▼ 02
顔を背けようとしてみても、彼の唇がすぐにそれを追っかけてきます。爽やかな朝に似つかわしくない水音が耳に響き、私は情けなくも泣きそうになっていました。
「っあ…坊ちゃ、ふ…」
「伊原…」
「んっ」
下唇を艶めかしく舐められ、変な声が漏れてしまいます。坊ちゃんはそれを可愛いと言いました。もうすぐ30になろうかという男の声など、ちっとも可愛くなんかありません。彼は頭がおかしいのでしょうか。
キスの余韻でくらくらする頭に、彼の声が直接響いてきます。
「伊原、僕とセックスしてくれ」
ぴしり。私は固まりました。それはもう石の如く。
「…はい?」
「駄目だ。もう無理なんだ。我慢なんてできない」
「ひっ…!な…お、おしつけないでください…!」
腰を強く強く押し付けられ、嫌でもその下半身の昂りを感じ取ります。坊ちゃんははぁはぁと息を荒げ、私の顔を両手で掴みました。怖いです。
「お前を抱く夢を見た。夢精した」
「むっ…」
「しかも今日だけの話じゃない。もうずっとだ」
「そ、それは…気づきませんでした…替えの下着を用意して…」
「いい。そんなものはいらない。僕が欲しいのはお前だ」
「とうとう頭がおかしくなってしまわれたのですか?」
全く持って意味が分かりません。これ程までに理解しがたい言語があるかと自問自答しました。まるで外国語…いや、宇宙語を聞かされているような気分です。
「何度も何度も何度も、夢の中で僕はお前とセックスをする」
「はぁ…それはかなり重症ですね…」
我ながら見当違いな返事だとは思いましたが、混乱しているので仕方がありません。
「軽蔑するか?」
「いえ軽蔑というか…」
同情と憐憫というか…。何が楽しくて男を抱く夢など。どうせなら美女の方がいいでしょうに。
「あ、それで私の顔を見たくないと仰られたのですね?」
「そうだ。さすがの僕もお前に対して罪悪感を…」
「では、私が何かをしでかしたわけではないと」
「勿論」
「学校でいじめられているわけでも、体調不良でもないんですね?」
「違うな」
「そうですか。良かった」
坊ちゃんに何かあっては、私は旦那様に顔向けできません。彼は大事な大事な預かりものなのです。何よりも優先させるべき宝物なのです。
ほっと胸を撫で下ろしていると、坊ちゃんが再び顔を近づけてきました。それがキスだと分かった瞬間、咄嗟に彼の頬を叩きます。
「何するんだ」
「早く学校へ行く準備をしてください」
「休むと言っただろう」
「変な夢を見たくらいで休むなんて、駄目ですよ」
宥めるような口調でそう言うと、彼は何故か目を剥いて怒り始めました。
「お前!僕が今何を話しているかちっとも分かっていないだろう!」
「え、だから…」
「好きだと言っているんだ!」
「えっ」
好き。
坊ちゃんが私を、好き。
「そんなに改まらなくても…知っていますよ。ありがとうございます」
彼がまだ幼い頃にも何度か言われたことがあります。それほどまでに私を慕ってくださっているとは。
なんだか無性に嬉しくなって、笑いながら腕を伸ばしてよしよしと頭を撫でて差し上げました。坊ちゃんが獣のような唸り声をあげます。
「違う!!」
「そんなに怒らないでください。何が気に入らないのです」
「ライクじゃない!!!!ラブだ!!!!」
「えっ」
「僕はお前が好きなんだ!セックスしたいんだ!もう我慢できないんだ!」
「ひゃあ!」
いきなり抱きかかえられました。身体が宙に浮いたかと思うと、大きなベッドの上に転がされます。
「あの、待っ…靴が」
「そんなものはいい」
よくありません。このままでは坊ちゃんのベッドを汚してしまいます。慌てて靴を脱ごうとするも、強い力で上から押さえつけられました。
「伊原、好きだ」
今まで見たことも無いような表情を浮かべる彼に、息を飲みます。
「このままただ傍にいてもらうだけじゃ駄目なんだ。お前の全てを僕のものにしたい。誰にも渡したくない」
「わ、私はもう、坊ちゃんのもので…」
「そういう意味じゃないって、分かってるだろう」
「あっ」
首筋に這う彼の唇。抵抗しようにも両手をシーツに縫いとめられているのでどうにもなりません。
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