▼ 05
坊ちゃんのお傍に居られなくなるくらいなら、死んだ方がマシです。彼こそが私の生き甲斐なのに、離れるなんて耐えられるはずがありません。きっとさみしくて死んでしまいます。さみ死です。
それなのに、この分からず屋は。
「い、伊原、泣くな」
「泣きたくて泣いてるわけじゃありません!」
「お前がもし執事を辞めさせられるようなことがあったら、僕は西園寺の名を捨ててお前と生きることを選ぶから」
もっと駄目です。私なんかのために、彼が何かを捨てることなどあってはなりません。
どうして分かってくれないでしょう。ぶわっと洪水のように涙が溢れてきました。
「何故更に泣く!?」
「ぼ、ぼっちゃんの、ばか!あほ!ミジンコ以下の単細胞!」
「うっ、そうやって罵られるのは嬉しいが…とりあえず涙を拭きなさい」
「いや!触らないで!やです!」
「伊原!僕を拒むとは何事だ!」
「坊ちゃんなんか、坊ちゃんなんか…全性欲が無くなって悟りの境地に至ってしまえばいいのに!」
「それは困る!!!お前を抱けなくなるくらいなら、死んだ方がマシだ!!!」
「ははははっ!」
ぴたり。
突然響いた笑い声に、私も坊ちゃんも動きを止めます。
「あぁ、おかしくって涙が出る。お前たちは漫才でもやっているのか?」
智様が腹を抱えてひいひい言っていました。本当に涙が出たらしく、指で目尻を拭っています。
「伊原」
「は、はい」
「お前は賢い。仕事も申し分ない程よくやってくれている。だが、一つだけ至らない点がある」
「…何でしょう…?」
「お前と望が恋仲であるのが周知の事実だ、ということに気が付いていない点だよ」
えっ。
「毎晩毎晩あんなに情事の声を聞かされて、気が付かないと思っていたのか?」
「えっ、えっ、えっ…!?」
「僕は勿論のこと、お前と同じく屋敷で働く奴らも気が付いている。あぁ、当然父もね」
「えぇぇぇぇ…っ!?」
そんな。なんてこと。
ムンクの叫びよろしく、私は両頬に手をあてて声を上げました。
じゃあ私が毎朝腰の痛みをひた隠しにして、爽やかに「おはようございます皆さん」などとほざいている間も、皆はそれを生ぬるい目で見守ってくれていたのでしょうか。
坊ちゃんにつけられた情事の痕を隠すために、シャツのボタンとネクタイをギチギチに締め上げていた時も、全部分かった上で何も言わないでいてくれたのでしょうか。
「うう…」
それでは私が馬鹿みたいじゃありませんか。
感謝すればいいのか恥ずかしがればいいのか、分からなくなります。
それに、旦那様にまで筒抜けだったとは!
「…合わせる顔がございません…」
彼の大事な息子が、私のせいで道を踏み外してしまったのです。どうやってお詫びすればいいのでしょう。
「せ、切腹を…切腹をしなければ!」
ぷるぷる震えながら青ざめる私を見て、智様はまた笑いました。
「心配するな。何のために僕がいると思っている。僕は西園寺家の長男だぞ」
「え…」
「家のことは心配しなくていいと言っているんだ。弟に政略結婚させる程僕は頼りない男ではない。初めから望に権力を握らせるつもりもなかったしな」
「…智様…」
感動して胸がいっぱいになりました。やはり智様は立派なお方です。さすがです。惚れてしまいそうです。
「ふん、何を偉そうに。貴様に言われなくともそんなことは分かっている。なぁ伊原」
「智様、私、貴方になんとお礼を申せばいいのか…」
「いいんだよ。お前には苦労をかけてばかりだからな。父も目をつぶるつもりでいるみたいだし、安心しろ」
「おい!僕を無視するな!」
「坊ちゃん、うるさいです」
大事なお話をしているので少々黙っていただけませんか。
「だからお前は、存分に幸せになりなさい」
ふわりと優しい笑みを向けられて、私はまた瞳が潤んでいくのを感じていました。
「…はい」
嬉しいです。私、幸せです。西園寺の執事で良かった。ありがとうございます…智様、旦那様。
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