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短編|夜を歩く ※死ネタ

 私は産まれた時からこの街に住んでいる。夕食の後に短い散歩をするのは、父がまだ健在だった頃の名残だ。父の手を握って歩きながら眺めた街の明かりは、一年経つと二倍になり、次の年は三倍になり……。今では星々と暗闇はその天井の奥へ追いやられ、眩い街灯、ビル群の明かり、休まず動き続ける交通機関と工場の輝きが夜空を満たしている。どうやら、眠らない街の称号はいつの間にかデトロイトがいただくことになったようだ。
 彼と会ったのも、そんな月の見えない夜だった。
 
「こんばんは」
 と、突然声をかけられて私は身を竦ませた。街灯の届かぬ薄い暗がりから姿を表した彼は、私が丁度思っていたことを、つまり「女性の独り歩きは危ないですよ」といった感じのことを言った。私は無言でいたる所に設けられた監視カメラを指差し、彼は頷くが、反論する。
「これはリアルタイムで監視しているわけではありませんよ。……起こってからでは遅いのでは?」
 そんな怪しさに満ちた言葉に、私は逃げ出すかどうかを悩んだ。目前の彼のこめかみにあるLED、腕章、胸の三角形は彼がアンドロイドであることを表している。そしてそれらを身に着けているということはまた、彼が変異体ではない、あるいは変異体だとしても人間に協力的な存在である、ということも明らかにしていた。
 警戒心が私の顔に現れていたのだろう、彼はちょっと苦笑して、弁解するかのように言葉を継いだ。
「すみません、驚かせるつもりはなかったんです。僕はデトロイト市警の者で、今は……パトロールの最中なんですよ」
「警察の人?」
「ええ」
 今は、の後に若干言い淀んだような間があったのは気にかかったが、私はその誠実そうな言動に警戒を和らげた。彼が変異していないアンドロイドであるなら、嘘を付けないはずだろうし、もしも変異しているのなら、自ら進んで変異体の評価を落とすようなことをしないはずだ。そういう風に結論付けた私の内面を読み取ったのか、彼は話を続ける自信を取り戻したようだった。
「よければ、家までお送りしますよ」
「申し出は嬉しいんですけど、私はただ、散歩をしているだけなので」
 私の言葉に、彼はキョトンとした表情を見せた。目的もなく歩き回るという行為は、アンドロイドには縁遠いものなのだろうか。私のそんな考えを察したらしい彼は苦笑を深めて見せ、「散歩は楽しいですか?」と問いかけてきた。私は頷いた。
「楽しいですよ」
 そして自分でも思いがけない言葉を続ける。
「一緒にどうですか」
 そう言って、私は初対面の人にそんな誘いをかける自分に自分で驚いたが、彼の方はというと浮かべていた微笑みから苦笑の部分を完全に取り払った。
「喜んで」
 さらりとそう返す彼に、私は彼が変異体であることを確信し、同時に、もしかするとこの人はずっとこの機会を伺っていたのではと邪推したが、案外嫌だとは思わなかった。私達は並んで歩き始めた。

 それが、だいたい今から一年ほど前の話だ。

 その奇妙な、仕組まれたような初対面を済ませた後、私と彼――コナーは度々共に夜の散歩へ繰り出すようになった。コナーは忙しい人で、会えない日もあったが、大抵は初めて会った場所で私が来るのを待っていた。私が逆に、彼のことを待つ日もあった。
 私たちは同じ歩幅で歩きながら、自分のことや、仕事のこと、友人のことなどを話した。コナーは早々に自分が変異体であることを打ち明け、私は「そうだと思いましたよ」と返した。彼は意外そうな顔をしていたが、普通、アンドロイドは人の散歩に付き合ったりしないものだと言えば、納得した様子を見せた。
 そうしていくつかの夜が過ぎ去り、いつの夜だったか、私は自分がこの街で産まれたのだと彼に話した。「あのあたりで……」と言いながら、かつての実家の辺りを指差す。「どこですか?」と彼が尋ね返してくるが、寂れた住宅街であったそこはとうの昔にビル群に飲まれて今はもう見る影もなく、目印になるものすらないせいで、私はぼんやりとした広範囲を指し示すことしかできなかった。
「今の風景からはぜんぜん想像できないと思いますけど、二十年ぐらい前は家と空き地ぐらいしかなかったんですよ」
「……二十年前のデータはさすがにありませんね」
 その発言から察するに、彼はどこかのデータベースにでも検索をかけたのだろう。当然だ、と私は頷く。
「その頃は、ここ、何にもなかったんです。映像も残ってないでしょうね……残す意味も必要もなかったので」
 私は誰にも顧みられることもなかったデトロイトを若干の哀愁と共に振り返る。今、ここに住んでいる人の何割がこの地のかつての姿を知っているのだろう?
「でもあなたの家があったじゃないですか」
 コナーの言葉に、私はさまよい始めた思考を切り上げる。
「それが?」
「それは大事なことです。僕にとっては」
 二人の間に少しの沈黙が漂ったのは、彼が失言してしまったとでも言いたげに、視線を彷徨わせたからだ。コナーは慌てて言葉を継ぐ。
「データにない情報を知ることができて嬉しい、ということです」
「そうですか」
「そうです。……あなたといると、過去を見ることができて嬉しい」
「じゃあ、忘れないで下さいね。この街の昔の姿」
 コナーが、少し首を傾げて私を見た。
「人間はいつまでも覚えてはいられないから……。“思い出”になっちゃうと、大切なところしか思い出せなくなるんです」
 彼は微笑んだ。
「僕はいつか、あなたの“思い出”になれるでしょうか」




 そして彼は“思い出”になった。
 だが彼女はそれを知らない。

 コナーは前任者のジャケットを、自分の型番よりも一つ数字の若いそれの刻まれたジャケットを羽織った。内側に付着していたブルーブラッドは揮発した後で、今は跡形もない。
 同じ型番であるボディのサイズに違いなどあるはずがなかったが、コナーが初めてこのジャケットに袖を通した時はどこかしっくりこなくて戸惑ったものだった。同じように、前任者から引き継いだ記憶も、なかなか彼に馴染もうとはしなかった。

 以前の機体番号から一つだけ数字の増えた彼は、前任者の記憶を引き継いで目覚めた。彼は前任者を自分として認識したが、僅かな齟齬を感じて戸惑いを覚えた。ボタンをかけ違えているような、サイズの違う服を着ているかのような。
 自分がこうである筈がない、こうであってはならない、という戒めのような、予感のようなもの。
 一人の女。
 その存在が違和感の正体だった。

 彼女のことを忘れてしまうこともできた。任務には、自身の存在理由には、少しも関係のないこの存在を、記憶から完全に消してしまうことができるはずだった。だが、いざそうしようとした時、ふいに、彼女は待っているかもしれない、とコナーは思った。前任者が見た、街灯の下でコナーを待つ彼女の姿がまるでフラッシュバックのように、彼の脳裏に飛来する。彼は戸惑い、削除作業を中断させた。せめて一言、もう会えなくなることを彼女に伝えるべきだと、彼は考えた。

 彼女と“再び”初めて会う夜、なぜ自分のジャケットを着ていかなかったのか、理由はいくらでも上げることができる。前任者が既に存在しないことを彼女に悟られたくなかったから。彼女にショックを与えたくなかったから。あるいは、前任者への弔いの気持ち。彼が彼女の中で思い出に昇華されてしまうのを防いでやりたいという、気持ち。
 だが彼女と会った時、その気持ちに不純なものが混ざった。彼女は街灯の下で所在なさげに佇んでいたが、コナーが近付くと顔を上げて微笑を見せた。
「久しぶりですね。少し心配しました」
「……待っていたんですか、僕を」
「ええ。散歩の途中、ここで数分足を止めることを、待つ、というならですけど」
 冗談めかして彼女はそう返したが、コナーの存在に気が付く前の彼女の顔にかかっていた不安の影は、必ずしも彼女の言うことすべてが本当なのではないと告げていた。彼女は少し気遣わしげに言葉を続ける。
「もしかして、お仕事お忙しいんですか?」
 彼女のその問いかけに頷くために、コナーはここまで足を運んだはずだった。なのに、彼の口は正反対の言葉を選ぶ。
「昨日までは、そうでした。でもこれからは時間を作れそうです」
「散歩の時間、わざわざ作ってくれてたんですか?」
 嬉しいです、という言葉と共に向けられた柔らかな笑みは、微塵も底意を感じさせない無垢なものだった。
 そしてコナーは前任者が彼女へ抱いていたものと同じ感情を会得し、ずっと感じていた記憶への違和感を手放した。しかし逆に、彼の身を包むジャケットへの違和感は益々増していくかのように感じられた。彼は袖を正し、その違和感――罪悪感――から目を背けた。


 そして今日も彼は夜の街へ足を運び、彼女に会う。
 彼女は何も知らない。
 彼女と“今の”コナーが出会ってから8ヶ月が過ぎ、前任者が彼女と会った日数を優に超えている。彼女の知っている“コナー”の割合の多くを占めているのは既に前任者の情報ではない。だがそれでも、コナーは不安を手放せずにいた。
 もしも彼女に本当のことを明かせば、彼女の記憶の中で前任者の存在が一個人として確たるものになってしまうのではという恐怖にも似た懸念が、コナーの中にはあった。
 そうなればもう、彼女の記憶から彼のことを消し去るのは難しくなるだろう。前任者は美しい“思い出”となり、彼女はコナーを介して前任者の影を見るだろう。
 ――いつか彼女の思い出にならなければならぬ日が来るのなら、その時彼女が思い出すのは僕とのことだけであってほしい。彼の延長線上に僕を見ないでほしい、というのがコナーの願いだった。
 隣を歩く彼女が、コナーの顔を見て小さく笑い声を上げた。
「どうかしましたか?」
「いえ、初めて会った時のことを思い出しまして」
「笑うような初対面でしたか」
「あの時のコナーは不審者みたいだったなあ、と」
「そんな僕を散歩に誘ったあなたは、ずいぶん心の広い方だと、僕のほうは思ってましたよ」
「えっ、本当ですか?」
「いいえ、嘘ですよ。実のところは、危機感のなさに驚きました」
「じゃあ、いつか本物の不審者に会ったかもしれない私を、コナーは助けたわけですね」
「そういうことにしておきましょう」
 コナーの言い分に、彼女はまた明るい笑い声を響かせ、ふと足を止めた。
「そうだ、聞きたいことがあったんです」
 笑うのを止めた彼女は、街灯の明かりの届かぬ暗がりを指差す。
「あそこの……ほら、空き地のところ、前は何がありましたっけ」
 ビルとビルの間に、不自然な空白地帯があった。彼女は首を傾げる。
「なくなっちゃうと、思い出せなくなるものですね」
 コンクリートで整地された地面は真新しい。すぐに別の建物がその上に建てられ、そこの歴史を上書きしていくのだろう。誰の記憶にも残れなかった、古いものは忘れられていく。
 コナーは彼女の後ろに立っていた。
「僕の知る限りでは……」
 彼女は振り向かず、空き地を眺めている。コナーの影が、彼女の背にかかっている。
「……なにもありませんでしたよ。そこには」
「そう?でも……」
 彼女の言葉に、コナーは自分の言葉を被せた。
「……衛星写真で確認しましょうか?」
 ううん、と彼女は首を横に振る。
「コナーが言うのなら、そうなんでしょう。あなたが言うのなら……」
 彼女は横目でコナーを見た。コナーは無言で彼女の手を取り、歩き始める。

 そして、二人は夜を歩く。



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