名前を呼んで
03
 夏本番。体育は専ら水泳授業となり、頭の爽やかな生徒と塩素の匂いが校内に充満する。それが俺をむかむかさせる。

「今日四往復一セットかける五っ!」

 弾けるように元気な体育当番の声。何の文句も言えないまま、メニューをこなしていく。それに比べて女子は……チラと隣のレーンを見やる。
 スタート台に立っている四ノ倉柚希。笛の音と共に飛び込む姿は人魚さながら。白い水しぶき、意外にも多くの黄色い声援、青いコースロープ。

(……ん?)

 異変に気づいた。何だろう、彼女の体の動きが鈍い。
 まさか……。

「柚希!」

 叫ぶやいなや俺はプールに飛び込んで彼女の元まで泳ぐ。あと十メートル、五メートル……俺が彼女に近づくにつれその体は動きと力を失い、抱きかかえた時には顔色は紙より白かった。

「お前、こっちこい」
「は、はい」

 腹の出始めた体育教師がプールサイドで手招きしている。表情は見たところ、冷静だった。無表情にも見える。……俺でさえ飛び込んでいったのに。彼女を渡すこの腕が、少し躊躇われた。
 四ノ倉柚希が水を吐いて意識を取り戻したのは、それからすぐのことだった。それまで俺は側についていて、彼女から片時も目を離さなかった。ゆっくりと瞼が開かれて現れた黒い瞳は二、三秒虚空を彷徨い、それから一番に俺を見た。目が合い、彼女は笑った……気がした。
 安心で俺まで倒れてしまいたかったが、それでは格好がつかない。膝をガクガクさせながら、授業の終わりを迎えた。

(次、物理なのにな)

 そんなことを考えていた。



「失礼します……」

 消毒用アルコール臭漂う清潔な空間。保健室に入ったのはいつ以来だろう?

「四ノ倉いますか、四ノ倉柚希」

 白衣にスリッパで現れた養護教諭は、困ったように上目遣いで微笑み、人差し指を口の前で立てた。眠ってるのか……。

「そうっすか……じゃあまた」

 来ます、と言おうとしたとき、裸足でペタペタと人影が現れた。養護教諭が慌てて駆け寄る。

「四ノ倉さん、足痛いんでしょ。歩いちゃだめよ」
「足? どうしたんだ」
「……つったの」

 答える直前の、照れたような悔しがってるような表情に、俺は思わず吹き出した。
 肩を貸してやり、ソファまで連れて行く。もっとも、彼女はもう片方の足を器用に使って、ほとんど一人で前進していったけれども。

「浮力は……」

 腰を降ろして開口一番にこれだ。

「浮力は、質量とは無関係に働く。すなわち、水の密度と私の体積と、重力加速度によって私は支えられていた。でも、分からないものね、やっぱり。一瞬、足の自由が効かなくなったと思ったら、私はどんどん沈んでいった。こわかった……」

 俺がかけてやれる言葉は、この他にあっただろうか?

「良かったな、生きてて」

 彼女は黙って頷いた。顔色は、良くなってきたみたいだ。



「『良かったな、生きてて』なんてね」

 竹の葉の、サ行音震わす風を聞く。リストバンドの下の肌は日焼けをしないので、生白い。白と赤の鮮やかなコントラスト。水泳授業はだから、好きじゃない。
 だが今はそんなことよりも。俺はさっき四ノ倉柚希に、「生きてて良かったな」と言ったのだ。自分で自分の生を否定しているこの俺が。一体これはどうしたことだろう。
 芝に横たわり目を閉じ、思考してみる。これが大事なのだと言い聞かせて。
 一番の違いは対象。俺か、あいつかということ。自分か、相手かということ。自分においては許し難いのに相手においては許せる、俺の中の「生」という基準。確かな事実。
 この感情は普遍か、それとも特殊か。この感情、すなわち……すなわち? だめだ、言い換えられる上手い言葉が見当たらない。人はこの感情をどう呼ぶ? 何と名付けたのだ? もし普遍であるならば、それを「それ」と特定させるための名前が存在するはず。たとえ目に見えなくとも。あの、万有引力のように。
 特殊であるならば、俺と四ノ倉との間にのみ起こりうる感情であるということだ。俺にとって四ノ倉柚希はどういう存在か。四ノ倉柚希という人は何なのか。
 俺と彼女の間柄。友人、親友……残念ながら恋人では、ないな。その前に、男女間に友情など存在するのか。
 四ノ倉柚希の考えることは、開かれているようでイマイチ掴みきれていない。四ノ倉柚希という人はこの期に及んで〈不思議な人〉〈頭のいい人〉という印象しかない。それ以上でも、以下でもない。
 ……本当に?
 彼女にとって俺とは? こればかりは考えても仕方が無い。――そういえば彼女は俺のことをどう呼んでいただろう。記憶の糸を手繰り寄せる。俺の名前にたどり着いたのは、『紺崎、望道』これだった。
 こぼれる溜め息。これは、初めて顔を合わせたときに呼ばれたフルネーム。それ以来、一度も耳にしていないんだ。あとはずっと「あなた」なのだ。
 突如、フル回転していた思考がストップした。車のエンスト、はたまた空気の抜けていく風船が想起されるのが、何となく歯がゆい。
 目を開ける。



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