馬鹿騒ぎ
77 重たい鎖を解いて降ろして*
「あの女の手がかりを絶対に喰ってやるって決意してたんです。」


嗚咽交じりの汚い声でやっと出てきた言葉に、ラックさんは「一度、落ち着きましょうか。」そう言って、これまで入ったことのなかった部屋のソファの所にわたしを連れてくるとどこかへ行った。わたしはシンプルなつくりのソファの上でひざを抱えてうずくまった。抱えたひざに額を押し付ける。目を瞑るとやってくる深い闇の中、誰のものかわからない血の臭いが離れない。それは甘いような気さえしてしまうほど、嫌悪感も曖昧になるくらい嗅ぎ慣れてしまった。少しでも気を付くと頭の中で繰り広げられる自分のものではない他人の記憶を追体験するように眺めては、虚無感と喪失感で胸がいっぱいになった。

わたしは、…いや、正しくは"僕"が恐怖で思考回路がめちゃくちゃになってくのがわかる。誰か、たすけて。なあ、どうして裏切ったの。不死の酒をちゃんと完成させようって誓ったじゃないか。兄弟の契りだって交わして、いつかあの女を見返してやるって。どうして。どうして。僕は研究に必要なかったの。『博士がいなくなって、自由になれた。』そう言ってたのに、何なんだよ。『博士に良い手土産ができた。』ってなんだよ。どうして、ナイフなんか、僕へ向け

ぶつん。

『っはあ、はァっ……!』

なんで。なんで僕は倒れてる?どうして、僕のほうへ血が波打ってやってくる?実験で、指を切ったりはしたことがあったけど、こんなに大きな怪我なん

ぶつん。

『っ…は…!』
『次が最後だ。グッバイ、アントーニオ。貴重なサンプルをありがとう。』
『な…んで、』

ぐちゃっ。

実験体のネズミを潰した時の音が自分の頭の中で木霊するなんて思ってもみなかった。意識が戻るたびに目を潰され、喉元を何かが掠め、眉間に何かが落ちてきた。兄のように慕っていたうちのファミリーの研究員は、真顔で手帳へ万年筆を滑らせている。でも、それを認識できたかと思えばやっぱり僕は意識を失った。こんなことってない。こんな目に合いたかったんじゃない。そのために不死の酒を飲んだんじゃないんだよ。抗争ですこしドジ踏んでしまった時とか、町で流行の病に勝つとか、そんなものでよかったんだ。それをお前も知っていたはずだろう。なあ、こんな辛い目を、お前から合わされるくらいならいっそのこと死んでしまいたかったよ。

『悲しいね。死ねないの、貴方。』

血塗れ姿の自分が短銃を片手に近寄ってくる。真顔でメモをとるあいつの姿はどこにもない。かわいそうなものを見るように血塗れの僕の顔を覗くわたしは「楽になりたい?」と気づけば聞いていたし、僕は実際楽になりたかった。辛いことなんてこのファミリーで生きてきてなにもなかったんだ。こんな死にそうなのに死ねないなんて辛い。この女が僕のすべてを終わらせてくれるんだと気づいたのは、短銃を投げ捨てて右手を伸ばしてきたときだった。潰されていた両目がようやく形作られてきた頃に、その右手は宛がわれた。本当に喰べるつもりだった目標は既にいなかったけど、何かを知っているだろうぼろぼろの青年。これを"楽にして"あげれば、何かしらを得られる。それは明確だった。宛がった右手ににやりとあがる口角。あがったのはわたしか僕か。飲み込んだ人間ひとつ分の情報量は、有益なものは少なくて。胸に残るのは、死へ向かう恐怖感と仲間からの裏切りへの孤独感だった。


『やっぱり、あの女だ。』


落ち着く居場所を求めてわたしの頭の中を蠢く記憶は、ある場所でカチリ。パズルのピースがはまったらしく、一人の女をこれでもかと記憶の中で強調させた。野暮ったい眼鏡をかけて、これまただぶついた白衣のような服を着ている女は、周りから"先生"または"博士"と呼ばれるだけで、名前はわからなかった。リリィを喰べたこの女は、ずっと酒の研究をしていることくらいしかわからない。アントーニオの持っている情報はとても少なかった。目的の研究員の男を喰えなくても、一緒にいたアントーニオを喰ってしまえばあの女に近づけるんだと思っていたのに。喰べたらわかると、見つかると思ったのに。だから、わたしは喰べたのに。

初めて人を喰べたあの日から、わたしは何人喰べただろう。女と研究していた男。アントーニオ。実験体にされていた女。人数は数えきれるのに、自分の中にある記憶体は混ざり合って、誰の物かもわからなくなっていく。その内、わたしなんかなくなってしまうんじゃないかな。ただの器になって、わたしという個体は見た目だけの人形のようになってしまうんじゃないかと、思う時がある。

「そうですね、」

隣りへ戻ってきたラックさんが柔らかなタオルケット越しにわたしを子供のように抱きかかえる。離れようとしても、細い見た目のわりにはがっちりと抱え込まれて、目元にはかたく絞った濡れ布巾を宛がわれた。つめたい。つめたいのに、あったかい。『お姉ちゃんがくるしそうだったからまねしたの』水を絞り切れてない、びちゃびちゃに濡れた布巾と、たどたどしい言葉遣い。ああ、喰べてもいないのにはっきり思い出せるの。どうしてだろうね。冷たかったはずの濡れ布巾が、自分の涙で生ぬるくなっていく。わたしの背中に回された骨ばった掌は、ゆっくり背をトン、トン、と静かに打っていた。

「……十年、」
「ええ」
「…十年と少しくらいしか、一緒じゃなかったんです。」
「はい」
「なのに、それなのに、あの子はわたしの全てでした。」
「…はい」
「化け物染みたわたしを無条件で慕ってくれたのはあの子だけでした。」
「……」
「不死者にならず、そのままでいてほしかったと思っていたのに。いざ失ってみれば、いっそのことわたしがあの子を喰べてしまえていたら。そうしたら、ずっとずっと一緒にいられるのに。喰えなかったことを後悔することなんかなかったのに。」

おかしい話だけれど本当のこと。わたしは喰べたかった。お腹が空いていたわけでもなければ、知識が欲しかったわけでもない。ただ、一緒にいたかっただけ。

「最初は、もう二度と会えなくなったことを悲しんでいただけのはずなのに。いつのまにか喰うことに囚われてました。絶対に、リリィを取り返すんだと、リリィを喰べたあの女を喰べてやるんだと。」

ねえ、わたしのあの思いはおかしかった?間違っていた?わからないの。喰えば喰うだけ自分じゃない誰かに埋め尽くされていって。リリィを喰べるのなら、あの子を喰った女を喰べることになる。もし成功したらわたしはどうなってしまうんだろう。何人の人間を抱え込めばいいの。そこにわたしの居場所はちゃんとあるの。わずかな疑問は徐々に膨れ上がっていき、初めの内は死に物狂いで探していたのに、ここ50年はどこか逃げていた。魔女(マスカ)という通り名が広まったおかげで、ただの殺し屋でいれた。それでももう一度わたしに思い起こさせたのは、シカゴの家のクローゼットから見つけた一枚の紙。いつ書いたのかわからないけれど、確かにわたしの字で、「わすれるな」と書いてあった。わすれてないよ。忘れられないよ。

「ねえ、リアさん。」
「……はい。」
「貴女は、その女を喰べてどうするつもりですか。」
「どう、って」
「貴女が大切にしていたその子はきっと、貴女にだったら喰べられてもいいって思っていたかもしれません。」
「……」
「だけれど、喰べられたくて不死を受け入れたんでしょうか」
「そんなわけ…ない」
「ただ貴女と幸せに、生きていきたかっただけなんじゃないでしょうか。」
「っ、それができたら…そうしてあげたかった。だからわたしは、」
「その女もろとも喰いたいと?」
「喰い、」

抱きかかえられていた体がそっと離され、両肩をつかまれる。目元から布巾が落ちて、視界が開けた。目に飛び込んできたのは悲しそうなラックさんの顔だった。いつもの少し吊り上がった目も下がっている。

「本当のこと、言っていいんですよ」

ラックさんの左手がわたしの頬を包んで、そっと撫でた。わたしのことなんて放っておいてくれたらいいのに、どうしてまるで自分のことのように、顔を顰めて、悲しそうにするの。

「……い」

あの子を喰べた女を喰ためにわたしの人生を捧げようと決めていた。女を探すために殺し屋をやって、たくさん人を殺した。もう覚えきれないくらい、命を奪ってきた。顔も思いだせない。姿も形も性別も。たくさん殺した。それらは思い出せないのに、右手を宛がうだけの行為はわたしの中に重い鉛を残していく。ねえ、あの女もセラードも、他の不死者のみんなも、誰かを喰べてから何とも思わないの?何も感じないの?

「わかんないんです」

喰べたかったんだ。
(人間なんて喰べたくない)
目の前からいなくなるくらいなら一生背負いたかった。
(他人の記憶と生きて行けるほどわたしは強くない)

「あの女を喰わなくちゃ、リリィが報われない。あの子を救えなかったあの日の自分を許せない!でもっ、…でも…喰べたくない。ほんとうは…喰べたくなんて、ないんですよ……!」

矛盾してることに気付いてしまった。喰べたくて、でも喰べたくない。どちらをとっても苦しいのはわかってる。だけど、どっちをとったらいいのかなんてわたしにはわからないんだ。

「すこし、休んではみませんか」
「やすむ…?」
「ええ。見つからない人を追うのはやめなさい、諦めなさいだなんてことは誰でも言えますし、もちろん、私だって貴女が苦しむくらいならそう言ってやりたい。けれどもね、例えば私の兄たちや部下、クレアさんやフィーロだったり、」

その人たちが同じ状況になったとしたらと思うと到底そんなことは言えません。申し訳なさそうに、ラックさんは肩をすくめてそう言った。

「一人じゃ、そのことばかり頭をよぎって辛かったでしょう。」

完全に一人だったわけじゃなかった。クレアと知り合ったり、ラリサさんたちと暮らしたりもしたり。誰かが近くにはいた。いたけれど、こうして、わたしの矛盾してる言葉をただ聞いてくれる人なんていなかった。辛いって、言える相手がいなかった。情けないくらいに目から涙が伝って、肩にかけられたタオルケットを濡らしていく。200年もこの人より長く生きているというのに本当に情けない。情けないけれど、同時に安心している自分がいた。

「私でよければこの先ずっと暇のお相手をしますよ」
「……ずっとってどのくらいですか」
「そうですねえ……貴女も喰べたくなくて、私も喰べたくない。ということはつまり…」
「つまり?」

「貴女が嫌だと言うまで隣りにいることになるでしょうね」


にやりとひと笑いしてから、ラックさんはわたしを抱き寄せた。抵抗しなかったのをいいことに、さっきよりもきつく抱えられる。それから、またゆっくり背中をトン、トンとあやすように打っていく。規則的なそれと、泣き腫らしてあつい目元のせいで意識がふわふわしてくる。あえてそれを狙っているのか、ラックさんは尚も続け、ゆっくりと声をかけてきた。

「200年も経って今さらかもしれませんが、ゆっくり考えましょう。私も知らないことがまだまだ多いですし、話す気になったらいつでも聞きます。だから、一人でどっかに行ってしまったりしないでくださいよ。」

まるで子守唄のようなそのやさしい声に、うつらうつらと船を漕ぐ。そういえばここの所ちゃんと眠れてなかったな。それからわたしは深い深い闇に意識が落ちて行った。だけど、不思議なことに、暗闇の中でうずくまっても無ければ誰かの記憶に邪魔されることもない。ちゃんと"わたし"があった。なんでだろう、嬉しくて、思わず顔が綻ぶ。

「おやすみなさい」

心地よい声がわたしを満たしていく。
夢も見ずにこのまま浮かんでいれたら素敵だな。

ありがとう、おやすみなさい。

ふわふわとあたたかい。

またこうして温かくいれたらいいなあ。だなんて、何だかそう思うのだった。

_77/83
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