名前を呼んで
02
 四ノ倉柚希は本当に頭のいい奴だ。手には必ず一冊の文庫本を携えていて、ブックカバーで表紙こそ見えないがいつも同じ本であることはくたびれ方で分かっていた。
 彼女は常に自分に問う。その日の授業の課題、担任が話していた道徳的話題など様々に。中でも多かったのが、

「私が私であることって、何だと思う? 私が私らしくあるために、私は特別な努力を以って生きなくちゃいけないの? 生きるってなんだろうって、いつも思うの」

 自分自身に対する問い。とにかくあらゆる視点から一日一つ以上の問題を眺め、ひたすら考えているのだ。
 俺はそんな四ノ倉柚希を尊敬するようになった。今まで見てきたいわゆる?秀才?はこうではなかった。もっとこう、汚い何かが腹にあって(たとえ顔は笑っていても、だ)、どこか見下されているような感じだった。しかしあいつは、自分の疑問をただ真っ直ぐに見つめていくだけだ。何のエゴも穢れもない。
 それは確かであるのに、あいつを尊敬する程に俺の心は締めつけられ、狭くなる。成績、人付き合い、性格、容姿……。他からの評価、認識、イメージが常につきまとい俺を襲ってくる。

『お前はダメだ、ダメだ、ダメナヤツダ……』

 動悸に潰されそうになり、左手首が熱くなる。黒いリストバンドの下にある、赤く、細い刻印が。

(この前は深くやっちまったな……)

 ゴロリと芝に背をつけて、ごうごうと渦巻く不快な思いを鎮めようとする。

「なんなんだろうな、これ」

 あいつだったら、ゆっくり目をつむって奥深い思考に沈んで行くんだろうけれど、俺にそんな器はない。つまり、頭も気力も足りないのだ。

「何か考えてるの?」

 しゃがんで俺の顔を覗き込む少女。他でもない、四ノ倉柚希だ。俺の視界では逆さまだが……。

「何でもねえよ」

 大義そうにして起き上がる。俺自身整理がついていなかったし、こいつにそんな弱み見せたくない。四ノ倉柚希はそんな俺に向かって、あくまで淡々と語り始めた。右手の人差し指をピンと立てるのは、彼女の癖だ。

「分からないことを分からないままにしておくことは、ストレスなの。そしてストレスは、思考を邪魔してくる。そして分かることも分からなくなる。悪循環。人はいつだって答えを求めたがるんだから」

 でも、と彼女は思わせぶりに微笑んで、人差し指を唇につけた。その妖しげな流し目に、ドキリとさせられる。

「答えを作っちゃえば、ストレスじゃない。こうなんだ、こうあるべき、これでいい……。人はそうやって自分を納得させることもできる。それも、答えのうち。自分が納得できて、何よりよく考えたうえのそれなら、悪くないと思う。大事なのは、考えること。ちゃんとした思考のプロセスが踏まれているってこと」

 不思議なことに、彼女を目の前にすると先ほどまでの負の感情がすっかり姿を消してしまった。彼女の、肩の上でパツリと切り揃えられた毛先がまた、そよ風になびいている。
 彼女の全てはいつも、「不思議」のヴェールで優しく包まれていた。



 柚希がいつものように文庫本を読んでいるように見える。いつもと違うのは、ページがなかなかめくられないってこと。

「機嫌、悪そうだな」

 俺はいつものように芝生に横たわり、いつものように青白い空をぼんやりと眺めた。

「うん」
「何かあったのか」

 寡黙な彼女のことだ。「やっぱり何でもない」とかなんとか言うのだろう。

「みんな、私を笑うの」

 冷静沈着、成績優秀、おまけに美人の彼女が笑われる?
 ……ご冗談を。

「そんなわけないだろ。なんて言われんのさ」

 彼女は黙る。黙って薄く笑っている。

「今日ね、私、誕生日なの」

 そして、はぐらかされた。まあ、名にし負う四ノ倉柚希のことだ。俺は自己解決で済ませてしまう。

「知らなかったな、おめでとう」

 彼女は小さくお辞儀をした。曖昧な笑顔に変化はない。



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