DOG | ナノ


▼ 05

九条は持っていたホットドックをぽろりとその場に落とした。幸いなことにそれは床ではなく皿の上に落下し、被害は皿がケチャップとマスタードで汚れたことのみだった。

「え、えっと…負けって、いうのは」

動揺している。俺ではない、九条がだ。

「この間も言ってたけど…どういう意味?」
「どういう意味だと思う?」

俺はようやく自分のホットドックに手をつけることにした。話している間中放置していたせいで少し冷えていたが、まぁいい。そういえば朝もパンだったが、それもまぁいい。包みを開け一気にかぶりつく。特別おいしいというわけでもなく、かと言ってまずいということもない味を前にして、やっぱりカレーにしておけば良かったと思った。

「はぐらかさないでちゃんと言えってば!」
「別にはぐらかしてねぇよ。ただお前の意見を聞いておこうと思ってるだけだ。お互いの意向のすり合わせってやつ」
「先生はそうやっていっつも難しいことばっかり」
「別に今難しいことは言ってないだろ。お前が馬鹿なだけ」
「むぐ」
「やるよ」

手に持っていた食べかけのパンをその口に突っ込んでやると、最初のうち九条は驚いたようだったが、そのままそれを食べ始めた。

「…ちゃんと食べないと腹減るぞ」
「そのときは何か買って食えば良い。それにお前、自分の落としたし」
「落としたけど皿の上だからちゃんと残さず食うもん」

何が「もん」だ。可愛くないからやめておけ。

もぐもぐとホットドッグを口いっぱいに頬張っている様子はリスを連想させる。犬に猫にリス。とことん動物と縁がある奴だと思いながら、俺は一緒に買ったコーヒーを飲んだ。案の定ぬるくなっている。

「お前が言ってた役割の話だけどな」
「…それ掘り返すのかよ」
「いいから聞け」

先程の兄の話。姉の話。家族の話。随分と饒舌に話すと思っていたが、こうして再び話題に出すのを嫌がるあたり、本人にとってはあまり触れられたくない部分なのだろう。

――じゃあその触れられたくない部分を俺に話して聞かせたのは何故か。

そんなの決まってる。本当は触れてほしいからだ。

今までずっと悩んできたのだろう。抵抗もしてきたのだろう。ただ外側から見ているだけじゃわからない、複雑で繊細な気持ち。そういうものを、九条はずっと人知れず抱えて生きてきたのだ。だからあんなに長く長く言葉を吐き出した。今まで溜めてきたものを放つように。

わかってる。こいつはただの馬鹿なんかじゃない。

「俺がお前に役割を与えてやる。お前じゃなきゃできない役割を」

――だったら、とことん触れてやろうじゃないか。

「期待をかけて大切に育ててやる。お前一人だけに手をかけてやる」
「え」
「だから余計なことを考えるな。俺だけ見てろ。そしたら」
「そ、そしたら…?」
「ちゃんとお前のものになってやる」

ガタン、と音がした。九条が突然立ち上がり、椅子を倒した音だ。

「え…っ、え、え…!?」
「おい、急に立つな。座れ」
「は、はい」

素直か。

九条は慌てて椅子を戻し、そわそわしながらもそこに腰を下ろす。

「それって、俺と、付き合ってくれるってこと…?」
「あぁ」

ごす、と鈍い音がした。今度は九条がテーブルに頭を打ち付けた音だ。

「いてぇ…」
「当たり前だろ。馬鹿か」
「い゛だいぃ…」

俺はぎょっと驚く。顔を上げた九条が号泣していたからだ。

「うぇ…っ、う、ぅ、ぜんぜぇ、好ぎ、だいずぎぃ…!!」
「おいこんなとこで泣くな。俺が不審な目で見られる」

慌ててテーブルのものを片し、ぼろぼろと涙を零す九条をその場から連れ出した。九条は力なく黙って俺に引かれていたが、繋いだ手をしっかりと握り返してくる。

なんだこいつは。情緒不安定なのか。落ち着け。

人目を避けて移動し続けていると、大きく開けた空間に出た。館内の最後の目玉、大水槽がある場所のようだ。丁度よく水槽の前に椅子が並んでいるのを見つけ、できるだけ目立たないよう端の方に腰を下ろす。客の目線は水槽に釘付けなので、そうそうこちらを見られることはないだろう。

「…っぐ、うぐ…」

九条はなおも泣き続けている。俺は溜息をついた。

「お前…すぐ泣くなよ。男だろ」
「今泣かないでいつ泣くんだよぉ…」
「いつも泣いてんじゃねぇか」

生憎ポケットティッシュなどという気の利いたものは持ち合わせていない。ハンカチはあるが、鼻水をつけられたくないので出さないでおく。それにこいつのことだから、それくらいの装備は自分で持っているはずだ。

「うぅ…ハンカチ…」

ほらな。

ポケットからハンカチを取り出してぐすぐすと泣く九条を傍らに、俺はただただ目の前の水槽を眺め続けた。

――どれくらいの時間そうしていただろうか。

「…おれ」

ようやく泣き止んだ九条がぽつりと呟いた。

「小さい頃、家族みんなで水族館行ったことあるんだよ」

鼻声で少々聴き取り辛かったが、黙って耳を傾ける。

「すっげぇ楽しくって、でも途中で姉ちゃんの具合が悪くなって帰んなきゃいけなくなって、やだって駄々こねたらじゃあ置いてくぞって言われて」

うん、と相槌を打つ。

「そんなの所詮嘘だって思うじゃん。でもみんな、俺のこと振り返りもせずにどんどん帰り道を行っちゃうんだよ。怖くなって、慌ててごめんなさいって追いかけて」

頭の中には容易にその光景を描くことができた。実際に自分がその場面を見たわけでもないのに。

「だから水族館ってあんまりいい思い出がなくてさ。…けど今日、来れて良かった。本当に楽しかった」
「そう」
「…先生は?先生の話も聞かせてくれるって、さっき言った」

ふと横に座る九条を見る。青白い光に照らされて、泣き腫れた瞳が未だ潤んでいるのがわかった。

「俺の話はまた今度。次に話す」

帽子の上からぽんぽんと頭を手で撫でる。「次」という言葉に含ませた意味を、こいつはきちんと汲み取ってくれるだろうか。

九条はうんと小さな声で返事をした。

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