6.一年生秋

32

 日が暮れた後は、時計でしか時間の経過を判断できない。針は20時を指そうとしている。空腹感は感じないが、そろそろ帰らないといけない。

(あともう少し……30分は勉強できるかな)

 大学から離れたところで一人暮らしを始めて半年。都会じゃよく聞く話だけど、ここは贔屓目に言っても都会じゃない。「40分も電車に乗るの、大変じゃない?」と不思議そうに尋ねられるのはもう慣れたものだった。

 狂ったようにとは言いがたいものの、時間さえあればなんとなく勉強していた。左良井さんみたいになんでもそつなくこなす姿に憧れたし、なによりも他のことを考えずに集中できることが欲しかった。

(左良井さん、か……)

 随分懐かしい記憶から掘り起こされた名前のように感じた。胸に飛び込まれた彼女の香りを思い出すだけで、いつだって動悸は早まった。あれから何ヶ月の月日が経ったというのだろう。

 僕に心なんてあるのかと聞かれて、僕はすぐに答えられない。むしろ、目に見えない心などというものをどうして信じる事が出来ようかと思う。感情が面倒を引き起こすなら、感情が体調を侵すなら、僕は何も感じない。

 それでも僕は、生きている。

「あっ」

 ノートから思考が離れかけていたところに、驚きの感嘆詞が飛び込んできた。

「こんな遅くまで勉強してるんだ。さすがだねっ」

 志摩さんの透き通ったような明るい声は、いつもみずみずしく潤っている。僕はそれがいつも不思議でならなかった。

「しかも眼鏡。レア越路くんって感じ」

「……ああ、これ」

 普段は裸眼でも生活に差し支えはないが、勉強中になると多少のぼやけが気になるようになってきた。視力がいいのが数少ない自慢の一つだったけれど、それが一つ減ってしまった。

「ところで、志摩さんこそどうしてこんな時間まで?」

 ん? という表情をした後、バツの悪そうに志摩さんは笑った。

「ん……あたし、プログラミングの課題がまだ終わんなくて……時間ギリギリまで残ってたの」

 学部棟専用のパソコンの使用時間は午後8時までと決められている。基本的に棟内にはいつまででも残っていられるが、セキュリティの観点からパソコン教室はその時間には施錠されてしまうのだ。

「ここいーい?」

 と聞きながら、志摩さんは僕の向かい側の椅子を引く。僕は唇を引き上げることを、その問いかけに対するイエスの答えとした。

 寒くなったよね、と独り言のように志摩さんが呟く。

「ここがこんなに寒いところだなんて思ってなかった。まだ冬休みにもなってないのに……。一人暮らしって特に寒い気がする」

「僕はもっと寒いところを知ってるよ」

「そりゃ、日本を飛び出せばいくらでも……」

 楽しそうに笑う志摩さんの表情が固まった。

「どうしたの、志摩さん」

 僕を凝視する志摩さんの視線がはらりと窓の外に向けられる。

「ううん、なんでもない! それより、暗くなってきたしそろそろ帰らない?」

 大学の周りに群れるアパート群から漏れる明かりが夜に浮かんでいた。ここからの眺めも悪くないけれど。

「ん、そうしようか」

 僕たちはここよりも寒いところへと歩みを進める。


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