DOG | ナノ


▼ 03

ガタ、と大きな物音がする。仰け反ったせいで背中が何か倉庫の中の用具にぶつかってしまったらしい。

「いちの…っ」

やめろと言いかけた口をまた塞がれる。慌てて押し退けようと持ち上げた腕の中に、市之宮はすっぽりと自身の身体を滑り込ませてくる。こうなってしまってはもうどうしようもできない。くそ、何やってんだ俺は。

しかも今度は舌まで入ってきた。エロガキ…ふざけんなよ。俺をキスで負かそうなんて百万年早いんだよ。応酬しそうになる気持ちをぐっと堪え、角度を変えて重ねられる唇をやり過ごす。ここで俺が応えたらますます泥沼だ。

「…もっと口開けて」
「駄目に決まって…っ」

――知らねぇよ、誰が予想できるかこんなこと。

あの値踏みするような視線も、探るような瞳も――腹が立って仕方がなかったこいつの眼差しの根底にあったのは、敵意ではなく俺自身への興味だったのか。

じゃあ俺と九条がいるときに限って度々姿を現していたのも、二人きりにさせまいとするかのようなあの絶妙なタイミングでの割り込みも、全ては俺が目的だったというわけだ。

気付けるか馬鹿。だって男が男に一目惚れとか。俺の今までの常識では考えられない。見誤った。が、そんな自らの過ちを素直に認めないことも許されるはずだ。こんな展開、想定の範囲をとうに飛び越えている。

「先生、何、考えてます…?」

市之宮の肌が暗闇で白く浮かび上がる。くっきりとした二重の瞳を縁取る睫毛は、間近だとますます長さが際立って見えた。

「何、って…」

――肌が白いところは一緒だな。でも目が違う。こいつの瞳のほうが、綺麗で整っている。

そんなことを考えているなんて、到底口に出せるはずもなく。

「…本気で俺が好きなのか」

代わりに口にした質問に、市之宮は少しの間きょとんと固まった。

「好きですよ」
「具体的にどこが」
「顔」

即答するなよ。

「あと、裏表がありそうなところですかね。一筋縄じゃいかなそうだなって」
「最初からこっちの本性はバレバレだったてことか」
「結構わかる人にはわかると思います。先生、そんなにうまく隠せてるわけじゃないですよ?」
「…お前ムカつくな」

縛られていなければ平手の一つでもかましてやったのに、残念ながら俺の両腕は何故か市之宮の身体を抱きしめている。こんなとこ誰かに見られたら、俺の教師生命は終わりだ。

「退け、クソガキ」
「嫌だって言ったら?」
「殺す」
「わぁ、怖いなぁ」

市之宮はちっとも怖いなどとは思っていなさそうな声色でそう言った。そして不穏な手付きで俺の腰を撫でるものだから、ぞわぞわと悪寒が走る。

「やめろ気持ち悪い」
「折角なんで一発どうですか。すぐ済ませますよ」
「するか馬鹿。頭いかれてんのかてめぇは」
「んー、そうですね。俺はタチでもネコでもどっちでもいけますけど、先生はネコは絶対嫌でしょうから…俺がそっち側でいいですよ」
「…ネコ?」
「端的に言うと、突っ込まれる側ってことです」
「あぁ…そういう…」

悠長に会話をしている場合ではない。何を納得してるんだ俺は。

「ネコでもイヌでもなんでもいいが、やらないと言ったらやらな…」

むに、と今度は指で唇を塞がれた。

「往生際が悪いですね。いい加減諦めたらどうなんです?それとも助けでも呼びますか?」

助けなんか呼ぶくらいならこのままこいつを抱いた方が幾分かはマシな気がするが。いずれにせよ生徒とこんな場所で事に及ぼうとする意思はこれっぽっちもないので、とにかく何とかしてこの場を切り抜けねばならない。

「お前な、俺のこと好きなんだろ」
「はい」
「じゃあ簡単に身体から手に入れようとするな。俺はそういう爛れた奴は嫌いだ。来るなら正攻法で来い」

我ながらどうかと呆れたくなるほどのまともな言い分である。もちろんこんなとんでもない餓鬼に正攻法で迫られても困るし、相手にしようとも思っていない。単なる逃げ口上だ。

「正攻法で行ったら俺と付き合ってくれるんですか?」
「それはお前次第だ」
「…うーん」

市之宮はしばらく唸りながら考え込み、ぱっと俺の顔を見上げた。きらきらと輝く瞳の近さに少しだけたじろぐ。

「じゃあ先生からキスしてくれたら、今日はこの辺にしておきます」
「は?」
「キス一つで騙されてあげるって言ってんですよ。安いものでしょ?」

――やっぱり駄目か。俺の思惑はとうに見破られていたらしい。まぁそりゃそうだ。俺がこいつの立場でも信じない。

…まぁ、いいか。それこそ市之宮のいうようにキスの一つや二つ、大した代償でもない。

他人にむやみやたらに余計なことを言うような奴でもなさそうだし、口止め料には安いものだ。

「…わかった」
「やった」
「そのかわり、誰にも言うなよ」
「もちろん」

静かに瞼を閉じた市之宮に、そっと顔を近づける。

――もうあと数センチで唇が触れると思ったそのとき、真っ暗だった倉庫の中に再び光が射した。

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