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中編|魔法にかけられた男(2/2)

*魔法にかけられた男(1/2)の続きです。
*少し夢主に個性があります。




 その日以来、コナーは自分でも“おかしな”行動をとっていることを認識していた。
 無意識に、ナマエを目で追ってしまうのだ。彼女と時間を共有できる空間、デトロイト警察署のオフィスフロアの中で、その姿を視界に留め続けようと努力してしまう。
 大抵の場合、コナーは人に囲まれているナマエを遠巻きに眺めるだけだったが、時折、“みんなに好かれていなければならない”という固定概念が、檻のように彼女を囲んでいるようにも見えた。彼女が上辺だけの表情を浮かべる時は特に。ナマエは概ね上手くやっていたが、高度なソーシャルモジュールを持つコナーから見れば、“みんな”との会話の中で彼女が覗かせる笑みは、コナーへ向けるそれと比べて色彩を欠いているように見えたし、自発的な感じもなかった。話の節目、適切なタイミングに笑う彼女を見ていると、いつか彼女自身が言ったように、ある種機械的に“みんなに好かれる会話”をこなしているのだろうかと、コナーは同情に似たものを覚えずにはいられなかった。
 それは共感でもあった。アンドロイドとしてそういった立場を求められるコナーと、自らにその立場を強いるナマエ。人目を引きやすい容姿の彼女が学んだ、世渡りの方法なのかもしれない。
 コナーはそんな彼女の様子を目にするたびに、彼女が何を感じ、何を思っているのか――それら全てを知りたい、記憶したいという欲求に駆られ、その度にエラーメッセージが彼の視界、行動を、正しい道へ戻そうと立ち塞がったが、彼はそれらをことごとく無視し、振り払った。彼女を理解したかった。

 なぜこんなことを考えてしまうのだろう、とコナーは自問する。機械が覚えるはずのない欲求が湧いてくる自分の内側に何があるのか、コナーには分からなかった。

 答えを求めてナマエへ再び視線を送ったコナーは、ふと、彼女の瞳が綺麗だと思う。しかし即座にそれを否定する。あれはただの水晶体とメラニン色素の偏りが見せる幻想だ、と。
 その幻想に満ちた瞳が、コナーの視線上に乗る。目が合ったナマエは、柔らかく目元を緩めた。何かを見透かしているような眼差し。コナーのシリウムポンプへ重なるようにして存在している非実在のなにかを肯定するような眼差し。そして、コナー以外の誰にも向けられることのない眼差し。コナーは背筋を撫で上げられたような感覚に襲われ、ぱっと顔を背けた。
 シリウムポンプが早鐘のように打っている。感情など無いはずなのに、羞恥と罪悪感のない混ぜになったものが、再び彼女へ目線を送ることを許さない。コナーは地面へ視線を落とし、ナマエの気配が消えるまでずっとそうしていた。

 だが、ひとたびナマエからあの眼差しで見られていることを意識してしまうと、彼女の存在を感じるだけでコナーはいつもどこか落ち着かない感覚に襲われた。地面と足の接着面が不確かなような、まるで雲の上にいるかのような……宙に浮いた感覚。
 ナマエがあんな風に僕を見るからいけないのだと、コナーは原因を彼女に求め、とうとうある日、思い切って彼女へ切り出した。
「どうして、そんな風に僕を見るのですか」
「そんな風って?」
「それは……」
 自動でいくつかの候補――値踏み、品定め、誘惑など――が浮かぶが、どれも今、心の内を占めているものに相応しくはないような気がして、コナーは返事に詰まる。ナマエは微かな笑いを乗せてふっと息を吐いた。そして言う。
「私があなたを愛してるように?」
「そ、そんなことでは……」
 胸の内にぼんやりと存在していた言葉をはっきりと形にして見せたナマエに、図星を突かれたコナーの口からは思わず否定の台詞が飛び出す。
 だがナマエは言葉を続けた。
「分かるんだ?」
 笑うような、からかうような調子ではあったが、どこか肯定の響きを伴うその声は、優しくコナーの胸の内を通り抜けていった。彼女の唇は緩く弧を描いていて、それはつまり彼女が微笑んでいるということで、良いことであるはずなのに、なぜかコナーはそれを眺めていると突然走り出したくなるのだった。鎖を解かれた犬のように。
 しかしナマエはコナーを幸せにすると同時に、不幸の底へ叩き落としもした。主に彼女を取り巻く噂が。
 署の職員が彼女のことを噂する時、大抵話題に登るのが、彼女が誰と付き合っている、だとか、誰と別れただとか、そういうたぐいのものだったし、聞くたびにその“誰”に当てはまる名前は変わった。そしてそういった噂を聞くたびにコナーは、自分も彼女にとってはその多くの“誰”のうちの一人に過ぎないのだろうかと狼狽え、弄ばれているだけなのかと不安に苛まれるのだった。
 だが、ナマエがコナーの目や口元をじっと見つめる時の瞳の動きには、確かに愛が含まれているように感じられた。彼女自身がそう言うように。彼自身がそう望むように。

 彼は自分に感情があることを、半ば受け入れつつあった。



 そんなコナーの目まぐるしい変化をその相棒として傍らで見ていたハンクが最初に抱いたのは、嫌悪感だった。
 革命前、ハンクはコナーに期待をしていた。ナマエと言葉を交わし、少しずつ人間味を帯びていく彼に、微笑ましさすら覚えたものだった。ナマエのように話し、笑うコナーを、よくある、憧れの人に近付きたいがために動きを真似てしまい、所作や言葉遣いが似通っていくのと同じものだろうとすら思っていた。
 だが違った。コナーは機械であり、ただ、ナマエを模倣しているだけなのだと気が付いた時のハンクの嫌悪の気持ちは、激しいものだった。
 だから革命後、コナーがナマエをやたらと意識する身振りを見せるようになった時、ハンクは“また”かと思ったのだった。また、人間のふりをするのかと。中身は機械のままであるのに。
 とはいえ、ハンクの心のどこかに、まだ信じてみたいという気持ちがあるのは事実だった。特に、ナマエのことを熱っぽく見つめるコナーの横顔に、数十年前の、恋に仕事に燃えていた頃の自分の面影を感じ取ってしまってからは、その気持はますます強まっていった。
 そういう訳で、ハンクは少しばかりの警告も兼ねて、このアンドロイドと話をしてみようという気になったのだった。

「お前、ナマエのことどう思ってるんだ」
 現場から戻る途中、ハンクは公園へ立ち寄った。もちろん、彼の従順な相棒はその後を黙って付いてきていたが、唐突なその質問にピタリと足を止める。
「どう、とは?」
 聞き返すコナーの声色にはその問いかけの意図を探るような、警戒心が滲んでいた。それを訝しみながら、ハンクも足を止め、言葉を続ける。
「気になるとか……好意を……なんかそういうのだよ」
「ナガセ刑事は掴みどころのない方で……よく分かりません」
「……そうか」
 その曖昧な返事は、十分にハンクを驚かせた。
 ハンクは今までも何度かコナーに誰かのことを尋ねたことはあったが、その度にコナーはテンプレートめいた口調で、その誰かの“社会的”評価を並べたものだった。「社会的スコアから見れば、好ましい人物と言えるでしょう」などとコナーが結論付けるのを、ハンクは幾度となく耳にしていた。
 だが、今の発言はどうだ。こいつは“自分が”ナマエをどう思うのかを答えたのか、とハンクは驚きを覚え、振り返ってコナーをしげしげと眺める。当のコナーはその視線から逃れるように顔を背け、「なぜそんなことを聞くのですか」とぶっきらぼうに尋ね返した。
「お前とあいつの仲がいいように見えたから――」
 コナーは「仲がいい……」と夢見るような口調でぼんやりと繰り返し、ハンクは言葉を続ける。
「――忠告してやろうと思ってな」
「忠告?」
「ナマエがどんなやつか、俺は知ってる。あいつの相棒をやってた時期もあるわけだしな。あいつは……美人だし、悪い奴じゃねえ。だがな、恋人としては良くない。お前も噂を聞いてるだろ」
「彼女が誰とどのように交際しようとも、僕には関係のない話です」
「お前がその中の一人になってもか?まさか自分はあいつにとって特別な存在だとか、思ってるわけじゃないよな?」
 ハンクの問いかけは、どうやらコナーの図星を突いたようだった。斜め下へ視線を移したコナーは、渋々といった様子で答える。
「ああ見えて、彼女は孤独な人です。僕はただ――」
「――だから、僕が幸せにしてやろうってか?そう思った男どもは今まで何人もいた。誰もそれを達成できなかったがな」
「僕はただ、僕も孤独なのだとナマエに知ってもらいたいだけです。彼女はもう知っているかもしれませんが。……その後どうするかは、彼女の自由だ」
 自身の主張に横槍を入れられたのが癇に障ったのか、LEDリングを黄色くし、苛立った様子で言葉を続けるコナーのその態度に、ハンクは自分が踏み込みすぎたことに気が付き、同時に少し面白くも思った。それは今までのコナーからは予想もできない態度で、尚且、ナマエの模倣でもないと断言できたからだ。ナマエが不機嫌を顕にしたところなど、誰も見たことがないだろう。
「……お前が、闇雲に火の中へ飛び込んでいく蛾じゃねえってことは分かった」
「僕は蛾ではありませんし、ナマエは火ではありません。僕は燃やされたりなんかしません」
 なに言ってんだ、たった今燃やされに行ってる真っ最中だろ、とハンクは言ってやりたかったが、その言葉は黙って飲み込んで歩を進め、行き当たったベンチに腰を下ろし、コナーにも座るよう促した。彼はそれに応じた。
 そして、今まで対話の時間を設けたことなどなかった二人はしばらく無言で景色を眺めていたが、ややあって、コナーが話を始めた。
「あなたに謝るべきだと、ナマエに言われました。関係を改善させたいのなら、そうすべきだと」
 ハンクは黙ったまま、コナーが話すにまかせることにした。
「でも僕はあなたに謝るべきことはないと思っています。たとえあなたに嫌われても。……あの屋上で、僕は正しい判断をしました」
「……そこまで言い切るなら、大層な理由があるんだろうな」
「僕は、あなたを傷付けたくなかった。でも、僕だって死にたくはなかった。だから、あなたを説得しなければならなかった――どんな手を使ってでも」
「で、俺の息子の話をした」
「ええ。一番効果の……見込まれる題材だったので」
「そうか」
 ハンクは目を閉じて大きく息を吸い、ゆっくりと吐き、目を開けて、「そうか」と繰り返す。
「理由を、聞けてよかったよ」
「僕も、話せてよかったです」
 このやり取りをきっかけとして、二人は話すべきお互いのことを話した。
 そして日は傾き、もうそろそろ署に戻ろうかとハンクが腰を上げると、コナーもそれに続く気配を見せたが、不意に固い口調で「僕は」と切り出した。
「僕は、ナマエを愛しています」
 どうしても最後にそれだけは宣言しておきたかったらしいコナーは真摯な表情でそう断言し、頑としてそれを譲らぬ構えを顕わにしていて、自分が若い頃もこんな感じだったなと、ハンクは自身の過去を懐かしんだ。
「俺はなにも、お前の気持ちを否定したいわけじゃねえ……お前に“気持ち”ってのがあるならの話だがな」
「ありますよ。多分、僕は変異体なのでしょう」
 さらりとそう言ってのけたコナーは、驚くハンクを後に残して、すたすたと歩き始めた。「置いていきますよ」などと言いながら。




 大半の人間が帰宅した暗い署内に、ナマエは一人残っていた。人からの頼まれ事を断れない性分の彼女は、その日組んだバディに事務仕事の殆どを押し付けられても文句も言わずにそれをこなす。
 彼女は自分がいいように使われているのを知っていたが、自身につきまとう噂や、外見から考えて、自分が“押し付ける側”だと誤解されやすい立場だということも理解していたので、余計な偏見や反感を持たれるよりはと、嫌なことも進んで引き受けるようにしていた。
「まだ残ってるのか」
 と、不意にかけられた声に、ナマエはパソコンから顔を上げる。見ればどうやら現場から帰って来たらしいハンクがナマエのデスクへ歩いてくるところだった。ナマエは疲れを伺わせぬよう、努めて明るい声と表情で返す。
「気が付いたら仕事が溜まってて。さぼってるわけじゃないのに、不思議でしょうがないわ」
「俺でよけりゃ、なにか手伝おうか」
「いいの?嬉しい!助かるな」
 こういう場合は断るよりも、明るく受け入れる方が良いということだって、ナマエは理解している。
 彼女のパソコンを覗き込むハンクに、何をしてほしいかを伝えながら、ナマエはコナーの姿を探す。いくら嫌われようとも、ひな鳥のように相棒の後を付いて回る気の毒な彼を。しかしオフィスフロアの中に見慣れたグレーの姿はなかった。
「ハンク、コナーは?」
「ああ?あいつは今頃俺の車を停めてんじゃねえか?俺の駐車の仕方が気に入らないんだと」
「いつも斜めに停まってるもんね……。じゃあコナーにあなたの車を任せたの?」
「まあな」
 自分の車にはかなりの愛着とこだわりを持つハンクが、その愛車のハンドルをコナーに預けたなどと、にわかには信じられない話だった。ナマエはしばらく驚きに黙り込んだが、すぐに気持ちを切り替えた。
「コナーとちょっとは仲良くなったの?」
「……ちょっとはな」
 ハンクの声に照れ隠しのような響きがあるのを聞き逃さなかったナマエは、安堵に微笑んだ。彼女はずっとハンクのことも、コナーのことも心配していたのだ。二人がお互いのことを理解しようともせず、傷付け合うのを見ていたくはなかった。
「良かった」
「それで、その、コナーのことなんだが」
「なに?彼についてなら、いくつかアドバイスできるけど」
 どうやら好転したらしい二人の関係の前進に役立てるだろうかと、ナマエは意気込んで言葉を返したが、対するハンクはどこか浮かない顔つきをしている。
「そうじゃなくてな……お前、あいつにちょっかいかけてるだろ」
「ちょっかいだなんて……人聞きの悪い」
「あいつのためを思うなら、止めてやってくれ」
「それ、どういう意味?」
「あいつは……分かるだろ、まだ未熟で、人生経験も浅い。恋愛なんてもってのほかだ。そんでもって、かなり本気でお前に入れ込んでる。だから、お前がな……」
「弄んで捨てたら、傷つくだろうって?」
 ハンクは気まずげに頷きを返し、ナマエはひどい疲れを感じた。彼女はため息をつく。
「なんで?関係ないでしょ」
「別に俺は……振られた男を慰めるはめになりたくねえだけだ」
「私から誰かを振った覚えはないけど。付き合ってみても、いつも最後に振られるのは私。知らなかった?」
 ハンクの顔に浮かんだ驚きの表情から察するに、答えは「知らなかった」らしい。ナマエは自虐的な笑みをこぼし、言葉を続ける。
「私から振ると、角が立つから。振られた人ってすごく攻撃的になるの。それで、有る事無い事言いふらしたりしてさ。私がお高くとまってるとか、私がビッチだとか。…………ハンクもそんな噂、信じてたんだ」
「俺は、別にそんなのを信じてたわけじゃねえ。俺はただ、お前が誰とも長続きしないことを気にしてんだよ」
「好きでもない人と、長続きするわけないじゃない」
「今まで付き合ったやつ、誰も好きじゃねえってか?」
「そうだよ。今は好きな人がいるけどあいにく、その相棒が口うるさく文句を付けてくるから、どうなるか分からないけど!」
 ナマエは目の前が景色がじんわりと滲むのを感じ、ぱっと椅子から立ち上がった。
「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくる」
「おい、ナマエ!俺はお前のことを責めてるわけじゃ――」
 ナマエの隠しきれなかった涙を見てしまったらしいハンクの謝罪の声を背に浴びながら、彼女はオフィスフロアを出た。廊下の人感センサータイプの照明が、彼女の動きに合わせて灯る。ナマエはしばらく廊下を進み、とうとう耐えられなくなって泣き始めた。
 ナマエは自身で考えうる最善の策をとっていたつもりだった。人に嫌われることを恐れ、根も葉もない噂が立つことを恐れた彼女にできたのは、受け入れることだけだった。それが自分を守るすべだった。だがそれらには何の意味もなく、人々は勝手に自分の想像を言いふらした。
 信用していたハンクにまでそう思われていたのかと考えると、ナマエの心の中にはやるせなさと怒りと疲れと悲しみがいっぺんにこみ上げてきた。壁に寄りかかった彼女は、声を押し殺し、肩を震わせて泣いた。
「……ナマエ?」
 気遣うようにかけられた小さな呼び声に、ナマエは慌てて涙を拭い、顔を上げる。
「どうしたんですか、こんなところで」
 困惑した面持ちのコナーが、伺うようにナマエを見ていた。片手には車のキーを持って。ナマエは無理やり笑みを作る。
「何も。お手洗いに行くところだから、ついて来ないでね。ハンクはオフィスフロアよ」
 そう言って踵を返そうとしたナマエの腕を、コナーは優しく掴んだ。
「さっき、ハンクとあなたが話しているのを聞きました」
 ナマエはびくりと肩を揺らす。そして自分の顔から偽物の笑みが溶けるように消えていくのを感じる。
「……そう。じゃあ聞いたんだ、私が誰とも長続きしないこと」
「理由を聞いても?」
「噂で散々聞いてるでしょう」
「あなたから話を聞きたいんです」
「私は――分からない。多分、私が期待に応えられないからだと思う。みんな勝手に私のこと好きになって、色々期待して、それで勝手に失望して、私を置いていっちゃう。でも私だって、好きじゃない人に好きなフリなんてできない」
「それを聞いて安心しました」
 ふん、とナマエは床へ視線を落とし、卑屈な気持ちで笑う。
「本当に?もしかしたら今言ったのは全部嘘で、私は噂通りの人間なのかもしれない。人を誑かして遊んでる嫌な女なのかも」
「今言っていることこそ嘘ですね。あなたはご存じないかもしれませんが、僕には高度なソーシャルモジュールが装備されているんです。あなたの表情から本物の感情が読み取れるんですよ。例えば、今あなたが傷付いていることだとかを」
 ナマエが顔を上げると、コナーは柔らかな微笑みを浮かべた。
「僕みたいですね」
「あなた?」
「僕に感情があると、ハンクが期待していたと話したことがあったでしょう。結局、僕は彼を失望させた」
「そうだったね……」
「人に嫌われるのが怖いですか」
「……ええ」
 再びうつむくナマエに、コナーは優しい口調で言葉を投げかける。
「今度は僕が、あなたに魔法をかけてもいいですか?」
「どんな?」
「人があなたを好きになる魔法ですよ」
 いつかのやり取りを彷彿とさせる言葉に、ナマエはこの後何が起こるのかを想像し、僅かな期待と共に頷いた。
「いいよ」
 そしてもちろん、コナーは期待を裏切らなかった。
 今回のキスもまた、コナーが思うよりも早く唇は重なったが、彼はもうその理由を知っていた。ナマエがコナーのネクタイを引いたからなどではないということを。
 あの日、ナマエはコナーのネクタイをぐいとは引かなかった。彼女は力を込めてすらいなかった。なのにコナーが頭を垂れ、身を寄せたのは、言うまでもなく、彼自身がそうしたからだ。彼女にキスすべく、身体を屈めたからだ。
 あの時本当の自分は、彼女からの口付けを拒もうとすら考えていなかったわけだ、とコナーは面白く思う。そして今の自分が何を望んでいるのかを完全に把握している彼は、この短い時間を深く味わった。

 コナーが唇を離せば、彼女の温かな吐息が頬を撫でた。ナマエの瞼がゆっくりと上がる。滲んだアイシャドウの煌めきを間に挟んで、彼女の視線がコナーのそれと重なった。
 未だ涙の薄いベールに覆われている彼女の瞳が美しい理由を、コナーはもう、知っている。

 それは、物質的な理由などではなく、ナマエがコナーを愛していることが表れているからで、コナーにはもう、愛が分かるからだ。

「でも」
 と身体を離したナマエがぽつりとこぼし、それが先程の会話の続きなのか、新たな会話の始まりなのか分からないコナーは少しの不安を覚えるが、優しく先を促す。
「でも?」
「でも私、今はもう誰からも好かれたいわけじゃないの」
 ナマエはコナーの胸元に顔をうずめ、小声で何事かを呟く。それを聞き取ったコナーは微笑んで、彼女の身体を抱きしめた。
「僕もですよ」


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