02
「座席は間を空けずに詰めて座ってください」
係員の指示に従って、僕は素知らぬ顔で三人掛けの座席の中央を陣取った。つまり、彼女の隣だ。
彼女はただ時間が過ぎるのを待っているように見えた。本を読むでもなく、音楽を聴くでもなく、かといって居眠りするでもなく。座席を移動した僕に数ミリの意識さえも向けず、彼女はただ虚空に漂う何かを見つめていた。その暗欝とした横顔に、僕はしばらく目を奪われる。
「……」
わずかに彼女の唇が動く。色も形も薄いが、彼女の肌の白さをさらに印象付ける唇だ。彼女は何かつぶやいたらしい。しかし周囲の雑音に負けて僕の耳には届かなかった。
彼女は僕を一瞥した。ちゃんと顔がこちらを向いていなかったのは、単にそれが面倒だったのと、僕の彼女に対する興味ほど、彼女の僕に対する興味が大きくなかったからだろう。真正面から見つめてくれない彼女の瞳は目全体の大きさに比べて大きく、その黒い部分は何も写らなそうなほど深かった。
「……何か?」
かろうじて聞き取れたそれは、明らかにずっと彼女を注視していた僕に向けられた言葉だった。その無関心な表情からは読み取れなかった不快さが、彼女の低い声に混じっていた。
「いやあ……面白くなさそうだなって思ってさ」
僕にできることは、正直であることだけだった。
「……じゃあ、あなたは面白い?」
「全然」
即座に返された僕の返事に、彼女は初めて笑った。それはもう、うっすらと。そして僕はこの一連の会話で、彼女は人の目を見て話さないんだ、ということに気付いた。
本当なら、どこから来たの? とか何学科? とか聞くのが普通なのだろうけれど、彼女に対してそういうことを聞くのは違うと思った。彼女に対して興味を持ちはしたが、これからも関係を持っていたいとまではまだ思わなかったし、お互いに今日の入学式がつまらないと思っている。そんな状況で普通の質問なんてできなかった。
「全部……」
うっすらと笑ったまま、彼女がつぶやいた。
「全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね」
ざわざわとした会場の雰囲気は、彼女の言葉だけでは変わらなかった。しかし、僕と彼女の間の空気だけが確かにその瞬間止まった。
「たとえば……この、入学式とか?」
僕がそう言うと、彼女は今日一番の清々しさで笑った。
「気の利くこと言うのね」
噛み合っているようで噛み合っていない、変な会話だ。僕はそう思ったものの、まんざらでもない気持ちでいた。
「では会場に移動します。荷物を持って忘れ物がないように注意してください」
話すことをやめた彼女は係員の指示に従い、気怠そうに荷物をまとめ始める。
いつの間にか僕の左隣の席は、若い男によって占められていた。
[4/121]
←BACK|TOP|NEXT→
しおりを挟む