156 目覚め


初めに見たのは、真っ白な天井。目が覚めたら心当たりのない状況に最早驚くこともない。

目玉だけをキョロキョロと左右に動かして、何か手懸かりはないかと色を探す。窓は開いているようで風を感じた。青い新緑の香りを探してみたが鼻を掠めるのは湿気を帯びたコンクリート。

一体ここはどこか。目を閉じて記憶を遡る。

ゾクリ、と冷酷な赤を感じて目を開けた。


そうだ、私は死んだのではなかったか

首をナギニに咬まれて


軋む首を怖々と動かしてみても痛みはない。代わりにそばの黒い影を見ることができた。真っ白な世界に似つかわしくないその存在は、どうやらこちらに背を向けている。時折黒髪を揺らしては、僅かに右腕を動かしていた。合わせて聞こえる心地のよい紙擦れで読書中なのだと分かる。

固定された彼の左腕を辿れば、自分の右腕に辿り着いた。そこでようやく、自分が手を繋がれていることに気づく。

途端、塞き止められた熱が握りしめられた手のひらを伝って全身へ駆け巡った。


帰ってきた

私は、生き残ったのか


確かに死んだと思った。それでいいと、そばにいるこの男のためなら惜しくはないと投げ出した命が、まだ私の手の中にある。

ギュッと、その温もりを今度は逃さぬように、きつくきつく握りしめた。


「っエバンズ!?」


振り返った愛しい顔は驚きと喜びがごちゃ混ぜになった初めて見る表情をしていた。


「お、はよう……ございま、すっ」


掠れた声を絞り出して、空気が劇物だったかのように噎せこんだ。


「待っていろ、癒者を呼ぶ」


セブルスが立ち上がり右手の熱が離れそうになって、私はその手を掴み直した。まだ離れたくない。これが夢でないのなら。夢だとしても。

彼は我が儘な子供を宥めるように空いた手で私の頭を撫でた。こんな風にされるのは初めてだ。けれど彼のイメージにないその動作にぎこちなさはない。まるで日課のようだった。


「セブルス?」


今度は幾分かましな声が出せた。喉が声の出し方を思い出しながら動いている。一言一言にすごく体力を消耗した。


「何だ?」


彼は未だ私を撫で続けていた。愛おしい彼の細長い指が髪に絡み、梳いて、時折頬を擽る。呆れを滲ませながらもすべてを受け入れてくれる表情。

とても、とても、甘い。


「本当に、セブルスですか?」


つい、そう聞いてしまったほど。

頭から彼の存在が引いて私はすぐに問い掛けを後悔した。けれど不機嫌に寄った彼の眉間はいつものもので、ぎゅっと結ばれた唇や物申したい気持ちを抑えているに違いない漆黒の瞳も、すべてが愛おしい。

じわりと、視界が滲んでいく。


「私はここにいる」


ポロリと零れた涙を拭う前に、彼が滴を拐っていった。目尻を親指の腹で荒く擦られる。彼の与えてくれるすべてが嬉しくて、くすぐったい。ふふ、と笑い声を洩らせば、ペチリと優しく額を叩かれた。


「ここがどこか分かるか?」

「聖マンゴ病院」


備品の一つに杖と骨が交差した紋章が描かれているのを見つけた。


「そうだ。何故ここにいるか分かるか?」

「……死んだ、から」

「馬鹿者。死にかけた、だ」


今度はコツリと軽い拳骨が額に落ちた。


「先に教えといてやる。闇の……ヴォルデモートは、滅んだ」


ドクンと心臓が波打った。ポッターは、ホグワーツは、ダンブルドアは、セブルスは、私は、勝利したのだ。

《本》の示した未来がここにある。

またじわりと視界が浸水し始めた。安堵が胸一杯に広がって次から次へと溢れ出る。声を押し殺して泣く私の涙をセブルスが黒いローブの袖口で拭ってくれた。


「で、あるからして、君は安心して治療に専念できる」


「癒者を呼ばせてくれさえすれば」と付け足したスネイプは片眉を上げ小馬鹿にする笑みを口端に浮かべた。リリーが苦笑すると彼はローブから杖を取り出す。横たわったベッドからは現れた銀白色の牝鹿の頭部だけが見えた。彼の指示にしたがって牝鹿が一斉に方々へ飛ぶ。扉へ、窓へ。リリーはそこで牝鹿が一体ではなかったことに気付いた。


「どこへ?」

「色々だ」


セブルスは答えたくないようだった。癒者以外へは知らせたくなかったのかもしれない。そんな雰囲気だった。


数秒も経たずして癒者の一団が駆け込んできた。彼らに場所を譲って遠ざかるセブルスを窺えば、彼は『私はここにいる』と今度は喉を使わず唇だけを動かした。私はまた頬が緩んでしまう。


あちこちを検査され、仕上げにゴブレット一杯のグロテスクな薬を押し付けられた。顔をしかめ鼻を摘まんでも誰も同情してはくれない。


「傷も完治していますし今のところ異常はありません。ですが体力を回復させるため退院までは数日必要です」


担当癒だと名乗った壮年の男は「詳細は少し時間を置いてから」と簡単な説明だけをして去っていった。残されたのは私とセブルスだけ。私の他には病人どころかベッドすらなく、贅沢にも一人部屋を宛がわれていた。

枕を背に当て上半身を起こしたまま息をつく。セブルスが口直しに入れてくれた水を受け取った。

あれから何があったのか。ヴォルデモートが倒されただけでは安堵こそすれ喜びきれない。彼を倒すため尽力したのはポッターやダンブルドアたちであって私ではない。

私が願ったのは、防ごうとしたのは、別のこと。

しかしそれを問うのは相当の勇気を必要とした。私は幸運の液体を煎じ、残された10日間で生徒たちへ身を守る術を叩き込んだ。しかしアクロマンチュラを追い立てたのもまた、私。

切り出せずにチビチビと水を飲んでいると、突然病室の扉が開いた。


「リリー!」


両手を広げベッド横までの数メートルを駆けて来たのはソフィアン・シュティールだった。三大魔法学校対抗試合の年に出会い、その後も手紙だけで交流を続けていた彼。イギリスにいるとは聞いていた。癒者を目指しているとも。驚いたのは彼が真新しい緑のローブを身に纏い、その胸には聖マンゴの紋章が輝いていること。


「シュティール!」


私は何から言って良いやら分からなくなり、シュティールに釣られて両手を広げた。その手から然り気無くゴブレットが引き抜かれ、セブルスの気遣いに視線だけで礼をする。

シュティールから患者相手としては少々熱烈な抱擁をされ、頬に親愛の挨拶も受けた。感動の再会が終わらないうちに、彼とは反対側のベッドサイドからセブルスの咳払いが聞こえた。


「癒者なら癒者らしく患者への気遣いを見せろ」


シュティールは私を盾にして隠れ、ベッと舌を突き出した。ひょうきんな仕草に思わずプッと吹き出せば、その黒衣以上にどす黒い空気が背後から漂ってくる。逆転時計を何万回も回したような、とても懐かしい光景だった。


「う、わ……」


また扉が開いていた。


「ロン、立ち止まらないで!」


ロナルド・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーだった。ウィーズリーは不穏な空気を発する男のいる病室に躊躇って、同行者に責付かれ中へと入る。なるべく不機嫌な石像を見ないようにとリリーだけを目に止め、シュティールのいる側へと歩いていった。グレンジャーがそれに続く。


「先生!」


シュティールとロンがハーマイオニーへと場所を譲り、彼女はもう我慢できないとリリーの胸へ身を寄せた。背に回るグレンジャーの腕にリリーは身も心も温められる。鼻をすすり頻りに「良かった」と繰り返す彼女の背を優しく擦ってやった。


「二人も無事で良かった」


リリーはにっこりと微笑んで、心の底からそう言った。


「ハリーも一緒に行きたがったんですけど、あいつ抜けられなくて。また改めてお見舞いに行きますって言ってました」


ウィーズリーが肩を竦めた。『ハリー』と言った瞬間にだけチラリとスネイプを窺った彼らの埋まらない溝に苦笑して、リリーが頷く。

ハーマイオニーが身体を離し、ブラウンの瞳を涙で歪ませリリーを見つめた。言うべきか、言わざるべきか。逡巡して、息を吸い込む。


「エバンズ先生、私、ずっと謝りたくて。あの時、何も出来なかったことを。あの――」


歓喜の漂う室内が一瞬にして固まった。

しかしそれも束の間、再び開いた扉から重苦しさが逃げ出して、グレンジャーの口を止めた。代わりに覗かせたのは白髪交じりのとび色で、リリーがハッと息を呑む。


「出遅れたかな?」

「リーマス!」


リリーはこの日初めて自分から両手を広げ、駆けていきたい気持ちを全面に押し出した。目尻をくしゃりとシワだらけにする彼の笑顔が堪らなく嬉しい。そして更に彼の後ろからひょっこりと現れたピンクの髪に、リリーはとうとう涙腺が決壊したのを感じた。


「トンクス!」


浮かせた足の踏み出す方向を決めかねて躊躇うルーピンの腕をトンクスが抱えるようにして率いる。スネイプとベッドの間に割り込むようにして立つと、ルーピンごとリリーの腕の中へと飛び込んだ。リリーはグシャグシャに濡れた右頬にトンクスを左頬にルーピンを感じながら二人のローブの背をぎゅっと握る。


「また会えて、本当に、本当に嬉しい!」


壮大な冒険をやり遂げたポッターたちが無事である可能性は非常に高かった。セブルスに関してもこの身を賭けて死を挫いた自信があった。

でもリーマスとトンクスは違う。

熱く滾るこの胸の内を上手く伝える言葉が見つからなかった。密着している部分から思いが伝わってくれることを願って二人を抱きしめる。


「『また必ず会おう』って言ったからね。私はリリーとの約束を破ったことはないよ」


ポンポンと優しく背を叩くリーマスは少し震えているような気がした。


「私は危うく破るところだった」

「でもここにいる」


トンクスがリリーの頬に擦り寄って、ふに、と互いの頬を密着させた。


「おっと、時間切れか」


グンとルーピンの身体が後ろへ反らされた。首根っこを掴まれたままやれやれと眉尻を下げる彼の後ろで、スネイプが空気を冷却しながら立っている。トンクスが自主的にリリーから離れるとルーピンも体勢を立て直した。スネイプは真っ白な無地のハンカチをリリーへ押し付けると、ルーピンをその場に杭打つように睨み付け、また傍観者の位置へと戻る。


「リリーに良い報告があるんだ」


トンクスがニヤリと悪戯を仕掛ける子供の顔をした。そして左手をリリーの前に出し、ひらひらと振って見せる。


「これなーんだ?」


その薬指で誇らしげに指輪が輝いていた。リリーは祝福が胸につっかえてパクパクと口を動かす。涙を拭ったハンカチをくしゃりと握りしめ、ルーピンを見た。


「バタバタしている時期だったから、式はごく少数で簡単に済ませたんだ。君にも是非出席してもらいたかったんだけどね」


ルーピンは照れ臭そうに笑って、左手を上げた。トンクスとお揃いの指輪が輝く薬指に、止まり始めたリリーの感情の噴出がまた波となって押し寄せる。


「おめでとう!あぁ、こんな素晴らしいことって!」


もう濡れていないところがないくらいにリリーは溢れ出す喜びをハンカチで拭った。


「まだあるよ」


トンクスの弾む声にリリーが顔を上げた。ワクワクとピンクの髪が揺れ、トンクスが挙げていた左手を自身の腹部へと導く。


「まさか……」


リリーの視線がトンクスのお腹から彼女の顔へと上がり、ルーピンへと移動した。


「4ヶ月なんだ」


ルーピンが言った。


「聞いてない!」


声を上げたのはウィーズリーで、グレンジャーに小突かれ見開いた目のまま注目を浴びている現状に身を捩る。口々に祝いが述べられていく中、リリーはまだ膨らみ始めてもいない新たな生命の宿る場所を見つめていた。

私が奪ったも同然の命だった。何億、何兆とある遺伝子配合の奇跡の一つ。これから生まれてくる子供は私の《知る》彼ではないだろう。ステーキのレアを好むかもしれないし、七変化ではないかもしれない。

それでも。

それでも私は流れる涙を止めることができない。並々ならぬ歓喜を隠すことができない。頬は緩みぐにゃりと口角が上がっていくのを抑えることができない。


「テディ……」


リリーの口からポロリと零れた。


「テディ?」

「ううん、何でもない。気にしないで。それよりも、おめでとう!」


不思議そうに首を傾げるトンクスを誤魔化すように、祝福を述べた。


「君が眠り続けていた1年間、私たちにも色々あってね」


思い出に浸る幸福の視線をトンクスに贈りながら、ルーピンが彼女の肩を抱く。しかし感情を吸い取る「灯消しライター」が存在するかのように、リリーからはスッと表情が消えていた。


「1年……眠り、続けていた……?」


ポカンと口を開けたままリリーはルーピンを見ていたが、彼はスネイプを振り返り驚きと責めの入り交じる視線を送った。スネイプの「チッ」と舌を打つ音が静まり返った病室に目立つ。


「お忙しい客人方のお帰りだ。シュティール、貴様は勤務中だろう」


スネイプはリリーの目覚めを祝いに来た人々を追い返した。再び病室にはリリーとスネイプの二人が残される。


「何から話すべきか……」

「すべてを。あの日の叫びの屋敷からすべてを」







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