恋人が、できた。
お陰で俺はここんとこ毎日幸せで、しょっちゅうななこさんが苦笑いしている。ななこさんは大人なせいか、俺が初めての恋人に浮き足立つ気持ちがわかんねーらしい。こんなに幸せなのに、勿体無い。
そう言ったら、視線を逸らして頬を染めながら小さく「…そりゃあ私だって幸せだよ」なんて呟くから、もうなんつーか胸がぐわっと熱くなって、思わずその華奢な身体を抱きしめた。
まぁそんなこんなで、上手くやってるし、ななこさんがうちに来るだけじゃあなくて、俺がななこさんちにお邪魔する日もたまにある。残業のときなんかは、俺んちに来ると遅くなっちまうから、俺が作ったオカズを持ってななこさんちに行く。今日もそんな感じだ。
「…ちーっス…って、帰ってねーの?」
合鍵(これもめちゃくちゃ嬉しかったんだけど、あんまり喜んでたらななこさんに「はしゃぎすぎて無くさないでよね」と念を押された。)で開けたドアの向こうはしんと暗くて、めずらしーな、なんて思いつつ部屋の電気をつける。冷えた部屋に帰ってくんのは可哀想だから、暖房のスイッチを弱めにセットした。キッチンに持ってきた荷物を置いてしまうと、特にすることはない。ななこさんいないとつまんねーなァ、なんて思いながらテレビのリモコンを弄んでいると、ドアの開く音がした。
「おー、おかえりななこさん!」
「あ、来てたんだおくやすくん。…えへへ、ただいま。」
真っ赤な顔でへにゃりと笑うななこさんは、どう見たって普段と様子が違う。靴をぶん投げてよろよろと家に上がる足元は、めちゃくちゃ危なっかしい。
「…酒飲んでんのかよ。」
「のんで悪いかー!」
「いや悪かァねーけどよォー…」
ななこさんは俺にぶつかりながらも部屋を目指す。どか、と音を立てて落とされた鞄を拾って、よたよたと進む彼女の背を追った。
あろうことかななこさんは部屋の手前で向きを変え、おもむろに冷蔵庫に手を突っ込んだ。外の寒さで赤くなった手が冷蔵庫から出ると、そこには銀色の缶が握られていて。
「オイ、それビールじゃあねーかよ!」
まだ飲むのかァ!?と驚きの声を上げる俺を睨みつけて、ななこさんは叫んだ。
「飲まなきゃやってらんないの!」
プシュ、と軽快な音を立ててプルを引き、一気に煽る。ごく、と白い喉が上下して、唇の端を泡混じりの液体が伝うのがなんだかすげーエロい。
「どーしたんだよォー…」
いやエロいとか思ってる場合じゃあねーよ、と、あまりにバカな思考回路にもななこさんの様子にも困惑しつつ、そう声を掛ける。
ななこさんは勢い良く缶をテーブルに置くと、「おくやすくぅん、きいてくれる?」なんて舌っ足らずな声を出して俺の胸元に擦り寄ってきた。俺こんなななこさん見たことねーよ!
「聞いてやる、けどよォ…もーちっと離れろよ。」
「…やだ。」
ぎゅう、と細い腕が俺の胴体を締め付ける。柔らかな身体がぴったりくっついて、ひどく熱い。
「…マジでどうしたんだよ。」
ホント俺どーしたらいいんだ。普段のしっかり者のななこさんはどこ行っちまったんだよ。
抱き締めたいけど、こんな酔ってるしダメなんじゃあねーかとか、もうホントこのまま押し倒しちまおうかとか、水飲ませれば治るかなとか、ぐちゃぐちゃな考えが次々に浮かんでは消えて行く。どれだけ考えたって俺には正解がわからない。
「…仕事で、…しっぱいしたの…」
ふえぇ、と子供みたいな声を上げて、ななこさんは抱き着く力を強くした。普段は頼もしい姿が、今はホント餓鬼みてーにちっこい。
「…それでこんなに酔ってんのかよ…」
一人で飲んだんだろうか。それとも俺の知らない誰かと一緒だったのか。さっきから色んなことを考えすぎて、なんだかよくわかんねーけど、胸の中がモヤモヤする。
「ねぇ、億泰くん…」
やけに湿り気を含んだ声で、ななこさんは俺を呼んだ。その赤く艶めく唇に、視線が絡め取られる。俺が「なんだよ、」と言うよりも早く、ななこさんは「なぐさめて」と濡れた音を零して、その赤い唇で、俺の唇を食んだ。
「…ッちょ、っんン…ッ!」
驚きに開いた唇に、アルコールが進入してくる。ぬるつく何かにしばらく口内を探られてやっと、それがななこさんの舌であることに気付く。気付いたところで、這い回る粘膜からは逃げ出せず、俺はただパニックになるばかりだ。
「…っ、おく、やす…ッ…」
ちゅ、とリップ音を混じらせながら、ななこさんは鼻に抜ける声で俺の名前を呼ぶ。その度に頭の芯がびりびりと痺れた。
「…ッ、ん、やめ、…ろって…」
俺が力を込めたらななこさんに怪我させちまいそうだし、すげー苦しいし、抵抗らしい抵抗もできなかった。こんな、舌突っ込まれて無理矢理掻き回されるキスなんて知らねーから、どうやって息をしていいのかわからない。ななこさんが唇を離すころには、俺は涙目になってた。女子かよ。
「…き、急になにすんだよ!」
びっくりすんだろ!と声を荒げると、ななこさんはびくりと身体を固くして、それからさめざめと泣き出した。
「…ッ、く…」
「ちょ、泣くなよォ…」
俺が抵抗したから、傷付けちまったんだろうか。それとも、職場で怒られたことでも思い出させちまったのか。歯を食いしばって嗚咽をこぼすななこさんを見てると胸が痛くってどーしようもなくって、俺はほとほと困り果てた声で「俺が悪かったって、な?」と何度も謝罪を繰り返した。
「…ほんとに、わるいと思ってる…?」
「お、おう。」
「じゃあキスして。」
ぐす、と鼻をすすってななこさんが言う。俺が意を決して彼女の額に唇を落とすと、彼女はふるふると首を振って「やだ。唇がいい。」なんて。
ああもう心臓がいくつあっても足りねーよななこさん。
「…目、閉じろよ。」
「…ん。」
言われるまま瞳を閉じるななこさん。アイライナーが滲んだ目元はパンダみてーになってるけど、それでもすげー可愛いな、なんて思う。肩を掴んで引き寄せる。唇をくっつけるより先に心臓が飛び出しそうなくらい煩い。
俺も酔ってりゃあ、キスくらい簡単なんだろうか。
「…おくやすくん、痛い…」
「あ、悪ィ…」
緊張しすぎてななこさんの肩を思いっきり掴んじまったらしく、非難の声と共に彼女は瞼を持ち上げる。潤んだ瞳に見つめられたら照れ臭くてこれ以上近づけない。
「…目、閉じろって。」
「…ねぇ、緊張してんの。」
そーいうとこ、すごい可愛いよね。大好き。
耳を疑うような台詞が聞こえて目を丸くする。俺が好きだから、付き合ってくれてんじゃあねーのかよ。
「…はやく、キスして。」
このままキスしなかったら、この人はどこまで俺を求めてくれるのか。そんな好奇心とキスの魅力を天秤に掛けながら、俺はななこさんの唇を見た。
20161123
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bkm