▼ 05
てっきり怒って出て行ったものだと思っていたので、予想もしていなかった泣き顔に反射的に息を呑む。
「…うっ…く…」
九条はずるずると鼻を啜りながら、「先生なんか嫌いだ」と掠れた声で繰り返した。
「ばかじゃねぇの…っほんと、なんなんだよアンタ…まじでムカつく…ッ」
「お前それ、本気で言ってんの?」
「本気にきまってんだーがクソ…!!」
――…あぁ、そう。
「…来なさい」
「やだ、離せよぉっ…行きたくない…」
「いいから」
出来得る限りの優しい声色を出しその手を引くと、九条は素直についてくる。恐らくこの様子なら、周りからは「反抗する生徒を叱るために別室に移動する教師」の図に見えているはずだ。
「う、ぅ…ぐっ、う…」
…つーか鼻水の音うるせぇ。
*
例によって行き先は勿論資料室である。持ち歩いている鍵で戸を開け、先に九条を中に押し込む。そしてしっかりと内鍵をかけた。さっきみたいにいきなり誰かに開けられたらかなわない。
「…きたねぇ面だな」
ぼたぼたと涙を零すその顔を着ていたジャージの袖で拭うが、九条は一層泣き出してしまう。何故だ。
子どもが泣いているときはどうあやせばいいんだか、と考えて脳内に浮かんできたのは可愛い姪っ子の顔だった。…いや、精神年齢的な意味ではこいつも比菜も同じか…。
とりあえず姪を相手にするように目線を合わせようとしゃがみこんでみる。当然小学校低学年の女児と男子高校生では身長が大きく異なるので、思惑通りにはいかず目線は俺の方が下になってしまった。まぁいいか。
「…なんで泣く?」
どうして俺がこんなにこいつに優しく接してやらねばならんのだ、という疑問を拭えないままではあるけれど、本気で泣いている奴にさらに鞭を打つような真似をするほど俺も鬼ではない。努めて穏やかな態度で接することにする。
「あ、あんたが…っ」
九条は止まることのない涙を手の甲で拭いながら、俺を見て言った。
「あんたが、司と、キスしたから…っ」
…それ、そんなに泣くようなことか?と尋ねそうになって踏みとどまる。今言うべき言葉ではない。それくらいは弁えているつもりだ。
「あんたに、と、とっては、大したこと、ない、ないんだろう、けど」
言葉が途切れ途切れで聞き辛くはあったが、じっと黙って続きを待つ。
「俺は、先生が、すきだから」
「…」
「他の奴と、そういう、こと、されんの、すっげぇ、悲しくて」
「…悲しくて?」
赤くなった瞳から、また涙が零れ落ちた。
「ごめん、うっとーしくて、ごめ…っ」
嫌わないで、と九条は言う。
「せんせ、お、おねがい、きらいに、なんないで」
その台詞は自分のことを好いてくれている人間に向けるものだろ。俺はお前のことを嫌いになれるほどお前を好いているわけじゃない。
そう、言いたかったはずなのに。
「ん…っ」
――気がつけば、キスを、していた。
「…っ」
触れるだけの優しい口付けのはずが、九条はそれだけで身体を強張らせる。
ゆっくりと唇を離し、俺は呟いた。
「…悪かった」
俺にとっては大したことがない些末な事も、こいつにとっては途方もないほど大きな出来事。
「もう、しない」
そんな風に涙を見せられたら、そんな風に泣かれたら、こう言うしかないじゃないか。
「し、しない…って」
九条はひどく驚いたような顔をして俺を見下ろし、泣き腫らした目を瞬く。
「市之宮とも、他の誰ともしない。俺がキスする相手はお前だけにする」
「…」
真っ直ぐに見つめ返して言い切ると、九条は今度は俯いて俺の手をにぎにぎと握った。
「…せんせーは、それでいいの」
いいと思ったからそう言ってるんだ。俺は自分の発言には責任をとる。
「俺、我慢、するよ…できると思…んんっ」
言い終わる前に手を掴んで引き寄せると、また優しく口付けた。涙のせいかしょっぱい味が口の中に広がる。
「しなくていい」
馬鹿か、と頭の中にいるもう一人の自分が自分を罵った。うるせぇよ、と返事をする。そんなことはわかっている。馬鹿だなんてわざわざ改めて言われるまでもない。自分自身の声とはいえ、余計なおせっかいだ。
「泣くほど嫌なら、そう言えばいい。我慢なんかするんじゃねぇ。我侭だってなんだって、そんな風に泣かれるよりはずっとマシだ」
――こいつと出会ったときから、俺はずっと馬鹿だっただろう。何を今更咎められることがある。
しゃがみこんでいた身体を起こし、ぽんぽんと軽くその頭を撫でた。泣いている姪に俺がいつもすることだ。手のひらというものは、多少なりとも人の心を落ち着ける効果があるらしい。
「先生…」
「もう黙れ」
顔を上げさせてそのままキスをすると、九条は小さく声を漏らした。
「ん、んん…っ、ぁ」
普段ならいくら酸欠になろうとどうだっていいが、散々泣きじゃくった後では呼吸が苦しいはずだと時折唇を離してやる。
「せ、せんせ、先生、せんせぇ…ッ」
何度も何度も繰り返されるキスの合間、九条は俺を呼び続けた。うるさい呼ぶなと一蹴しても無駄で、だからまた仕方なく口を塞ぐ。
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