「億泰ぅ、帰ろー。」
「あー…ゴメンなななこ、俺ちっと今日は無理かもー。」
放課後、億泰の教室に誘いに行けば、机に座った彼はノートと教科書を前にうんうん唸っていた。
「…勉強?珍しいね。」
「宿題やってかなかったらよォ、終わるまで帰るなって先公が。」
それで大人しく頭を悩ませてしまう彼は、不良みたいな格好をしてるくせに意外と素直だと思う。けれどいかんせん馬鹿なので、素直に机に向かったところでノートが真っ白なことに代わりはない。
「…教えてあげよっか?」
「マジ?助かるぜー、よろしくなななこ!」
「その代わり、帰りにクレープね!」
嬉々として手招きする億泰。私は億泰の前の席の椅子を借りて、勉強を見てあげることにした。
「だからここをXとしたときの解は…」
「…?んー…なんでこーなるんだ?」
「…えっとねぇ…」
うちの学校にも入学試験があったはずなんだけれど、いったい彼はどうやって解いたんだろう。そう訝しんでしまう程、億泰はわかっていなかった。
「…できたァーーー!!」
「…やったー!」
全部終わる頃には6月の長い日さえもとっぷり暮れていて、まっすぐ帰らなきゃ夕飯に間に合わないほどだった。
「俺、職員室に出してくる!ありがとーな、ななこ!」
どたどたと慌ただしく走っていく億泰の背中を見送り、私は安堵の溜息をついた。
ホント、終わって良かった。
「…はー…疲れた…」
大きな伸びを一つして、窓から外を見る。
すっかり暗くなってしまって、大きな窓には教室に佇む自分が映る。耳を澄ましても、昼の喧騒は聞こえない。近づく足音は、きっと億泰だ。
「ななこ、帰ろーぜ!」
それはもう清々しい笑顔で戻ってきた彼は、慌ただしくカバンに筆記用具をしまっていく。
「慌てなくていいよー。」
「遅くなってゴメンな。」
うん、マジ遅くなった。帰りにクレープとか言ってる場合じゃないくらい。と返したいのを堪えて笑う。
「大丈夫。億泰頑張ったもんね。」
「へへ、ななこが教えてくれたからだぜ。」
子供っぽく笑う彼に母性本能が擽られる。
とても頼りになる彼ではあるのだけど、なんだか守ってあげなきゃいけないような気持ちになった。
「…クレープはまたあとでかな。」
「ゴメンな。…ちゃんと家まで送るから。」
申し訳なさそうに落とされた肩をポンと叩く。こちらを向こうとした億泰の頬に一瞬だけ唇をくっつけた。
「…これで勘弁したげる。」
「バッ、お前…教室で!」
真っ赤になって慌てる億泰に、してやったりという笑顔を浮かべてみせる。
たかだかほっぺにキスしたくらいで、しかも慌てる理由が「教室だから」なんて、普段の彼からは想像もつかないだろう。
「え、唇が良かった?」
からかうようにそう言ってやれば、ますます赤くなる頬。
「…教室でなんてすんなよ。」
「部屋でならいいの?」
「そりゃ…そうだろーがよォ…」
照れたように言うから思わず笑ってしまう。
手を繋ぐのも教室じゃダメなんだろうかと思って先に歩き出すと、慌てて追いかけてきた億泰の大きな手が私の手を捕まえる。
「…手、繋ぐのは教室でもいいんだ?」
「…それは!もう帰るから…いーんだよ。」
ぎゅっと握られた手が暖かくて嬉しい。
ふと窓を見ると、だらしなく頬が緩んだ自分が窓に映っていて顔が熱くなる。
恥ずかしくて目を逸らすより先に億泰が教室の電気を消したので、見えたのは一瞬だったけど。
薄暗い廊下も、真っ暗な外も私の表情を隠してくれるから、たまには遅いのもいいか…なんて思って、目の前の大きな背中に向かって呟いた。
「億泰、大好き。」
もう教室は出たし、これくらいは許してもらえるだろうと発した言葉は思いの外きっちりと彼に届いていたらしく、珍しく真剣な声が返ってきた。
「俺も、大好きだぜ。」
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bkm