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短編|Let sleeping dogs lie.(寝ている犬を起こすな)

 ふわ、と近くで香ったそのボディソープと香水の混ざった匂いにハンクは心当たりがあった。だから彼は端末から顔を上げずに言う。
「ナマエ、悪いんだがそこのペンを取ってくれないか」
 その頼み通り、ハンクへペンが手渡される。だがそれに続いた声は、ハンクが思っていた人物のものではなかった。
「どうぞ」
「……コナー?」
 若干の驚きと共に顔を上げたハンクの前にいたのは、柔らかな微笑みを浮かべるコナーだった。
「ナマエでなくてがっかりしましたか?」
「いや、がっかりはしてねえが……」
 そう首を振りつつも、あの香りは確かにナマエのものだった、とハンクは不思議に思う。どうしてナマエの匂いがコナーからするんだ?それも、ありがちな香水の匂いだけでなく、ボディソープのような香りまで。……もしかしてこいつ、いや、そんなはずが……。

 ハンクから訝しげな視線を受けながら、コナーは平然とした表情でその向かいの席へ腰掛ける。だが内心、彼は焦っていた。
 コナーにはその、ナマエの香りが移る十分な理由があった。なぜなら昨晩、彼女の家に行ったから。彼女とベッドを共にしたから。今朝、彼女にシャワーを借りたから。そして、さっき彼女と抱擁を交わしたばかりだったから。
 コナーはシリコンとプラスチックの混合物であるこの身体が香りを吸収しやすいことを完全に失念していた自分を責めた。そして表皮の擬似代謝を早め、若干の名残惜しさを覚えながらも、彼女の香りを分解していく。控えめなフローラルな香りと化粧品の香り、それに混じったいつも変わらない彼女だけの甘い匂いが、無機質なオゾンを思わせる匂いに塗りつぶされていった。
 いわゆる“新品の家電の匂い”に身を包んだコナーは、なかなか鋭い勘を持つハンクに、この関係を話してしまうかを悩んだ。たとえ今言わなくてもいずれは露見してしまうだろう。それにもしもハンクに面と向かって尋ねられてしまえば、答えずにいることは難しい。
 だが昨晩、ナマエは言った。ベッドの中、汗で湿った柔らかな胸をコナーの硬いプラスチックの胸板に押し当てて、その身体を預けながら。
 「今夜のこと、誰にも言わないでね」、と。
 その後彼女から与えられた甘美な口付けは秘密の甘さを含んでいて、人間が砂糖の甘さを味覚で感じ求めるように、コナーはこの関係の秘める甘さを精神で感じ、求めた。
 そしてコナーはさりげなくナマエの腰に手を回して行為の続きを求めながら、秘密は守ると約束したのだった。


 澄ました顔のコナーを前に、ハンクの方は尋ねるかどうかを悩んでいた。プライベートな関係を聞くことに対して若干の抵抗を感じなくもないが、知らないでいるというのもなんだかもどかしい。それに、僅かながらだが疎外感を覚えないでもなかった。もちろんコナーは相棒であるし、ナマエとは気の置けない仲だ。その二人が自分の知らないところで関係を育んでいるというのは、少し寂しいものがある。
 たぶん、聞けば答えるだろうな、とハンクは思った。コナーは身近な人物に対して秘密を抱えるのが下手な奴だから。そしてハンクはコナーを見据え、尋ねるべく口を開きかけた。
 が、コナーの背後にナマエの姿を捉え、思わず興味がそちらへ向く。
 二人から少し離れたところで、ナマエは若い新入りからのランチの誘いを丁寧だがつれない口調で断っているところだった。
 彼女はいわゆる高嶺の花で、署内の男たちの垂涎の的だった。一応は既婚者で歳も離れたハンクはそれを遠巻きに眺めるだけだったが、その態度が気に入ったのか、ナマエはハンクにある種の信頼を寄せており、ハンクの方も気軽に物を取ってと頼めるほどの気安さを彼女には感じていた。
 そんな彼女に対して抜けがけしようとしたあの新入りはしばらく肩身の狭い思いをするはめになりそうだ、と彼のことを気の毒に思いつつ、もしもこの目の前のコナーがナマエとそういう関係で、且つそれが周りにでもバレたらどうなるだろうとハンクは考え直す。まず確実に、嫉妬に狂った男どもに血祭りに上げられるだろう。
 ……わざわざ寝ている犬を起こす必要もないか。
 正直なところかなり興味はあるものの、こいつの為にも聞かないでおいてやる方がよさそうだ、とハンクは結論付けた。

 しかしそのハンクの結論などつゆ知らぬナマエが、項垂れる新入りを尻目に、コナーのデスクへ向かって真っ直ぐに歩いて来た。コナーは背中に視覚センサーでも付いているのかと思わせる素早さで、彼女がその名を呼ぶよりも早く振り返る。ナマエは驚きで微かに両肩を跳ね上げ、コナーはそれを微笑みで迎えた。
「……彼の誘いを、断られたんですね」
「盗み聞き?行儀の悪いひと」
「聞こえたんです」
 全く悪びれる様子のないコナーへ、ナマエは若干の呆れを含んだ微笑を送った。
 いつもナマエは周りの男性に対して一歩身を引いた態度を崩そうとしなかったから、こういった彼女の自然な微笑みを見られるのはコナーだけだった。その特権、そして二人だけの秘密に、コナーは神経回路が焦げ付きそうな程の喜びを覚えるのだった。

 パソコンとパソコンの間からそれとなくそんな二人を観察するハンクの前で、ナマエは何かをコナーへ手渡した。彼女の指の間からちらと見えたのは白く平たいもの、シャツのボタンだ。小声で話す二人の途切れ途切れに聞こえる会話へ、ハンクは神経を集中させた。
「……どこに……探して……」
「ベッドの下に……あなたが……」
「……あの時……、あんなに……から」
 ナマエが恥ずかしがるような笑い声を上げてコナーのネクタイをめくり、そのボタンがちぎれたであろう所を人差し指でつつく。そんなどう足掻いても言い逃れできなさそうな親密さに、思わずハンクは周囲の様子を伺った。幸いなことに、彼以外の誰もこのやり取りへ注意を払ってはいないようだ。ハンクは胸をそっとなで下ろして二人へ視線を戻し、その件の二人がしまったという表情でハンクを見ていることに気が付いた。
 コナーはぎこちない笑みを浮かべ、同じくぎこちない手つきでネクタイを正す。しかしその横でナマエは少し面白そうに口角を上げ、ハンクへ意味有り気な視線を送ってよこした。彼女は明らかに、男二人の葛藤を見越し、試していた。
 そんなナマエの矛盾した行為に気が付いて慌てるコナーを眺めながら、分かったよ、とハンクは目で降伏を伝えた。俺は何も見なかったし、口外する気もない、と。彼女は微笑を満足げな笑みへと変えると、何事かをコナーへ囁いてその場を立ち去ってしまった。甘く胸をくすぐる香りだけを残して。


 『甘味を引き立てたいなら、少しスパイスを入れないと』
 ハンクはもう二人に興味を失った様子で、自身のパソコンと向き合っている。そのことに安堵しつつ、コナーはナマエに手渡されたボタンを指先でもて遊びながら、この暗号めいた言葉を解読しようと試みるのだった。


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