「女王様とお呼び!…みたいでしたよね。」
夕暮れが影を伸ばす頃、コーヒーの湯気とともに吐き出されたセリフ。
緩やかに流れる時間にあまりにも不釣り合いなそれに、ぼくは耳を疑った。
「どうしたんだ君は急に。頭に蛆でも沸いたのか?」
訝しげな様子を意にも介さず、あっけらかんとななこは言う。
「いや、露伴先生がさー、『なら僕のことは先生って呼べよ』って言うから。何かに似てる気がしてずっと考えてたんですけど…SMクラブの女王様だ!と思って。」
いやまて、きみは女王様を知ってるのか?
ぼくの疑問はそのまま口から出ていたようで、ななこはそんなわけないじゃん!とけらけら笑った。
「ね、露伴先生。なんであんなこと言ったの?」
先生と呼べ、なんて確かに初対面の相手には言わない。だが
「目の前に制服姿でぼく好みの女子高生がいて、その上ぼくのファンだと。それで先生と呼ばせないなんてそれこそ頭がおかしいと思わないか、なぁななこ?」
「えー、私が呼び方に困ってたから助けてくれたんじゃないんですか?」
ぷぅ、と不満気に頬を膨らませる。
可愛い。が、今ぼくはつい本音を…。
慌ててななこを見るが、特段気にした様子もないので安心した。むしろ「もしかしてツンデレですか?せんせーツンデレ!」などときゃっきゃしている。僕は断じてツンデレじゃあないがな!
初対面の時のこと、と言われて思い返してみる。たしか康一くんや仗助たちと一緒に来て…
艶やかな黒髪を一つに束ねて、キメの細かい肌を惜しげもなく晒した夏服。
伏せがちな瞳を彩る睫毛は影が落ちるほど長くて、引き結ばれた唇は紅で、すぐにでもスケッチしてやりたいほどの美少女だ!と思ったんだった。
ななこが言うには、呼びあぐねていたところぼくが「ならぼくのことは先生って呼べよ」と大人の余裕でサラッと助け船を出した…らしい。
本当は、この美しい少女とあんなことやこんなことをしている最中に『せんせ…ぇっ…』なんて呼ばれたい、と一瞬のうちに妄想が膨らんだだけだが、黙っておくとする。
「…せんせ?どうしたんですか?」
僕が黙ってしまったせいか、不思議そうに覗き込んでくる。紅い唇が思いの外近い。
「なぁ、ななこ。個人授業をしよう。」
「どうしたんですか?急に。授業って…漫画の?」
初めて会った時の、あの妄想を思い出したせいだ。夕焼けが染めているだけのななこの頬が、妄想の中の上気した姿と重なる。
「いいや、オトナの、だ。」
この妄想を現実にするべく、手を伸ばす。
夕日の射し込む部屋に、先生と生徒。
シチュエーションとしてはまぁ悪くない。
「あ、の、せんせ…っ…!」
引き寄せて抱き締めれば、制汗剤とシャンプーの匂い。
すれ違い様に時折香るそれが、今はぼくを包んでいるという事実に興奮する。
悟られないように大きく息を吸い込んだ。
「…柔らかいな。」
溜息交じりに出た言葉に、ななこの身体がびくりと跳ねる。
「…あ、の…ろはんせんせ…?」
おそるおそる声を出すななこ。
戸惑いはあれど、嫌悪は含まれていないそのトーンに安心する。
「大切なのはリアリティだ。」
そうだ。妄想にだってリアリティは必要だ。これはぼくの妄想に必要な行為だ。
誰にでもなくそう言い訳をして、唇を重ねた。
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bkm