学校帰りに駅前で買い物をした。なんのことはない、いつもの寄り道。
さぁ帰ろうと外に出たら、雨が降っていた。そういえば天気予報は雨だったな、と思い出す。もう夕暮れは大分肌寒い上に、折りたたみ傘のちゃちな骨組みじゃあ不安になるほどの風が吹いていたから、バスで帰ろうと思った。
どうやら考えることはみんな同じだったらしい、と停車しているバスを見て気付く。出発時間まであと数分の車内は人でごった返していて、私はやっぱり歩いて帰るべきかなと少しばかり逡巡した。混んではいるけれどまぁ乗れることは乗れそうだし、みんなそのうち降りるだろう…なんて、甘い目論見で乗ってしまったのが、間違いだったのかもしれない。
触られている。最初は偶然だと思っていたけど、いくら混んでいるとはいえ、こんなに手が当たるものだろうか。この場合声を上げるべきなのか、でも勘違いだったらどうすればいいんだろう。そもそも痴漢なんて漫画の中だけの話だと思ってた。というか普通電車でやるもんじゃあないの!?なんていささかパニックになりながらいろんなことを考える。考えたところで私のお尻を撫でる手が止まるはずもなく、ただ声も出せずに狼狽えるしかできなかった。
ぴんぽん、と降車ボタンの音がして、バスが止まる。早く着けばいいのに、とその音を恨めしく思っていると、「すみません!」と勢いのある、なにやら少し慌てたような声が人混みを掻き分け進んで来た。その声の主は突然私の手を掴むと「来いよ、降りんだろ」と言った。
その言葉に、私にくっついていた手が離れる。それは嬉しかったんだけど、私の降りる場所はもっと先だし、引っ張られる手は痛いしこの状況の意味がわからない。引き摺られるようにバスを降りた私が、手を引く彼の顔をきちんと見たのは、バスのエンジン音が遠ざかる頃だった。
「…お、くやす…くん…」
「…おう、…偶然だな。」
目の前にいたのは隣のクラスの虹村億泰くん。彼はうちのクラスの仗助くんと仲良しだから、よく教室に溶け込んでいて、私も何度か話したことがある。でもなんで。
「…あの、なんで…」
「なんでって…そりゃあ…よォ〜…」
みるみるうちに真っ赤になりながら、視線を逸らして気まずそうに口をパクパクさせている。
「…、助けてくれたの…?」
「ッ、やっぱ触られてたよな!?」
良かった、俺の見間違いじゃねェよな?と念を押すように言われて、私は小さく首を縦に振った。億泰くんは「大丈夫だったか?」と心配そうに私を覗き込む。握られた手から伝わる暖かさに、なぜだかひどく安堵した。
「…億泰くん、…ありがと…」
きちんとお礼を言わなきゃ、と思ったはずなのに、言葉とともに、じわりと涙が溢れた。怖かった、逃げ出したかった。それなのに何もできなくて情けなかった。いろんな気持ちが綯い交ぜになって、絞り出すようにそう言った後に言葉が出てこなくって、涙を隠すみたいに俯いた。
「…な、泣くなよ…大丈夫だから…ッ!っ、あ、手!悪ィ…!」
私を慰めようとしたところで、手を掴みっぱなしだったことを思い出したのか、億泰くんはさらに真っ赤になりながら大慌てで手を離した。ほんのり汗ばんだ指先が、夜風で急に冷えていく。億泰くんはひとしきり慌てたあと、大きく深呼吸を一つして、私に向き直った。
「…災難だったなァ、ななこ。でももう大丈夫だから、泣くんじゃあねーよ…」
困ったような宥めるような、今まで聞いたことのない柔らかな響きでもって、名前を呼ばれる。私の名前を知っていたことに驚いて顔を上げると、億泰くんはびっくりして「どうした?」と眉を下げた。
「…名前、知って…」
「そりゃあ名前くらい知ってんだろー、おめーだって俺の名前知ってるじゃあねーか。」
キョトンとした顔で返される。億泰くんにしたら当たり前なんだろうか。意外に人の名前を覚えるのが得意とか?なんて眺めていると、彼はまた頬を染めながら「あんま見んなよ…なんか恥ずかしいだろ」と視線を逸らした。
「…なんか、色々と意外。」
おっかない不良だと思っていたけど、意外に恥ずかしがりなんだな、とか、そもそもあの人混みで気付いて助けてくれるとか、なんか億泰くんのイメージがひっくり返った感じがする。
「意外ってなんだよ。…でもよォ、元気出たみてーで良かった!」
あっけらかんと笑って、億泰くんは私の隣に並んだ。そうしてぶっきらぼうに「で、おめーんちどこだよ」と問う。
「降ろしちまったし、送ってやるよ。」
恥ずかしいのだろうか、背けた頬が赤い。助けてくれたことといい、本当に優しいんだな、なんて思いながら、彼の変わった襟足を見つめながら答えを返す。
「定禅寺の…サンマートってスーパーの近く。」
「マジかよ!俺んちも近くだぜェ!」
嬉しそうに勢いよく振り向くから、面白くって笑ってしまう。彼は私がどうして笑ってるかなんてわからないから、不思議そうに目をぱちくりさせた。その仕草を見たら、今まで怖いと思っていた三白眼が、なんだか急に可愛らしく見えるから不思議だ。
歩き出そうとした億泰くんは、はたと立ち止まり、「…わりーんだけどよォ〜、俺、傘持ってねーんだわ」とバツが悪そうな顔で頬を掻くもんだから、思わず吹き出した。
「折りたたみ傘で良ければ、一緒に入ろ。」
カバンから傘を出すと、彼は瞳をキラキラさせながら「マジかよォ…相合傘とかホントにいーのか?」なんて呟いている。さっき助けてくれた時とは別人みたいだ。
「…傘、貸せよ。」
「お願いします。」
いささか緊張した面持ちで傘を開く億泰くんに、こっちまで緊張してしまう。小さな折りたたみ傘に大きな億泰くんが入ると、私の入る隙間はないような気がする。これはよっぽどくっつかないと濡れるんじゃあないかな、と思っていたら、不意に抱き寄せられた。
「くっつかねーと濡れるだろーがよォ」
「…ぅわ!あ、ありがと…」
戸惑いつつも億泰くんを見上げると、彼はハッとした表情の後、真っ赤になって手を離した。
「わ、悪ィ!…そーいうつもりじゃなくってよォー」
「この人は咄嗟に手が出るタイプなのか」と、「そーいうつもりってどういうつもりなんだろう」と、同時に思ってしまったのだけれど、その両方に続く言葉はおんなじだった。
「…億泰くんって、なんか可愛いね」
「…バカ言ってんなよ、おめーの方が可愛いだろーが。」
直後、しまった!みたいな顔で口を押さえる億泰くんが本当に可愛くて、私は声をあげて笑った。
20161029
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bkm