155 シナリオ


「ハリー!」


ハリーは背後で息を殺し呼び掛けるハーマイオニーの声で我に返った。

信じていた人が、ハリーに杖を向けホグワーツを飛び出す直前までは信じていた人が、ハリーの大切な恩師の命を奪っていた。でもドビーに防刃ベストを贈り偶然にも彼を救ったのは彼女で、ハリーの名付け親だったシリウスのためにも彼女は戦った。彼女が去る直前にダンブルドア軍団へ渡したフェリックス・フェリシスは本物であるとハーマイオニーは確信し、駆けつけたドビーがそれを飲んで無害を証明したりもした。

ハリーの頭は混乱していた。

ヴォルデモートの去った屋敷でナギニを追いかけることもせず、ハリーはようやく動くようになった身体を引きずって、隠し通路から姿を現した。


「エバンズ先生……」


ハリーの目の前で身体を痙攣させ、首の出血を震える手で圧迫している彼女の側に跪く。自分が何をしたいのかハリーには分からなかった。血塗れの彼女の手の上からハリーも傷口を押さえ付ける。ハーマイオニーとロンが息を呑む音を聞いた。


「……信じて……」

「信じる?何をですか?僕に何を信じろと?」


ハーマイオニーが横から治癒呪文を唱えていたがハリーには効果があるようには見えなかった。


「セブルスを……」


そう告げた彼女の口角が僅かに上がったように見えた。それを確かめる前にバーンッと凄まじい音と共に扉が開く。素早く振り返ったハリーの目にふわりと消える銀白色の影が映った。何故か懐かしい。どこかで見たことのあるような、どこだっただろう。


「エバンズ!!」


スネイプが杖を片手に飛び込んできた。瞬時にハーマイオニーとロンが杖を高く構える。ハリーも消え行く命を引き止めていない手で杖を取っていた。

そのまま睨み合いが続くかと思われた。しかしスネイプは三人の杖先などどうでもいいように視線を逸らし、エバンズの隣、ハリーの向かい側へ跪く。


「何があった、ポッター!」


エバンズの全身へと目を走らせながら、スネイプは最後に手が重ねられた首に釘付けになった。彼女という緩衝材の間では摩擦は存在し得ないかのようで、ハリーとスネイプの間にいざこざなどなかったかのようだった。


「ヴォルデモートだ!ナギニに襲わせた!」


しかしハリーは叫んだ。目の前の男をただ怒鳴り付けてやりたかった。お前のせいだと、真偽は別にしてただ張り裂けんばかりのハリーの胸の内をぶつけたかった。


「退け!私が診る!」


ズイっとスネイプが身を乗り出し、彼女の隅々までを調べ始めた。何やらぶつぶつと呪文を唱えながら杖を彼女の身体に滑らせる様を、ハリーは手を首に添えたまま観察する。

キッとスネイプがハリーを睨み付けた。ハリーも闇色にぎらつく瞳を見返した。仇だとか、信用だとかではない。今ここでエバンズを繋ぎ止めているのは首元に伸ばされたハリーの右手に違いなく、退けと言うのは彼女の死を早めることに他ならなかった。


「セブルス……」


か細い声だった。エバンズは最後の力を振り絞っているのだと誰の目にも明らかだった。


「リリー?待て、すぐに治してやる。君が私に託したものはこのときのためなのだろう?ポッター、手を退けろ!」

「セブ……」

「喋るな!これ以上喋るな、血が――」

「聞いてあげて!」


ハーマイオニーが泣き叫ぶ悲鳴のような声をあげた。ロンにすがりようやく立てている彼女をスネイプは射殺さんばかりに睨み付ける。しかしハリーは目を細め僅かに口角を上げたエバンズを見ていた。

スネイプがだらりと投げ出されたままの彼女の手を取ると、ハリーの押さえる首元の彼女の手から力が抜けた。すべてに身を委ねる彼女の微笑みは心底幸福に満ち溢れている。ハリーといるときのジニーのよう。いや、ハリーはジニーをここまでの幸福にしたことがない。


「生きて……セブルス……私は、先に……眠……おや……すみ……」


彼女は本当にただ眠りにつくかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。


『 あ い し て る 』


ハリーは血に赤く色付いた唇が、最後にそう動くのを見た。きっと目の前で蒼白な顔をしている男も見たことだろう。自分は彼のこんな顔を見たことがなかった。これがあの、セブルス・スネイプなのだろうか。


『セブルスを信じて』


たとえダンブルドアを殺し、死喰い人と共にホグワーツを逃げ出した人物であろうと、消え行く命の中で告げられた願いを無下にすることなど到底ハリーにはできなかった。スネイプは杖を握りしめたままではあったがその杖先はぐったりと動かなくなった身体に向けられている。彼はぶつぶつと呪文を繰り返し、まだ諦めていないようだった。


今は二人にしてやろう

彼らはそういう仲だった


ハリーにもそういう人がいる。ジニーだ。彼女は強大な闇に立ち向かうハリーを止めることもなく、彼女自身今もどこかで戦っている。

ハリーはそっとエバンズの首から手を離した。支えを失った彼女の手がズルリと滑る。ハリーが受け止める前に、呪文を続けながらスネイプが彼女の手を取っていた。まるでハリーが触れることは許さないと言わんばかりに引き寄せて、呪文の途切れた一瞬に恭しく騎士が姫に忠誠を誓うような仕草をした。


今、この男の世界にハリーはいない


そう感じた。

スネイプが血だらけの手をローブの中に突っ込むのを見たあと、ハリーは背を向けた。少し前の自分なら、この男に呪文のひとつもお見舞いしないで去るなど考えられなかった。

しかし、今は。


ハーマイオニーはロンの腕の中で泣いていた。

ロンもハリーも涙は流していなかったが、やはり悲しかった。けれど自分は浸っている訳にはいかない。まだ残した仕事がある。ナギニはヴォルデモートと共に去ってしまった。


不意に哀悼の歌声が聞こえてきた。

それは徐々に大きくなり、ハリーの視界を深紅が掠めたかと思うと、ふわり、とその大きさにしては軽い存在感がハリーの肩に着地した。フォークスだった。ダンブルドアが亡くなったあの日、共にホグワーツから永久に去ってしまったと思っていたフォークスが、舞い戻った。

ハリーはダンブルドアに肩を叩かれたような気がした。横目で見た自分の肩にあるのは不死鳥のどっしりとした力強い二本の足。

ハリーはダンブルドアの健康で使い込まれた頼もしいしわくちゃの手が肩に置かれた日を思い出した。初めてダンブルドアへの信頼を示し、彼を善の塊だと信じきることに疑いもなかった頃。あの頃は偉大な魔法使いが自分に触れることがたまらなく嬉しかった。

しかし今はどうだろう。

不敬を見抜いたフォークスが着地と同じようにふわりと舞い上がった。スネイプの肩へ寄り道をして、最後にエバンズの傷口のすぐそばへと下りる。その金色の尾羽を追って振り返ったハリーはまだスネイプが蘇生に精を出していることを知った。


「ロン、ハーマイオニー、行こう」


かさついた喉に貼り付きそうな声でハリーが言った。二人が頷き、暴れ柳へと続く隠し通路へと一歩足を踏み出す。


「待て」


敵意はなかった。ハリーが振り返ると、驚くことに、スネイプが涙を流しながらこちらを見ていた。暗い瞳が潤み高い鉤鼻に雫が滴っている。

スネイプは近くに転がっていた血濡れのラベルが貼られた小瓶を拾い上げ、杖先を初めて彼女から逸らした。ハリーはただその動きを見ていた。身構える必要がないと分かっていた。スネイプは自分のこめかみに杖を当てると、不快感を顕にしながらスッと銀色の糸を取り出し小瓶へと入れた。


「憂いの篩で見ろ。必ずだ」


差し出された小瓶をハリーは受け取った。そして頷く。スネイプはまた蘇生の足掻きへと戻っていった。


リリー・エバンズの守ったシナリオは、

彼女なしで再び歩みを始めた。




『死とは長い一日の終わりに眠りにつくようなものだ。きちんと整理された心を持つ者にとっては、死は次の大いなる冒険に過ぎないのじゃ』(ハリー・ポッターと賢者の石より アルバス・ダンブルドア 一部抜粋)






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