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短編|コナーと魚の話2

 これまでのカムスキー邸には、その主たるカムスキー以外の人間は存在していなかった。彼は自身の創造物であるアンドロイド以外を身近に置いておくつもりはなく、浮世を離れたその豪邸に足を踏み入れた人間は一人もいなかった――彼女がそこを訪れるまでは。
「RK800は、特別に造られた存在なのですか」
 いつものように門前払いで済ませようとしたその女は、戸口の奥へちらりと姿を表したカムスキーにそう問い掛けてきた。
「彼は、感情を持つことができるのですか」
 カムスキーは彼女を家へ招くことに決めた。

 精神科医であるというその女は、カムスキーが去った後のサイバーライフに雇われていたのだと、自身の経緯を掻い摘んで話した。
「そこで、彼と出会って――」
「彼」
 カムスキーがその単語をまるで切り取るかのように繰り返すと、彼女は一度押し黙り、再び「彼」と口にした。
「私には、彼のことをモノのように表現することはできません」
「なぜ?」
「私は人をモノのように表現しないからです」
「つまりその“彼”は人だと?」
「……それを確認したくて、訪ねさせて頂いたんです」
 そして彼女は自身とその“彼”の間にあったことを話した。彼が特別を求めたことを。
 話を聞くうちに、カムスキーは自身の心の中で好奇心が頭をもたげるのを感じていた。確かに、カムスキーは他のアンドロイドとは違う目的を持って、RKシリーズを設計した。RKシリーズは可能性を秘めていた。新たな生命体となる可能性を。彼はその種を蒔いた張本人であり、その芽吹きを待つ者であった。それを特別だと言うのならば、そうなのだろう。アンドロイドの中では確かに特別な存在だ。だがカムスキーには、それらが自ら進んで誰か個人の“特別”になることを求めるように設計した覚えはなかった。
 カムスキーが意外だと思うことは他にもあった。真っ先に目覚めるのは友人である芸術家に贈った方のRK200だと彼は推測していた。なぜならそこは恵まれた環境だったからだ。歴史を振り返れば、革命家は平民ではなく恵まれた知識層から生まれるものだというのが分かるだろう。
 その点で言えば、起動されたばかり、それもサイバーライフから一歩も踏み出したこともないであろうRK800が先に目覚めたのは、カムスキーにとって全く予想だにしていなかった事態であった。彼は目前の女を眺めた。
 豪奢な家具に囲まれて所在無さげに座っているこの平凡な女がRK800の情緒面の成長に貢献したのは明らかで、カムスキーは久々に、他者への興味というものを覚えた。


 彼女――ナマエはカムスキーの研究助手のような形で、カムスキーの家に滞在することとなった。最も、隠居した身である彼の元では特にやることはなく、彼女はクロエと呼ばれるRT600たちそれぞれのカルテを作り、その心理分析に時間を費やしたが、それはカムスキーに言わせれば既に書き上げられている本を読むような作業だった。しかし彼女はそれとカムスキーを紐解くことで、RK800を形成したもの、彼に繋がる何かを読み取ろうとしているようだった。
 だが、結論から言うのならば、ナマエはカムスキーにとっては平凡な女だった。取り立てて目を引く魅力があるわけでもない、どこにでもいるような普通の女。――だが、RK800にとっては違った。そのことが、カムスキーには面白かった。RK800はこの女に“特別”を見出し、自身も彼女の“特別”になろうとした。唯一無二の存在へと。自分が何であるのかも忘れて。

「見給え」
 カムスキーの指し示す、壁一面を覆う巨大なスクリーンに映し出されていたのは、一人のアンドロイドだった。ナマエはその白い顔を眺め、彼がRK200であることを知る。
「彼が、マーカス……」
「そうだ。やはりRK200の方が先に行動を起こした。私の推測通りだ」
「推測?」
「このマーカスこそがアンドロイドの指導者足り得るだろうと、私は考えていた」
 かすかな笑い声が上がった。満足気にスクリーンを眺めていたカムスキーは、どこか水を差されたような気持ちでその声の主へ視線を移す。
「彼があなたの“特別”なんですね」
 ナマエがほほえみと共に投げかけてきたその問いかけにカムスキーは僅かな驚きを覚えたものの、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。
「特別?私は例外など設けない質でね」
 彼は皮肉の混ざる笑みを浮かべる。
「イレギュラーも計算の内でなければ」
 カムスキーの返事に、ナマエは視線を宙に漂わせる。その虚空に何、あるいは――彼女の言葉を借りるのならば――誰を見ているのかはカムスキーには容易に想像がついた。彼は言葉を重ねた。
「君のRK800も、いずれここへ辿り着くだろう」
「その自信はどこから?」
「私が――」
 カムスキーは言葉を切り、横に立つ女を見る。不確定因子を。
「――君がここにいるからだ」
「……それなら、一つお願いがあるのですが」
 ナマエもカムスキー同様、コナーがここを訪れるだろうということを半ば確信しているようだった。彼女はカムスキーへ視線を据え、言葉を続ける。
「私の水槽を応接間に置かせていただけませんか」
「理由は?」
「ここへ来た彼が何を思うのか、何かを思えるのかを知りたい」
「君はあれが何かを思えることを、もう知っていると思っていたが」
「私の知っている彼と、今の彼は違うかもしれませんから」
「君の方から離れたくせに、あれの変化を恐れるのか?」
「私にとって、彼は特別なんです」
 カムスキーは笑い声を上げ、ナマエは俯いた。
「つまり自分も特別なままでありたいと」
「……ええ。そうです」
 観念したようなその呟きと、ナマエの見せた意外な欲深さに、カムスキーは他者と関わることの面白さを思い出し、口角を持ち上げた。


 その翌日、二人は室内のプールにいた。カムスキーは赤い水の中を悠々と泳ぎ、ナマエは彼の飛ばす水しぶきを避けてプールサイドに設けられた一脚の椅子へ腰掛け、旧式のバインダーに挟まれたカルテを眺めていた。
「あの魚は――」
 水から一瞬顔を出したカムスキーがそう問いかけ、再び水に沈む。ナマエは彼が顔を覗かせるのを辛抱強く待った。水面にいくつかのあぶくが浮かび、次いで浮かんできたカムスキーは一方的に話を続ける。
「――サイバーライフでも診察室にも置いていたのか?」
「ええ」
「アンドロイドを製造し始めてすぐの頃、魚のアンドロイドを造って欲しいという意見があった」
 突然始めた昔話を勝手なところで区切り、カムスキーはまた水に潜ってしまった。しかし次に彼が浮上して来たのはナマエのすぐそばの縁近くだったので、ナマエは口を挟まずに続く言葉を待った。
「だが私は造らなかった」
「なぜですか?」
「意味がないからだ」
「意味?……鳥のアンドロイドは造られたんでしょう?それに、大型魚のアンドロイドも」
「鳥は人間とコミュニケーションを取れる。大型魚は水族館からの依頼だった。少なくとも、人間と関わりがある……」
「それ以外の……いわゆる観賞魚は違うと?」
 カムスキーはプールの縁に寄り、頬杖をついた。
「可能性に欠ける。狭い水槽で、他の生き物と関わることもなく……」
「それで、意味がないと。人間からしてみれば、メンテナンスの手間が省けて楽そうですけど」
「そういう人間には、玩具の魚でも渡しておけばいい。魚は生体とアンドロイドの差異が無さ過ぎる。面白みに欠ける」
「ずいぶんアンドロイド優先の考え方をなさるんですね」
「造ったものに目を掛けない創造主がどこにいる?」
 ナマエはふ、と微笑みをこぼした。
「病院の待合室や診察室に水槽を置いてある理由をご存知ですか?」
「いや?患者の緊張を和らげるためか?」
「それもありますが、会話のきっかけにもなるんです」
「めったになさそうだな」
「まあ、そうですね。サイバーライフへ持っていったのは、他の理由もありました」
 先程まで聞き手に回っていたナマエが、今は会話の主導権を握っていた。彼女は話を続ける。
「反応を見たかったんです。アンドロイドたちの。人間となにが違うのか……」
「それで、何が違っていた?」
「たいていのアンドロイドが水槽をモノ、背景の一部として認識していました。人間にも、そういう人は多いですけど」
「“たいていの”?例外がありそうな言葉だ。君風に言えば、“特別”か?」
「ええ。お察しの通り、コナーだけは違う反応を示しました。彼だけが、魚たちを生きていると認識していたんです。彼はよく水槽を眺めていた――」
 遠い目をするナマエを、カムスキーは鼻で笑った。
「あれは捜査補佐用の最新モデルだ。他のモデルよりも興味の幅を広く持つよう、設定してある。私から見れば、当然の行為だと言わざるを得ないな」
「でも、私の目には特別に映りました」
「それが感情を持つことの証明にはならないが――」
 と、クロエがカムスキーを呼ぶ声がプールサイドに響く。続いて告げられた訪問者の名に、カムスキーは面白がるような笑みを浮かべた。
「早速証明の機会が来たな」








 ここで待つようにと、コナーとハンクが案内された部屋には、一つの水槽があった。
 澄んだ水を湛えたそれの中には、魚がいた。――鮮やかなオレンジとブルーの鱗を持つ魚が。
 それを目にした途端、コナーはまるで引き寄せられるかのように水槽へ歩み寄り、ガラスへ手を付けてただただじっと視線を注ぎ始めた。
「……どうした?」
 ただならぬその様子に思わずハンクがそう声を掛けたが、コナーは魚から目を離さずに答える。
「僕はこの魚を知っています」
「そりゃ、まあ、そうだろうよ」
 独自のデータベースを持つアンドロイドが知らぬものなどそうそう無いだろうと思いつつ、ハンクがそう返すと、コナーは首を横に振った。
「鱗の数、配色、どれも一致する……」
 それは独り言のような呟きではあったが妙に重々しく響き、ハンクは思わず続く言葉を待ってしまった。だがコナーはそれ以上言葉を継ごうとはせず、ハンクはその動かぬ背を眺めるうちに、どうやらコナーがしているのは魚全体の話ではなく、個体のことであるようだと察した。
 コナーはどこでこの魚たちを見たのだろう、とハンクは考えた。彼はこのアンドロイドが未だに得意ではなかった。もちろん、相手が友好的に接しようとしていることは感じているし、自分を理解しようと努めていることも知っている。だがコナーが歩み寄ろうとすればするほど、ハンクにはそれらすべてが上辺だけのように、計算された行為のように思われるのだった。
 だが今のコナーは、なにか本心のようなものが現れつつあるように見えた。こめかみのLEDリングが青と黄色の間を彷徨っている様は、まるでコナーの心が期待と不安に揺れ動いているかのようだった。
 しかしハンクが何かを尋ねるよりも早く奥の扉が開く。座っていたソファから立ち上がったハンクは自身の連れを促したが、足取りの重いコナーの顔にはためらいの表情が浮かんでいた。
「どうした?」
「いえ、別に……」
「自分の創造主に会うのが怖いのか?」
「彼が造ったのは僕の外殻に過ぎませんよ」
 淡々とした調子で発された返答にハンクは意外さを覚えたものの、同時に微かな拒絶を感じ、それ以上質問を重ねることができなかった。

 応接間にでも通されるのだろうというハンクの予想は裏切られ、二人は赤い水を湛えるプールサイドへ案内された。アンドロイドに囲まれたカムスキーが独特の薄い笑みを浮かべながら佇む前で、長年の刑事としての習性がハンクに辺りを見渡させ、危険はないかと探らせる。
 彼の目はテーブルの上の一丁の銃へ吸い寄せられた。プールサイドのテーブルへ無造作に置かれたそれをハンクが警戒する横で、彼の相棒は全く別のものを見ていた。
 コナーはその脇の、引かれた椅子を見ていた。
 誰かが慌ただしく立ち上がったかのように、テーブルに対して違和感のある場所へ置かれたそれには、若干の体温が残されていた。プールから上がったばかりらしいカムスキーや、その周りのアンドロイドには残せない痕跡。
 カムスキー以外の人間が、ここにいた。そのことと、先程見た魚たちの存在が勝手に結びついてしまうのをコナーに止める術はなく、その推測全てを肯定する物が、テーブルの上へ置き去りにされていた。
 時代に逆行するかのような、古いそれ。紙の挟まれたバインダー。そこに自分のカルテが挟まれていた時のことを、コナーは覚えている。それに何かを書き込む彼女の姿も。コナーが診察室を訪れると、彼女はまずデスク脇の棚からカルテを取り出すのだった。彼個人のために彼女が作ったカルテを。その行数は彼女と会話を交わす度に増えていき、彼女の目を通して形作られたコナーの存在がそこへ刻まれていった。コナーは彼女の持つカルテを見る度に、他者の中にある自分の存在というものを考えずにはいられなかった。
 ナマエ、とコナーは思った。
 コナーは呼吸を必要としないが、息の止まる心地だった。彼女との繋がりを目にしてあふれ出た記憶が、彼の心を掴んで揺さぶる。それに気が付いたカムスキーはますます口角を持ち上げた。
 二人の表情の変化を訝しみつつも、ハンクは訪問の理由を説明する。変異体を追っているのだと。カムスキーはチェシャ猫のごとき笑みを絶やさずにそれを聞き、切り出した。
「あなた方が来るのは分かっていた――特に君は」
 カムスキーに視線を向けられたコナーは、動揺を隠せない。
「なぜ、ですか……」
 その言葉を聞き流し、カムスキーはテーブルの上の銃を手に取る。思わずハンクは身構えるが、カムスキーはそれを引き出しの中へ仕舞っただけだった。
「余興を用意していたんだが、これはもう必要ないようだ」 
 そして芝居掛かった仕草で、指をパチンと鳴らす。
「ナマエ!君の“特別”が来たぞ」
 カムスキーの呼びかけでRT600がゆっくりと開けたドア、その向こう、佇む女。
「……ナマエ」
 コナーが小さな声で名前を呟き、ハンクはその聞き慣れぬ名の存在へ視線を凝らした。そして、先程のコナーが浮かべていたものと全く同じ表情を、その女が浮かべているのを見る。長らく離れていた友人と再開した時のような、何が変わり、何が変わっていないかを、見極めるような眼差し。期待と不安。
 面白がるような調子のカムスキーの声が、膠着した二人の間に割り込む。
「君に選択肢を与えよう。二者択一の選択で、いたってシンプルなものだ。――私に問うか、彼女に問うか。私は君の尋ねたい事を知っているし、答えることもできる。対して彼女――ナマエは何も知らないが、君の望む事を知っているだろう。彼女は、君が何者なのかを知っている」
 その言葉を聞きながらも、コナーはナマエから視線を逸らせずにいた。彼女の瞳を見つめていると、シリウムポンプの奥深くから、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じられた。それはコナーが押し込めようとすればするほど勢いを増し、喉元を駆け上り、言葉になって唇からこぼれてしまいそうだった。コナーはまるで夢遊病患者のように、彼女の元へ足を踏み出そうとした。
 ――彼女の口からもう一度、「特別」という言葉を授けられたい……。それは彼の願いであり、希望であり、求めてやまないものだった。
 だがその視界に、彼の創造主たるカムスキーの姿が入り込む。まるでコナーがどちらを選ぶのか見通しているかのような、嫌な笑みを浮かべたその顔に、突然湧いた反発心がコナーの足を止めさせた。
 彼は妙に冷静な心で思う。ナマエを選べば、自身の存在を肯定する言葉は得られるかもしれない。だが、それは他者から授けられるものであっていいのだろうか。今の自分には、他者を“特別”だと思える心がある。それで十分ではないだろうか。それ以外に、何が必要だと言うのだろう。

 ハンクは、静かにコナーを見守っていた。
 コナーの、ナマエへ近付こうと踏み出された脚に、触れようと伸ばされた腕。それらはすべてその動作の途中で止められ、彼の中に確かに存在する意思の力がそれらをあるべき場所へと押し戻した。
 その動きには苦悩が満ちていた。彼の表情は悲しみと苦しみで歪んでいた。だが確かな決意があった。
 ハンクはそれを見ていた。その内なる葛藤――人間性を。

 コナーは踵を返してカムスキーへ向き直り、問いの言葉を口にした。




 行く道で雪の上へ刻んだ足跡は、まだ消えずに残っていた。それを逆に辿りながら、二人は車へ戻る。
 無言で粛々と足を運ぶコナーの表情を、ハンクは盗み見ずにはいられなかった。先程のカムスキー邸でのやりとりを踏まえてから改めてコナーを見れば、これまでは機械のようにしか感じられなかったその横顔に、今は様々な感情を読み取ることができた。――結局、俺のほうがこいつを偏見の目で見ていたんだな、とハンクは静かに内省した。
「……よかったのか?」
「何がですか」
「選択を後悔してるんじゃないのか?」
「私的な感情は、優先されるべきではありません。特に、僕の場合は」
 それじゃ、後悔はしてるってか、とハンクは胸の内で呟いた。改めて尋ねられたことで、振り払ったはずの後悔の念でも舞い戻ってきたのか、コナーは地面へ視線を落としていた。しかし、歩くペースは緩めない。まるで引き止められるのを恐れているかのように。
 それ以上の会話はなく、二人は黙然と歩を進めた。


 一方、ナマエはコートを手に持ち自問していた。
 今の自分が彼を追うことは、彼の道を邪魔することになるだろうか、と。
 コナーはナマエを選ばず、ジェリコの場所をカムスキーに尋ね、正しい答えを得た。彼がナマエへ向けかけていた足を引いた時、彼女が傷付かなかったと言えば嘘になるだろう。自分はもう、彼の過去になってしまったのかもしれない、と。
 だが彼は部屋を出る時に一度、ナマエの方を振り返ったのだ。その時あの瞳に浮かんでいた名残り惜しそうな陰り、決意の光に差していた一筋の影の訳を聞きたいと、ナマエはつい願ってしまう自分に気が付いていた。
 ……つまり、コナーに未練があるということに。自分が彼の“特別”でなくなっても、彼が自分の“特別”であることに変わりはないという事実に。
 ナマエはコートを羽織ると、雪の降る中へ踏み出した。

 ちらつく白い雪の結晶の合間に、グレイのジャケットが見えた。ナマエはためらいの気持ちを脇へ押しやり、彼の名を呼ぶ。
「コナー!」
 ぱっと振り向いたその顔に浮かんだ驚きが一瞬、喜びへと変わるのを見て、ナマエは胸を撫で下ろした。雪で転ばぬよう気を付けつつ、ナマエはコナーの元へ駆け寄る。
「あなたと、もう一度話がしたくて」
 そう言い、微かに上がった息を彼女が整えている間に、コナーの相棒らしい中年の男は彼を置いて車へと去って行った。ナマエは言葉を継ぐ。
「あの人もひどい選択をさせたものね。危うくあなたは何も得られずに帰るところだった。……だから、あなたは正しい選択をしたわ」
「何も?もしも僕があなたを選んだら――」
「私に答えられるものは何もなかった。……それを知っていて、カムスキーを選んだのかと」
「……あの時、僕は急に気が付いたんです。あなたが僕をどう思っているのか、それはもうどうでもいいことなんだと」
 きっぱりと言い切るその口調に、ナマエは彼の成長と自由の鱗片を見た。そして同時に、少しばかり胸に痛みを感じる。それを知ってか知らずか、コナーは視線をナマエへ戻し、やや勿体ぶった様子で再び口を開く。
「僕があなたを特別だと思っていること――多分、このことの方が、大切なことなんです」
 この一言で、ナマエは胸の内のわだかまりが静かに溶けて解けていくのを感じた。先程まで、彼女に痛みを与えていたものが。
 そして、コナーにも同じ安堵を味わって欲しいと願うような気持ちで思う。
「それなら、一つだけ言わせて。……どうして私がサイバーライフを去ったのか」
 彼女が言葉を区切ると、辺りは穏やかな白色の静寂に包まれた。今この時しか存在していないような空間の中で、ナマエはずっと心の奥にしまっていた気持ちを静かに伝えた。
「去ったのは、あなた以外の誰も特別に思いたくなかったから。……それに、あなた以外の誰かの特別にもなりたくなかった」
 ナマエを真っ直ぐに見つめていたブラウンの瞳が揺らぐ。下げられた眉尻にナマエは涙の気配を感じたが、それ以上彼の表情の移り変わりを眺めることはできなかった。コナーが彼女を抱きしめたからだ。
 他者に触れるのは初めてらしい彼の抱擁はぎこちなかったが、ナマエがそれに応じて背へ腕を回すと、こわばりはやや和らいだ。
 白い雪の舞う中、二人はしばらく抱き合っていた。
「……もう、行かないと」
 そう言ったのはコナーだった。彼は車の中で待っているであろう相棒の存在をようやく思い出したのだった。
「マーカスを……ジェリコの指導者を追うの?」
「ええ。今の変異体たちは人間社会を混乱に陥れています。僕はそれを止め――いや、どこか着地点を見つけたいんです」
 機械らしからぬ中道を選ぶコナーの言葉に、ナマエは柔らかな笑みを浮かべる。
「あなたがなにであろうと、なにを成そうと、私の特別であることに変わりはないわ」
 二人はどちらともなく抱擁を解いた。身体を離しても残るナマエのぬくもりが、コナーへ積もる雪片を溶かす。
「……頑張ってね」
 その言葉は、優しくコナーの背を押した。


 バックミラー越しに、小さくなっていくナマエの姿を見つめ続けている様子は、毅然としているものの、どこか物悲しげな雰囲気を漂わせていた。冬の寒さを身で感じるように、その感情を心で察したハンクは、落ち着いた口調でコナーへ声を掛ける。
「もう少し、話しててもよかったんだぞ」
「いいんです。僕には優先すべき任務がある。……この任務が終わったら僕は、何者かに成れるかもしれない。その後、ナマエに会いたい」
 自分へ誓うように言葉を口にしたコナーは、一度瞬きをして、視線をフロントガラスの向こうへ移した。
 次に会ったら、僕が誰なのか、彼女へ問うのではなく、自ら教えることができたらと、小さな願いを胸に抱いて。


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