?」
「もちろんです」
 そっと彼女が寄り添ってくるのを、コナーは喜びと共に受け止めた。そしてとうとう衝動に負け、その身体を抱き締めた。彼女の背へ腕を回し、胸と胸を合わせれば、長い間失われていた自分の一部が戻ってきたように感じられた。自分が完全で、特別な存在になったかのように。
 彼女の肩には薄く雪が積もっていた。寒さのせいで下がってしまった彼女の体温は、もはやそれを溶かしはしない。コナーが触れても、その雪は溶けなかった。


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