「…寒いじゃん…」
呟きは闇に消えていく。
緩やかに風が吹くたび、足にも腕にも鳥肌が立つ。
タクシーが私の横を追い抜いて行って、遅れて吹く風に、また鳥肌。
閉め切った部屋は少し蒸し暑かったのに。
Tシャツにショートパンツの部屋着で出てきてしまったことを後悔しても、戻る気にはなれない。
出がけに握りしめた通勤カバンに部屋着の私の姿は、とてもちぐはぐだと思う。
とりあえず、最寄りのコンビニまで。
缶コーヒーを一本買って入り口前の喫煙スペースに座り、タバコに火をつける。財布もタバコも入れっぱなしの通勤カバンは便利だけど、私が会社と家の往復しかしていない証拠。
タバコを片手に、携帯を取り出す。
「…メール、来てんじゃん。」
カエルの声と、コンビニから漏れ聞こえる有線をBGMに、メールを読む。
視線を滑らせるだけで、読み終わる短い文。
『明日休みだけど、なにしてんの?』
あまり返事を返す気にはなれない。こんな気持ちの日に、あの能天気な顔は見たくない。
そう思っているはずなのに、手は返信ボタンを押していた。
『コンビニでタバコ中。』
『どこのだよ。行くから待ってろ。』
深夜になろうというのに、まだ起きてたのかと感心しながら、タバコを吸う。
煙よりは私を温めてくれるはずだと開けた缶コーヒーが甘くて驚く。間違えた、加糖じゃん。ブラックが良かったのに。
店員がさっきから品出しをしているらしく、ベンチに座る私の前を行ったり来たりしている。邪魔な女だと思われてるんだろうなー、なんて、無駄な自意識。
店員がいなくなって少しして、見知った声。
「ななこさん!」
呼ばれて顔を上げる。夜中に迷惑でしょうよ。間抜けヅラめ。
「よぉ億泰。夜中なんだから静かにしなよ。」
息急き切ってやってきた少年に思いっきり煙を吹き掛けてやれば、うえ、とその顔にぴったりの間抜けな声を上げた。
「タバコなんか吸うなよ。身体に悪ィだろ。」
「自分の寝不足を心配した方がいいんじゃない?」
「ななこさんの方が心配だろ、この場合。」
どうしたんだよ、と言いながら彼は私の隣に座る。ただそれだけなのに、あったかい。
「おうちは、いいの?」
「…みんな寝てるぜ。」
彼は薄手の上着を羽織っている。バカでもわかる気温か、と今更ながらこんな格好なのが恥ずかしい。
「夜中に高校生が出歩くのは良くない。」
「バッカ、女の一人歩きよりマシだっての。…寒ィ格好しやがって。」
億泰はそう言うと、上着を私に貸してくれた。今まで億泰が着ていたせいか、めちゃくちゃあったかい。
「…お礼にこれあげる。」
一口しか飲んでいない缶コーヒーを渡す。
まだ暖かいそれを受け取って、彼は言う。
「…ブラックは飲めねーって…あれ、甘いやつじゃん。」
缶を見て不思議そうに私と見比べる。私はブラックしか飲まないと思ってるんだろう。その通りだけど。
あぁ、コイツでもすぐわかるってのに私ときたら。
「…間違えたんだよ。」
「めっずらしー。ななこさんでもそんなことあるんだなぁ…。ん、もしかしてなんか悩んでる…とか?」
バカのくせに他人の感情の機微には意外と敏いんだ、コイツは。
「…そう思うなら、黙って慰めて。」
タバコを消して、最後の煙を吐く。
「…難しいこと言うなよォ…」
困ったように眉を下げて、彼はコーヒーの缶を隣に置く。億泰の身体で見えないけれど、コトリと小さな音が聞こえた。
「何に悩んでんだかわかんねーけど、美味いもん食って、ゆっくり風呂入って寝るんじゃダメなのか…?」
単純な意見に、思わず笑ってしまう。
「馬鹿は単純でいいね…」
でもきっと、つまるところはそれに尽きるんだろう。
生憎、美味しいものを作る気力も、お風呂を洗う気力も、眠る余裕すら残っていないのが問題なだけで。
「…どーしたら、ちっとでもマシになる?」
考えることに疲れたのか、こちらに身体を寄せて問いかけてくる。
その仕草が子供っぽくて、なんだか複雑な気持ちになった。
「…億泰が、キスしてくれたら。」
どうせできないだろうと、半分冗談のつもりで返す。もう半分は、この優しい少年を困らせてやりたいという、ただの意地悪。
「……わ、かった。」
よし、と気合いを入れる声がして、億泰の背筋がぴっと伸びる。
大きな手で肩を掴まれて、向き合う形に。
「…ホントにしてくれるんだ?」
「だってよォ、…俺は…その、ななこさんのこと…好き、だし…」
ななこさんはわかんねーけど…と、自信なさげな声。
不安を振り払うように、語気を強めて続く言葉。
「あ、言っとくけど初めてだから!下手でも文句言うなよな!」
そう言うと、引き寄せられて唇がぶつかる。一瞬だけ柔らかな感触を残して、すぐに離れた。
「…顔が真っ赤。」
「…そりゃ、そーだろー…ななこさんみてえな大人じゃねーし…」
なんだコイツ可愛いじゃないかと思う反面、少し心が痛むのは、口の中のメンソールのせいかもしれない。
彼の最初のキスは、きっともっと甘くあるべきだったのに。
「…ごめん。」
頭をぽんぽんと撫でると、億泰はひどく困った顔で私を抱き締めた。
「そんなコト言うなよ…俺、からかわれてたとしても…ななこさんといるだけで嬉しいから…」
「…億泰が優しいからちょっと甘え過ぎた。」
身体を離すと、不安そうに腕を掴まれる。
置いて行かれそうな子供みたいな顔をして、彼は私の名前を呼んだ。
あぁ、しっかりしなきゃな…と、思う。
「日曜日までに元気出して、お礼するからさ。…デートしよう。」
「マジ!?…いいの?ホントに?」
嬉しそうな顔。ホントに単純なんだなぁと感心してしまう。好かれていることに悪い気はしないけど、もっと純粋で可愛い子の方が、彼には似合うと思う。
「マジ。…だからさ、今日のことは忘れて。」
「え、何で?やだよ。…せっかくななこさんがかわいーのに。」
キョトンとした顔で、ひどくあっさりと拒否される。っていうか、可愛いってなんだ可愛いって。
「面倒な女の相手させただけだと思うんだけど…」
「…俺が嬉しいからいーんだよ。…難しく考えすぎだっての。」
難しく考えすぎだと言われたら、そうかもしれない。本当は悩む必要なんてないんじゃないかと思わせる、あっけらかんとした笑顔。
「…億泰。」
「ん?…っむ…ぅ…」
抱き寄せて、口付ける。
びっくりした顔も可愛くて好きだ。
「…元気出た。ありがと。」
彼に似合う女の子像を考えるより、私が彼のどこを好きか考える方が簡単だった。
シンプルに考えたら、人生は意外と楽しいのかもしれない。
prev next
bkm