帰宅
その日家に帰ると、恵理子は軽く沙織を注意したものの怒りはしなかった。
帰るとすでに夕飯が出来ていて、恵理子の夫であり沙織の叔父にあたる真次郎と、彼らの一人娘であり沙織にとっては従妹にあたる結李(ゆり)、そして恵理子と沙織はそろって食卓に座った。夕飯はビーフシチューとサラダ、そして少し固めの白御飯にオレンジジュースだった。恵理子と真次郎はワインを飲んだ。
(そっか…もうこんな時間なのよね…)
壁にかかった時計の針は7時過ぎを指していた。恵理子は怒りこそしなかったが、その顔を見ればどれほど心配してくれていたかがよくわかる。沙織はいささか申し訳なく思いつつ、ビーフシチューを頬張った。
「沙織お姉ちゃん、どうして今日は遅かったの?」
結李が無邪気な笑顔で聞いた。まだ小学2年生の結李は自分の母がそのことで心配していたなどとはつゆにも思わず、どこかへ遊びに行っていた程度に思ったのだろう。結李は名前の通り、李のようにまるくて可愛らしく、真っ白や薄いピンクの花びらのような子だった。物怖じや人見知りをせず、いつも優しい笑顔の結李を沙織は初めて会ったのにも関わらず妹のように感じていた。
「んー…ちょっとね、学校の文化祭の執行部に入っちゃって…」
「へえ!執行部?すごい!お姉ちゃんたち何やるの?ねえ、結李も見に行っていい?」
結李がはしゃいだ声で言った。それを制するように、今まで黙っていた真次郎が低い声で言う。
「本当にそうなのか?下校時間は5時だろう?なのに帰ってきたのは7時じゃないか」
沙織はうっと詰まった。真次郎は悪い人ではないのだが、恵理子や結李とは違って馴染みにくい。沙織はそんな真次郎に、若干の苦手意識を感じていた。
「あ、は、はい…あの、執行部の仕事が延びていたものですから」
「一時間も伸びるのか。君の学校の先生は下校時間を過ぎているのに仕事をさせるのか」
「ええっと…その…」
「まあまああなた、そのくらいにしてくださいよ。沙織ちゃんだって反省しているわけですし、ね?ケンカなんかしてたら、せっかく作ったビーフシチューが不味くなっちゃう」
恵理子が絶妙なタイミングで助け船を出してくれ、沙織は少しホッとした。真次郎はというと、フンッと鼻で笑うように言って席を立った。
「とにかく、この家に来たからにはこの家の方針に従ってもらう。これから門限は6時半。いいな?」
それだけ言い残すと彼は沙織の返事も聞かずに部屋から出て行った。
「ご、ごめんね。普段はあんなじゃないんだけど…最近ちょっと仕事がうまくいっていないみたいで…」
恵理子が申し訳なさそうに言った。沙織は細く笑って手を振った。
「そんな。私こそ、今日は心配かけちゃってごめんなさい。これからはちゃんと、下校時間には帰ってくるようにします」
「いいのよ。執行部だもの、仕方ないわよね。…でも沙織ちゃん、ひとつだけ聞かせて。もしかして…黒田先生と、何かあった?」
沙織はどきりとした。出来れば今日あったことは誰にも話したくなかった。
あんな無様な自分の姿なんて、思い出しただけで顔が赤くなる。それを人に話すだなんてもってのほかだったし、下手に話せばいじめと勘違いされるかもしれない。咄嗟に「いいえ」と答えようとして、沙織の中にある考えがフッとよぎった。
(もしかしたらおばさんは、全て知っているのかもしれない。何せ学校から帰るのに一時間以上かかるんだもの。茜さんは誰にも言わないって約束してくれたけど…でも…)
『安心して。今日のことは誰にも言わないから』
頭の中に、茜の顔がよぎった。
感情のない瞳。淡々とした口調。
沙織はまだ、茜のことを信用しきれていなかった。
(もし茜さんのほうから、おばさんに連絡がいっていたら…)
下手に誤魔化すと、逆に怪しまれてしまう。
敢えて正直に、けれど大したことではなかったかのように軽い口調で話すか、それとは真逆に全てをなかったことにするかーーー。
と、沙織が返答に窮していたその時、それまで黙って成り行きを見守っていた結李が、珍しく真剣な顔で口を開いた。
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