夏は夕暮れ、なんて昔習ったような気がする。
熱の籠った地面が、夕陽を写し取った風に撫でられて僅かに冷めていく。耳にはひぐらしの声が張り付いて、残響は水中みたいにぼんやりと脳に響いた。溜息と同じだけの水分を含んだ外気を吸い込めば、草と夜の匂いが喉元に絡みつく。
なかなか進まない足は、まるで悪い夢の中みたいだ。西陽が私の進行を邪魔するように、今日の残滓を打ち付ける。命を歌う蝉の声に似た眩しさが、早くなくなればいいのに。
「こんにちはー。あれ、こんばんは、かな」
絡み付いて足を引くなにかを振り切るように声を上げると、のんびりとした声が玄関に向かってくる。夕闇に囚われずに帰ってこられたと、思わず安堵の溜息が零れた。
「おー、今日は早ェなァ!」
「…そうかな。」
普段と変わらないよ、と時計を見ながら告げれば、億泰くんは首を傾げ、「そうかァ?」なんて可愛らしく笑った。
買い物袋を指差しながら「ななこさん買い物してくるともっと遅ェじゃん」と言われれた。それは確かにそうかもしれない。
「今日は買い物とはちょっと違うんだよね」
そう返せば億泰くんは、そういや昨日も買い物してたもんなァ、と私の手元を覗き込み、ビニールに入った茄子と胡瓜を見て「なに、ソーメンにでもすんの?」なんて笑った。
「…ううん、これはねぇ」
ビニールをテーブルに置いて、胡瓜を取り出す。一緒に入れていた割り箸をぱきりと割り、無造作に突き刺した。一本、二本、三本、四本。
「…形兆くんはさぁ、馬に乗るの似合いそうだよね。」
「…乗れる気しかしねーな。」
乗ってんのなんて見たことねーけど、兄貴なんでもできたから、なんて感心したように返されて思わず吹き出した。
それから億泰くんは、帰ってきたら怒られそーだな、と部屋の隅に放られた学生カバンを一瞥する。どうやら今日も宿題は進まなかったらしい。今度の休みに見てあげようか、と言えば「マジかよ!」と一瞬喜んで、ハッとしたように「でもそれじゃあ遊びに行けねーよなァ…」と溜息をついた。
「どうせお盆だからどこ行っても混んでるし、形兆くん戻ってきてるだろうからおうちにいよう」
「クーラーつけてのんびりするのもいーかもな」
「宿題終わってから言いなさいよ」
軽口を叩いているのに、雰囲気はどこか重苦しい。それはさっき私が作ったこの馬のせいに違いない。
「それ、俺も作ろ。」
億泰くんは宿題の話を誤魔化すようにそう言うと、無骨な指先で割り箸を掴み上げ勢い良く割った。わりかし不器用な彼は長さを揃えられなかったらしく、ぶすくれた顔で割った箸を眺め、片方を少しばかりスタンドで削り取る。
「…億泰くんのスタンド、便利ね」
笑いながら言えば、「うるせーよ、」なんて気まずそうな笑顔が向けられる。
「茄子はさぁ、作りたいものがあったの」
形が良いとは言えない茄子を拾い上げる。先が丸くなった、おたまじゃくしみたいな形の真ん中に割り箸を刺す。それから破ったノートの端を十字に切り出し、割り箸に貼り付けた。
「…なんだよそれ、プロペラ?」
「お、正解だよ億泰くん。」
いや形兆くんはさぁ、牛より馬より、ヘリで来そうじゃない? なんて言いながら反対側にも短い割り箸を刺し、茄子のアパッチを完成させる。
「よく出来てんなァー」
億泰くんは感心したような声を上げ、でもあれだ、仏壇とかねーぞ? なんて辺りを見回した。そう言えばそうだ。でもまぁ、形兆くんならなんとかするだろ、なんて無責任なことを考えた。
今だってこんな茄子のアパッチなんか見たら「てめーらはよォー、日本のしきたりっつーもんがわかってねーのか」とお説教を喰らいそうな気がしてならない。…頭の中に響いた形兆くんの声は、果たして本人に似ているのだろうか。確認する術はもうないんだって思ったら、やっぱり悲しい。
「…形兆くん…帰ってこないかな」
「ななこさんよォ…無茶言うなよ」
俺がいんだからいーだろ、なんて髪を撫でられた。億泰くんは優しい。彼だって悲しいだろうに、私が悲しそうにするときは決してそんな素振りを見せない。
「…億泰くん、私が死んだら、もうちょっとカッコいい馬に乗せてね」
億泰くんが作ったなんともバランスの悪い馬を指差して言えば、彼はやけに真面目な顔で私を見つめ、言葉を紡いだ。
「俺ァこんな馬しか作れねーから、乗りたくなけりゃ俺より生きてろよ」
俺が働くようになったら、もっとちゃんとした…本物の馬に乗せてやるから、なんてまるで将来を誓うみたいに告げられて、心が揺れた。
「…白馬に乗った王子様が、迎えに来てくれるってやつ?」
からかうように言うと、億泰くんは頬を染めながら「俺そーいうキャラじゃあねーよ」なんて情けない声を上げた。
「…別に億泰くんだなんて言ってないけど」
「マジかよそれけっこー傷付くぜェー…」
「…ねぇそれ、私の王子様になりたいってこと?」
20170804
素敵なリクエストありがとうございました!
夏休みの開放感とか楽しさ皆無ですみません…
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bkm