▼ 09
旅館に戻ると、中津川が玄関先で待っていた。先に女生徒を下ろし、タクシーの料金を支払う。
「布団を敷いてもらったから、少し横になって休みましょうね。私も保健室の先生もいるから、何かあったらすぐに呼んでね」
てきぱきと手際よく介抱を始める中津川に、彼女もほっと安心したような顔を見せた。
やはりこういうときはやっぱり同性に任せておいた方がいいか。そう思って離れようとする俺を、女生徒が引き止めた。
「藤城先生」
振り返った俺の手を、彼女の手が強く握る。
「……」
氷のように冷たいその温度に、一瞬息が詰まった。
「ありがとうございました」
小さく頭を下げた彼女を見て、俺は余計に何も言えなくなってしまう。
何に対するお礼なのかを具体的に量ることはできなかったが、何故お礼を言われているのかはわかった。
――この子は、ちゃんと理解している。
どんなに追いかけても、決して俺が彼女の気持ちに応えようとはしないこと。自分の想いが叶わないこと。
俺の優しさが、特別ではないこと。
「……ゆっくり休めよ」
「はい」
俺だって知っているはずだ。
本気で好きな相手に本気の言葉をぶつけることが、どれだけ気力のいることなのか。
誤魔化しておくことは簡単だ。伝えないでいる方がずっと楽だ。
だけど、そのままにしておけないほどの強い感情を、俺はもう知っている。
「こちらこそ、ありがとう」
本気の想いをぶつけられるのは痛い。それが応えられないものなら尚更。
そして、痛いのは想いをぶつけられた側だけじゃない。
――心臓を絞られるほどの痛み、だっけか。
そんな痛みを患ってまで、伝えたかったこと。そんな痛みを患ってもなお、諦められない気持ち。
どうして俺なんだ。そんな無粋なことは言わない。ただ俺にできることは、向けられた気持ちにきちんと答えを返すことだけなのだ。
「昨日のこと、俺は応えられないけど……嬉しかった。ありがとう」
俺がそう言うと、彼女は「はい」と今度こそ笑った。
*
「――中津川先生」
女生徒を部屋に連れていった後、戻ってきた中津川に問いかける。
「なんですか。っていうか貴方、まだいたんですか?早く見回りに戻っ……」
「九条はどこですか」
「……」
露骨に嫌そうな顔をされたが、今更そんなことにいちいち目くじらを立てていてもしょうがない。
「……」
「……」
「……」
「はぁ……もう、何なんですか、貴方」
「質問の答えを待っているだけです」
「……自分の部屋にいると思いますよ」
じっと黙って返答を待ち続けていると、根負けしたのか中津川がそう言った。
「男子生徒のエリアなので私は様子を見てはいませんが、寝不足だそうです」
「寝不足?」
てっきり昨夜のことが原因かと思っていたのに。
「この旅行が楽しみで、よく眠れなかったんですって。可愛いの極みじゃないですか?」
「……いやただのアホだろ」
心配して損をした。あと可愛いの極みってなんだ。大の大人が馬鹿っぽい言い回しをするな。
呆れかえる俺を中津川が鋭い目で睨んでくる。
「アホは貴方ですよ!」
「何で俺が」
「九条くんの体調不良は、ここに来てどっと疲れが出たからに決まっています。誰かさんのせいで]
「誰かさん、ね」
それはあながち否定できない。やはりあんな場所でするべきではなかったか。我ながら馬鹿な真似をしたものだ。
「ちょっと様子を見てきます」
ロビーの椅子から立ち上がる俺に、中津川が不審そうな視線を向けてくる。
「まさか貴方、弱っている彼にまた無茶をさせるつもりじゃ……」
「しませんよそんなこと」
どうだか、と中津川は口の中で吐き捨てた。この女、周りに誰もいないからといって気を抜きすぎである。
「大事な生徒の介抱も、立派な教師の務めでしょう?」
にこりと笑みを浮かべる俺に、中津川はぞっとしたような顔で自らを抱きしめた。胡散臭い笑顔は止めろ、ということだろう。お前こそいい加減その芝居がかった言動はやめろ。気持ち悪いから。
「いいですか、何かおかしな言動をすればすぐに乗り込んでやりますからね」
だから盗聴はよせ。俺は背中の声を無視して部屋へと向かった。
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