▼ 04
それで、と話は続く。
「姉ちゃんは…生まれつき身体が弱いから、あんまり一緒にいたことはない」
「家にいないってことか?」
「いや、家にはいる。でも姉ちゃんの部屋に勝手に入っちゃいけないし、小さいころから一緒に遊ぶのは制限されてた」
姉という存在を同じく持つ者として、病弱な姉を想像しようとしてみたが俺には不可能だった。俺に想像力が足りないのか、それとも育ってきた環境の影響は俺が思っている以上に大きいということか。
「…で、さっきの役割って話に戻るんだけど」
「あぁ」
「期待をかけられるのは兄ちゃんで、大切にされてるのは姉ちゃんで、そのどっちでもないのが俺」
「…」
俺は咄嗟に返事ができなかった。
「俺がどう育ったっていいんだよ。だって家のことは全部兄ちゃんがするだろ?姉ちゃんは身体が弱いし女の子だから、手をかけて大切に扱われてる。でも俺は違う。好きなときに好きなだけ可愛がればいい」
九条の口は止まらない。今まで内に溜めてきたものを全て吐き出してしまうように、その口から言葉が紡がれる。
「何でも与えてもらったし、不自由してるわけじゃないけどさ。どれだけ反抗したって、何したって『お前は仕方のない子だな』って笑って許されて、本気で怒られたことなんて一度もない」
可愛がられているのは確かなんだろう。甘やかされているのも事実。
周囲の期待に応える立派な兄。病弱で大切に育てられてきた優しい姉。二人の「例」を見てきた九条にとって、その甘やかされ方は不当なものなのだ。無責任な可愛がり方、と言ってもいいか。
「それって、俺に興味がないってことじゃんか」
自分も兄のように期待されたい。姉のように手をかけてもらいたい。ずっとそうやって願ってきたのだ。
「…ごめん。変な話した」
九条は自分の発言にはっと我に返ったような表情を浮かべ、ごまかすようにへらりと笑った。
「他はなんだっけ?センセーは何の話が聞きた…」
「九条」
俺は九条の言葉を遮って口を開く。
――だから、俺を。
「お前が俺を好きなのは、俺がお前を甘やかさないからか」
家柄なんか関係ない。九条としてでなく、九条徹平として。俺はそういう風にこいつに接してきた。
「うん」
九条は真顔に戻ると、笑うことも照れることもせず頷いた。
「先生は、俺に遠慮なんかしない。俺を本気で怒ってくれるし、本気で嫌ってくれる」
「…」
「だから、もしも先生が少しでも俺のことを好きになってくれたなら、その気持ちも本気だって信じられる。先生は本気で俺に向き合ってくれるんだろうなって」
「…もし」
馬鹿な質問だ。
だけど、口に出さずにはいられなかった。
「もし、俺の他にお前に本気でぶつかってくれる人間が現れたら、お前はそいつを好きになるか?」
「先生以外に?…うーん、わかんねぇけど、多分恋愛って意味では好きにならない。今の俺は先生が好きだし、それは他の奴が出てきても変わらない」
「じゃあ、俺と会う前だったら?」
九条は即答する。
「好きになってたんじゃねーの、その人のこと。初めて俺を叱ってくれた人ってことだろ」
「…そうか」
――そうか。
今までずっと、こいつに出会ってからいろんなことを考えてきた。悩んできたとも言っていい。
俺はどうするべきなのか。俺はどうしたいのか。選ぶべき道はどれなのか。どうしてこんな子ども一人にここまで振り回されてやらねばならないんだ、と思いながらも、限られた選択肢でも、その中で俺は俺のしたいようにやってきたつもりだ。
そしてそれは全て、俺がこのガキに本気で向き合っていたということになるらしい。
少なくとも九条本人には、そう見えていた。
「相手がたまたまあんただったから、俺はあんたを好きになったんだ。そんで俺は、その相手が先生で良かったって思うよ」
単純な思考に単純な答え。九条の言葉は、いつだって嘘偽りがない。
「…外れくじを引かされたんだな、俺は」
「なんだそれ。外れって言うな」
初めて会ったあの日、こいつの言葉なんか無視してしまえば良かったのに。俺だったらそのくらいのことはできたはずだ。何もこんな面倒な相手に自分を曝け出すなんて、どうかしていたとしか思えない。他にもっといい方法はいくらでもあった。
でも、そうしなかったのは。
「九条」
誰が仕組んだわけでもない。全部偶然。全てはたまたま。
俺も、九条も、こんな展開、誰も予想していなかった。
「言ったろ、俺の負けだって」
――だけど俺はもう、九条と同じようにその「偶然」を特別に思わないではいられない。
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