「…ななこさん、」
億泰くんが泣きそうな顔をしている。
「行かねーでくれよォ…」なんて捨てられた犬みたいな瞳がこちらを向いた。
*****
私はSPW財団の人間で、資料で見た「虹村家」のことが気になったのがきっかけで、たまに家事を手伝いに来ている。
今日は疲れていたらしい億泰くんが、私が洗い物をしている最中に寝こけてしまった。
「億泰くん、起きて。…私、帰るね?」
勝手に帰るのはいかがなものか、とか、億泰くんが風邪を引いたら困るな、とか思って、眠る彼を揺り起こした。そうして寝ぼけた億泰くんに、今、縋られている次第である。
「…ななこさん、」
大きな手が私の服を引く。まるで幼子みたいな視線は、まだ寝ぼけているのだろう、ぼんやりと虚ろに揺れる。
「…どうしたの、」
しゃがみこんで彼に近付き、その髪をそっと撫でれば、小さな黒目がようやっと私を捉えた。
「…あ、すんません…なんでもねー…寝ぼけちまった」
恥ずかしそうに逸らされた視線が、なんだか居心地悪くて、曖昧な笑みを零しながら、「お布団行こっか」と彼の背を撫でた。
「…悪ィなァ、なーんかウトウトしちまってよォ」
億泰くんは誤魔化すような笑顔で「玄関まで送るぜェ」と立ち上がり、眠気を覚ますように頭をブンブンと振った。
「…眠るまで、いようか?」
「…えっ、」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で絶句する億泰くんを見て、あれ、もしかしてマズかったかな、なんて思う。まぁ言ってしまったものは取り返せないんだけど。
「…いーのか、?」
「うん、鍵くれればポストに落として帰るから」
「…オメーさえ良ければ…別に泊まっても、」
布団なら客間にあるから、と億泰くんは言って、こちらを窺うように視線を投げかけた。彼に特別な感情はないとはいえ泊まるのはいかがなものだろうか、と思ったんだけど、むしろ断った方が気にしてるみたいで気まずいかな、とかなんか色々と悩んでしまう。
「…やっぱダメか?」
「えっ、いや…ダメってわけじゃ…」
捨てられた犬みたいな顔と、彼の家庭事情を見てしまった私には、断ることはできなかった。ダメじゃない、という私の答えを聞いた億泰くんは、心底嬉しそうに「マジか!ありがとなァ」と笑った。それがなんだか子供みたいに見えて、なんだか胸がきゅうっとなる。まだ高校生だし、心細い日だってあるよね。
「…あ、でも着替えとかねーなァ…仗助じゃねーから俺のじゃダメだし…」
兄貴のでもダメだもんなぁ、なんて困った顔をしている。なんだかんだで気を遣ってもらえるのは嬉しい。
「大丈夫だよ、気にしなくて。…明日帰って着替えればいいし」
「なんか悪ィな…」
そう言いながらも億泰くんはどこか嬉しそうに頭を掻いた。
*****
「…おやすみ」
「……おう」
なんだか風邪の子供を看病しているみたいだなと思いつつ、ベッドに潜った億泰くんの隣に腰を下ろす。億泰くんは目を閉じて、ぽつりと言葉を零した。
「…ななこさんの手は、あったけーなァ」
なんかすげー、安心する。そう告げた声は、普段の億泰くんからは想像し難い静けさだ。
「…眠るまでいるから。大丈夫だよ」
「…おれ、母親とかあんま覚えてねーけど、こんな感じなのかなって」
ぽんぽん、と背を叩く私に億泰くんは言った。それから少し黙って、また小さな声。
「…夜んなると、たまにだけど…なんつーか…怖いときあんだよ」
兄貴もいねーし、俺どーすんだろって、と、まるで何か懺悔でもするみたいな声が、静かな夜の帳を揺らす。大きな身体を丸めて、この広い家で眠る億泰くんを思ったら、なんだか胸が苦しい。お父さんと猫草がいるとはいえ、実質一人みたいなもんだよな…。彼の孤独を思うと、返す言葉が見つからない。
億泰くんは瞳を閉じたまま、ぽつりぽつりと小さな言葉を零していく。
「…ななこさん来てくれっからよォ…すげー助かってんだ…俺…」
余程眠いのだろうか、やけに間延びした声は柔らかな吐息に溶けて変わった。少ししてそれは規則的な寝息になる。億泰くん、とそっと呼んでも返事がないことを確認して部屋を出る。
おせっかいでも役に立ってるのかなって嬉しさと、自分の軽い気持ちは随分と重大なことだったんだなって恐れが、静かな家を満たしている気がした。他人の家に関わることに、知人の、主に私より年上の人達が難色を示した理由がわかった。確かにこれは、明日気軽な気持ちでやめていいもんではないんだな、と。まぁ別に、やめるつもりもないけど。
*****
ジュージューとフライパンに油の爆ぜる音と、いい匂いで目が覚めた。ぱちくりと瞬きをして、ここが自分の家であることを確認する。台所に立つのは俺しかいねーのに、なんで、と頭にクエスチョンマークを浮かべながら匂いにつられるように台所へ向かう。
「あ、おはよう億泰くん」
可愛らしい笑顔のななこさんが、ちょうど良かった、なんて声を上げた。なんでいるんだ、俺なんかしたっけ? なんて目を白黒させながら彼女を見れば、ななこさんはどうしたの? と小首を傾げた。
「いや、…なんでいるんスか…」
ぽかんとした顔でそう言えば、ななこさんはぱちくりと瞬きをして何か言いかけ、それからふんわりと笑った。
「昨日、億泰くん寝ちゃったから」
そう言われて、昨日のことを思い出す。そういやどうしても眠くってウトウトしてたらななこさんが、
「…ッ、おれ、なんかヘンなこと…しました…?」
そういやァなんか、やけに安心してあったかく眠れたな、とか、この細い手首を掴んだような気がするな、とか、断片的にぼんやりと記憶が浮かんでくる。ななこさんが昨日と同じ服でここにいるってことは、もしかして、もしかしちまったりするんだろーか。
寝ぼけてうっかり「好きだ」なんて言っちまったりしてたら、俺はどーしたらいーんだよォ。
「してないよ、だからそんな顔しなくて大丈夫」
ななこさんは柔らかな笑みを零し、ごはんできたよ、とフライパンの中身を皿に移した。
普段とあまり変わらない所作に安心しつつも、なんだかななこさんがいつもより優しいような気がする。ホント、俺なんか変なこと言っちまったんじゃあねーかな。
「…ホントに? なんも変なこと言ってねースか?」
「言ってないってば、…っていうか変なことってなぁに?」
何をそんなに気にしてんの、とくすくす笑うななこさんは、やっぱり可愛い。
「そりゃあよォー、好きだとか、そーいう…」
まあるい目がぱちくりと瞬くのを見て、ハッと口元を押さえる。しまった、と思ったところですでに遅く、ななこさんは出来たての目玉焼きの乗った皿を持ったまんま固まっている。さっきまでの柔らかな朝の空気はどこへ行ったのか、と思えるほど、息が苦しい。
「…えっと、」
ななこさんは戸惑いながらも、ご飯にしよっか、なんて努めて普段どおりに笑った。
言っちまったときはしまったと思ったけど、これはもしかしてこのまま誤魔化されちまうんだろうか、と思ったらそれはそれで嫌な気がして、俺はもう一度ななこさんに向けて言葉を発した。
「俺、アンタのこと好きっス」
「…それは、どういう意味で、?」
「…どーいうって、…なんつーかなぁー、一緒にいると幸せだし、居てくれるとすげー安心すんだよ」
別にシタゴコロってやつはゼロじゃあないけど、今はそれより、ななこさんがいてくれるのが嬉しい。包み隠さずそう言えば、ななこさんは「ありがとう」と笑って、俺に目玉焼きの乗った皿を寄越した。
「…じゃあ今度は、着替え持ってこなきゃね」
「バッ…からかうんじゃあねーよ!」
シタゴコロあるっつったろ!と声をあげれば、ななこさんはいたずらっ子みたいな顔で笑って言った。
「私、億泰くんのこと弟みたいに思ってたけど、さっきの告白聞いたら…考えてもいいかなって思ったんだけど」
「…ッ、マジかよ!?」
びっくりして渡された皿を落っことしそうになる。ななこさんはそれを見て「億泰くんってホントに可愛い」なんて声を上げて笑った。
「可愛いってどーいうことだよォ〜」
「そのままの意味だよ。…昨日も可愛かった」
「だから!昨日俺何したんだって!」
「えー…ナイショ」
20170823
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bkm