▼ 01
おはようございます。私、伊原と申します。
西園寺家に仕える執事である私の朝は、まず坊ちゃんを起こすことから始まります。
始まるはず、なのですが。
「坊ちゃん、鍵を開けてください」
「嫌だ」
「一体どうしたっていうのです」
珍しく早起きをしていたかと思えば、何故か内側から鍵をかけて部屋に閉じこもっている坊ちゃん。何度呼びかけても嫌だ嫌だと言うばかりで、ちっともこちらの話に耳を傾けてくれません。
彼のお世話係になって随分と時が経ちますが、こんな様子は初めて見ました。
「遅刻してしまいますよ」
「今日は休む」
はっ。坊ちゃんはついこの間高校生になったばかり。まさか学校でいじめにあったり、嫌がらせを受けていたり…いや、それはありえません。そもそも彼の通っている学校は中高一貫ですから、今までと極端に環境が変化したわけではないはずです。
他に考えられる原因と言えば…体調不良でしょうか。でもそれならば頑なに私を拒む必要はありませんし…。
「とにかくここを開けてください」
「ほっといてくれ」
「坊ちゃん」
「今はお前の顔を見たくない」
「…私、何かお気に障ることを」
「…」
とうとう返事すらしてくれなくなってしまいました。
どうやら私は自分では気が付かないうちに彼を怒らせてしまったようです。一体何がいけなかったのでしょう。昨晩の夕食で無理矢理グリンピースを食べさせたことでしょうか。それとも新調したパジャマがお気に召さなかったとか。
「…分かりました。では、他の者を来させますから」
「…」
「申し訳ありませんでした」
考えても考えてもそれらしい理由が見つかりません。話す声も自然と暗くなってしまいます。
しゅんと肩を落としてその場を去ろうとすると、少しだけドアが開きました。細い隙間から彼の綺麗な瞳が覗きます。
「!?」
ぐい、と腕を引かれました。驚く間もなく、私の身体は坊ちゃんの腕の中にいました。何が何だか分かりません。
「あの、坊ちゃん…?」
「違う。怒っているわけじゃない」
「は、はい」
痛みを感じるほどの強さで抱きすくめられます。坊ちゃんはぐりぐりと私の肩に額を押し付け、何度も何度も私の名前を口にしました。
頭の中は疑問符でいっぱいです。顔も見たくないと言っておきながら、何故。
「お前は今いくつだ」
「えぇと…今年で28になりますが…」
「僕は16になる」
「存じております」
当たり前です。私は彼のことなら何でも知っています。血液型、身長、体重、好きな食べ物嫌いな食べ物はおろか、些細な癖や足音まで。それは私にとって特別なことではありません。むしろ執事としての常識なのです。
しかしまぁいくら考えてみても、今この場における坊ちゃんの行動の意味はさっぱり理解できないのですが。
「お前がうちに来たとき、僕はまだ6歳だった」
「はい。そうですね」
「これからも僕に仕える覚悟はあるか」
「勿論です」
どうしてそんなことを聞くのですか、と尋ねます。彼は少しだけ身を離し、目を細めてから呟きました。
「…では、こんなことをしても?」
「こんなこととは一体な…」
視界が彼の綺麗な顔でいっぱいになります。伏せられた睫毛の先まで見えるほどです。むにむにとした不思議な柔らかい感触が唇に感じられました。…くちびる?
「ん、んむ…っ」
状況を理解した瞬間、全身から汗がどっと噴き出します。とにかく抜け出さなくてはと必死に彼の胸を突っぱねますが、びくともしません。いつの間にこんなに力が強くなってしまわれたのでしょうか。
「伊原、逃げるな」
逃げるなと言われたって、訳が分かりません。
「僕を拒絶するな」
拒絶ではありません。混乱しているのです。
「坊ちゃん、あの」
「伊原」
「や、やだ…やめてくださ…」
話をする隙すら与えてもらえず、二度目の口付け。しかも今度は深い方です。どこでこんなキスの仕方を覚えてきたんですか、と心の中で詰問しました。
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