「君は、綺麗な手をしているね。」
たしか、最初に言われたのはそんな台詞だったと記憶している。
そして私は、変わったネクタイのひとだなぁと思って、まさかこの人が殺人鬼だなんて思ってもみなかった。
「…わたしは、ころされるんですかねぇ。」
普通に言ったつもりだったのだけど、なんだか間延びした声で、殺されるってのに呑気だなあと自分で苦笑してしまう。
彼は「泣き叫んだりはしないのかい?」と不思議そうな瞳を向けて、私が頷くのを見ると、殺そうとしていた手を止めた。
「…殺さないんですか。」
「…君の手は、腐らせるには勿体無い。」
そう言って、彼は私の手を取り口付けた。
特に不快感はなく、むしろ、この人の手によって私のくだらない人生は終わるのかもしれないと、心ときめいてしまったのだ。困ったことに。
「あぁ、すまない。わたしは吉良吉影。…君は。」
「…ななこ、です。」
私が黙って見つめていると、彼は柔らかく微笑んで、当然のように私の手を取る。
私も当然のように微笑んで、そうして愛の逃避行を約束していたかのように歩き出す。
「さぁ、帰って来たよ。」
吉良さんは言う。けれど彼の視線は私の手元に注がれていたので、あぁ、これは私に対しての言葉ではないのだな…と、今迄の経験から察した私は、返事をすることなく手を引かれるままに車から降りた。
「…足元に気をつけて。」
玄関を上がるときに彼は一言だけ『私』に声をかけたので、
「ありがとう。お邪魔します。」とだけ返して靴を脱いだ。
「君は、本当に綺麗だ。」
吉良さんは私の手に話しかける。
『私』が言葉で返すのは間違っている気がして、私は吉良さんの頬にそっと手を当てた。
彼は恍惚の表情で私の手に頬擦りをして、それから慈しむように指先にそっと口付けた。
*****
そうして私が私の手の付属物になって、一週間ほど経った。
吉良さんは私の手をとても大切にしてくれたし、私もそれに伴って何不自由ない毎日。
ある時、吉良さんはふと『私』を思い出したようで向かい合って撫でていた手はそのままに、視線を『私』に向けた。
「…放っておいたようですまないね。…ななこ。」
「…いえ、慣れてますから。」
思わず苦笑してしまう。自宅で親の顔色を伺いながら空気のように息を潜めているより、今の暮らしの方が幸せだなんて。
「…わたしの好きにさせてくれてありがとう。君にも、興味が湧いてきたよ。」
そう言って、吉良さんは初めて『私』に触れた。
吉良さんの手は冷たくて、熱の籠った頬に心地よかった。吉良さんが私の手にしていたようにそっと頬擦りをすれば、彼は擽ったそうに笑って、髪を撫でてくれた。
そうして少しずつお互いのことを話して、私は緩やかな時に身を任せた。
吉良さんは「静かに暮らしたい」というのが口癖で、私は観葉植物のように彼の側にいるのが常となった。
吉良さんに手折られるまで、緩やかに朽ちていく感覚。
吉良さんは優しくて大抵のことはしてくれたし、私がすることといったら、留守番くらいだった。手が汚れるからと、料理も掃除もさせてくれなかった。綿の手袋をはめて吉良さんの部屋の本を読んで、彼の帰りを待つ毎日。
「…ただいま。ななこ。」
「おかえりなさい。」
吉良さんの声を聞くと、手袋を外して彼を出迎えに行く。平穏で、幸せな日々。
私は、吉良さんが与えてくれたこの平穏がたまらなく愛しかった。
「吉良さん、ねぇ吉良さん。」
最初の頃は私の手に向かって返事していた吉良さんも、最近は私を見つめてくれるようになった。
「なんだいななこ。」
「…いつもありがとうございます。」
この幸せな毎日へのお礼を考えたのだけど、何が喜ぶのかわからなくて、とりあえず彼の大好きな私の手で、その頬を、髪を撫でた。
吉良さんは少しばかり驚いた様子で、それから私の手を取った。
「…わたしを誘惑しているのかい?…いけない子だ。」
瞳に劣情の色を混ぜて、吉良さんは甘く囁く。そのまま手を引かれて、吉良さんの布団にころんと転がされた。
「…吉良さん。」
「…ななこの手は、本当に綺麗だ。」
指を絡ませて、吉良さんは幸せそうに笑う。
この人は本当に手が好きなんだなと思うと、少しばかり面白い。
返事をするのは野暮な気がして、吉良さんのシャツのボタンに手を掛けた。
「…こら。悪戯は止しなさい。」
ボタンを外しかけた手を捕まえて、吉良さんは指先から舌を這わせていく。
背筋がぞくぞくして、思わず漏れそうになった吐息を噛み殺す。ここでは私は求められていないのだと視線を下ろして吉良さんを見ないようにしていると、彼は私の手を頬に当てながらそっと触れるだけの口付けをくれた。
「…君のことも、少なからず好意的に思っているよ。だから、遠慮することはない。」
わたしに、声を聞かせてごらん?
そう言われて、噛み締めていた唇を解いた。
「…あっ、吉良さ…ん…」
「手だけでは可哀想だからね。」
吉良さんの綺麗な手が、私から服を剥ぎ取っていく。曝け出した素肌に、冷たい指先が這わされる。
「っひぁ…ッん…」
あちこち撫でられて、吉良さんの冷たい指で身体の中を擦られて、声を抑えることなんてできない。ただされるままに言葉にならない喘ぎを零していると、吉良さんは楽しげに唇を歪めながら私に言葉を掛けた。
「…どうして欲しいのか、言ってみなさい。」
意地悪で甘美な言葉。
「殺して」とお願いしても、きっと叶えてくれるに違いないと思えるほどに魅力的。
「…っ、吉良さんので…気持ち良くして…」
甘えるようにそう言えば、彼は私に口付けながら、その冷たい指先からは想像もつかない熱で私を貫いた。
「っや、あ…っあ、ぁ…ッ…」
ぎゅうと吉良さんの背中に爪を立てれば、彼は気持ち良さそうに呻いて、君は本当に魅力的だ、なんて吐息交じりに色っぽく囁く。
「君の手は」ではなく「君は」と言われたことにどうしようもなく幸せな気持ちになって、おかしいのかもしれないけど、それだけで頭の中が真っ白になった。
*****
「大丈夫かい…?」
「…あ、…」
私が気付くと、吉良さんは髪を優しく撫でてくれていて、なんだか恥ずかしい。
「ゆっくり休むといい。わたしはここにいるから。」
そう言ってそっと抱き締める吉良さんの胸元に顔を埋めながら、小さく呟いた。
「…好きです。」
ぎゅうと力が籠った腕で、私の言葉が届いたことを知る。
どうか私の手が、彼の手と赤い糸で結ばれていますようにと祈りながら、私はゆっくり瞳を閉じた。
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bkm