▼ 06
帰りは夕方の車が多い時間帯を避けたかったので、少し早めに出ることにした。
助手席に座る九条はやけに静かだ。朝早くから活動していたので疲れたのだろう。
「眠いんなら寝てろ」
「いや…起きてる」
「意地張るな。着いたら起こしてやる。朝と同じ場所でいいか?」
「うん、大丈夫」
「シート倒していいから」
「んー…」
そう言って数分後、あっという間に九条は眠ってしまった。すうすうと規則的な寝息が横から聞こえる。
そういや寝顔を見るのは初めてだ。大口を開けているあたりが予想通りで笑える。馬鹿面だ。
「…」
とん、と指でハンドルを叩く。
――少し冷静になれば、後悔の一つや二つすると思ったが。
とうとう絆されてしまった。俺と九条が付き合うなんて、どんな笑い話だろう。
後戻りはできないなんてレベルじゃないし、この先どうなるかは全く想像がつかないけれど、気分は今までにないくらいに晴れやかだった。
後悔はしない。これからもしない。俺は自分の判断を疑わない。
こんなにも真っ直ぐに追いかけてきてくれるのは、後にも先にもこいつだけだろう。
俺も、それに応えてやりたいと思ってしまった。一度でもそう思った時点でもう駄目なのだ。
だが、そう簡単にいくものではないことは勿論理解している。九条はまだ「子ども」だから、「大人」の俺がきちんと守ってやらねばならないことも。
覚悟は決めた。だから返事をした。
俺は俺にしかできないことを。九条は九条にしかできないことを。そうして造り上げた関係が、願わくはずっと続くように。途中で誰かに壊されるなんて、そんなことは俺のプライドが許さない。
進むべき道はいつの間にか一本だけになっていた。だったらもう、俺にできることはその道を進むだけ。
*
「んん…」
眠っていたのは1時間と少しほどだろうか。目的地まで起きないと思っていたが、九条が目を覚ました。
「あとちょっとで着くから、まだ寝られるぞ」
「んや…もう起きる…」
「お前涎垂らしてた」
「うそっ」
慌てて口元を拭う九条。嘘だけど。
「…つかこれ、先生の?」
寝てる間にかけてやったジャケットに気がついたようだ。流石に日中は着ていなかったが、朝家を出るときに少し肌寒かったので羽織っていたものだ。
「あぁ。また風邪でもひかれたら困るからな」
ふふ、と隣で間の抜けた笑い声がする。
「先生ってさ、本当はすっげぇ優しいだろ」
「…はぁ?」
「いっつも俺のこと叩くし、罵るし、バカって言うし…でも優しい」
突然何を言い出すんだ。俺は眉を顰める。
「猫かぶってるときの先生は、見た目は優しいけど、なんか…みんな一緒って感じじゃん。みんなに優しい。でも猫かぶってないときの先生が言うこととかすることって、最初はなんでそんなひでぇことするんだ!って思うけど、後であーそっかこれってこういう意味かって気がつく優しさ…みたいな」
「…」
生意気にわかったような口をききやがって。九条のくせに。
「みんなにいい顔するのってすげぇ疲れると思うんだよ。だから、俺の前では気を遣わなくていいように、先生にとってそういう存在になれるように、俺頑張るから」
「…頑張るって、具体的に?」
「え…っと、強い男になる…とか」
なんだそれは。お前が屈強な男になったところで何も変わらないし、やめてくれ。
ガキ一人にこんなこと言われてしまうなんて、俺も弱くなったものだ。以前の俺が見たら憤慨するに違いない。誰に憤慨するのかって、それはもちろん俺自身にだ。
「…ふ、はは…っ」
ハンドルを握ったまま、俺は笑った。
「なに笑ってんだよ」
「お前が生意気なこと言うからだろ」
「生意気ってなんだよ!俺は本気で…」
わかってる。
九条は今、ずっと欲しかったものを手に入れたばかりだ。自分をちゃんと見てくれる人。家も、兄姉も関係ない。自分個人に本気で向き合ってくれる人。
そういう意味で、九条にとって俺は特別な存在だ。だから俺にとっても自分が特別な存在であってほしいと、そうあるためにはどうすればいいのかを、必死に考えているのだろう。
俺の前では気を遣わなくていいよだなんて言ったのは、俺と対等になろうとして懸命に背伸びしているからだ。その姿がおかしくて仕方なかった。
「まぁ好きなようにやれよ。危なくないように傍で見ててやるから」
ひとしきり笑ったあと、俺はそう言った。九条が不機嫌そうに眉を釣り上げる。
「ガキ扱いすんな!」
「してねぇよ」
「え」
赤信号で止まった瞬間、助手席に座る九条の右手を握り自らの口元に手繰り寄せた。
「傍にいてやるって言ってるんだ」
「…!!」
その手に口付けてそう言うと、みるみるうちに九条の顔が赤く染まる。と同時に信号が変わったので、握った手を離し、また目的地である駅の方へ車を走らせた。
「せ、せんせぇ…あの」
「もう着く。そのみっともない顔をさっさと戻せ」
九条はぶんぶんとすごい勢いで首を横に振る。
「いやだ…」
「は?」
「ま、まだ帰りたくない」
――出た。いつもの駄々っ子だ。
「…お前、この状況においてその台詞がどういう意味をもつのか、わかってて言ってるのか?」
「へ…?意味…?」
「…」
目の前にはもう駅が見えている。俺はロータリーの端に車を滑り込ませると、シートベルトを外し、周囲を確認した。
そして。
「…っ」
奴の後頭部を掴んで引き寄せ、触れるだけのキスをする。
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