馬鹿騒ぎ
76 永遠なんていらないの*
アツイ。アツい。あつい。暑い。喉の奥が焼けついたように痛い。穴だらけのぼろぼろになった靴に小石が入り込んでは足の裏を突き刺した。じくりと広がる痛みに体が強張った。それでも立ち止まることなんかできない。何度も刺さっては小石を抜いて、それからやってくる、皮膚の再生される感覚。抜いても抜いてもきりがない。穴を塞ごうにも何もなかった。穴を覆えるだけの布地も、焼け付く喉を潤す水も何もない。むしろ、足の裏の怪我のおかげで意識が飛ばずに歩き続けられているのかもしれない。いつまでこうして歩いていられるんだろう。早く、この荒れ地を抜けなくては。もう少し。もう少しのはずなんだ。だから、お願い。痩せ細った小柄な体をぎゅうっと握りしめると、少しおくれて柔らかく握り返された。ここはとても暑い。この子はもっと暑いはず。お腹が空いた。この子はもっと空いている。意識が朦朧としている。この子の方が意識が曖昧だろう。

「ど、して…」

どうしてわたしは、永遠の命なんて望んだのだろう。一緒に死んでしまえれば楽だったのに。こんなに苦しむのならいっそのこと、この子を――……

「…ちゃん、…ぇちゃん」
「…?…」
「お姉ちゃん、ってばぁ!」

とても眩しい。さっきまで暑かったはずなのに、今はそれほど暑くない。お腹もそこまで空いてない。リリィが頬を膨らませてわたしの目の前に仁王立ちしている。

「寝るならベッドに行きなさいって、いっつもお姉ちゃんが言ってるのよ!」

どうやらわたしはソファで居眠りをしていたみたい。夢見が悪すぎて、背中は汗で湿っていた。「ちょっと、眠っていただけよ」いまだ仁王立ちをしている妹分に声を掛けたけれど、それに対しての反応はほとんどない。無視するなんてどれだけ怒っているの、リリィ。また軽く声を掛けてみたのに何の反応も示さない。ああ、もしかしなくともこれも夢なのか。長い年月を経ても鮮明に思い返せるのは、それだけわたしにとって大切で色の濃い思い出だったからなのだろう。

「せっかく良いニュースがあるっていうのに、お姉ちゃん寝てるんだもん」

ぼすん、と派手な音を立てて、リリィがソファに勢いよく座った。夢の中で握りしめていた細くて小さな体を思い出すと、隣りに座る妹分の成長が感慨深かった。あんなに小さくて、死にそうなくらい痩せ細って、死の淵に立った貴女。不死者のわたしが、死に物狂いで守り続けた貴女。最初は親子ほどに差のあった背丈も今ではほとんど変わらない。人から見れば年の近い姉妹だと思われているかもしれない。そう。あと半年もすれば、リリィはわたしが不死の酒を飲んだ歳になる。

「わたしがお姉ちゃんと同じ歳になったらね、プレゼントをしてあげるの」

そばに置いていたクッションを手に取って、ぎゅうぎゅうに握りしめている。プレゼント?あげるのはわたしの方だ。成長を喜べるのは不死者のわたしじゃなく、普通の人間のリリィだ。

「とっておきの秘密をプレゼントしてあげる」
「秘密?」
「そう、秘密!」

秘密なんだから、寝起きにこっそり聞き出そうとしたりしても無駄よ。と悪戯っぽい笑顔で囁かれる。耳元のくすぐったさと、妹分の愛らしさに頬がゆるんだ。魔女狩りにあってから十数年。わたしがこの子をずっと守っていくのだと心に決めて生きてきた。老いることのないわたしの傍らで、ぐんぐんと成長していく妹分。大人へと育っていく喜びの反面、いつかはわたしの見た目も通り越して、姉と呼ばれるにはちぐはぐな絵面になってしまうほど大きくなってしまうのだろう。そうして、わたしを遺していなくなってしまうんだ。

「わたしたち、ずうっと一緒にいられるね」

子猫が甘えて母親に擦り寄るようにリリィも頬を寄せてきた。18になるのに、どこか子供っぽくて危なっかしい。わたしの大切なもの。すてきなすてきな宝物。永遠に続くこの人生のなかで、生きる意味を与えてくれた存在。リリィは永遠なんて持ち合わせていないのに、こうしてときどき 永遠の繋がりをを口にする。それはあの子の願望であって事実じゃない。本当は永遠なんてないんだ。ないからこそ、こうして口にするんだ。わたしたちの存在がおかしいだけ。

胸の奥がざわつく。これは夢だ。終わった事かもしれないし、はたまた別の、思い違いからできた記憶かもしれない。後者であってくれないと困るの。そうじゃないとわたしは、わたしは……。家中の扉という扉をすべて開いては覗き、リリィの名を呼んだ。返事はひとつも聞こえない。カチコチと不器用に動く古ぼけた時計は明け方の三時になろうとしていた。これは、あの子の13の誕生日に露天商人が売っていた中古の時計を大層気に入ったことから買い与えた。3と、6。それに9と12。それらを指す時間になると、色のぼけたハトが二匹飛び出してくる時計だった。

「どこへ行っちゃったの、」

わたしの問いに答えるように、二匹のハトがギギギギと鈍い音を立てながら飛び出してくる。2・3度鳴いてから、カチリ。無機質な音と共に時計の中へ戻っていった。リリィはいつまで経っても戻ってこなかった。何度ハトが飛び出しても、時計の中に戻っても。気配すら感じさせぬまま、まるで最初からそこにいなかったかのようにひっそりと消えた。わたしは現実と夢と、二度もあの子を失った。どうして?どうしていなくなった?何か不満だった?思い返せるあの子は、いつでもけらけらと笑っていた。

『秘密をプレゼントしてあげる』

プレゼントするまえにいなくなっちゃったら、どうしようもないじゃないの。とめどなく溢れる涙は、いつまで経っても枯れやしない。泣き疲れても、何も食べなくても死ぬことさえできない。緩慢な動きと吐きそうな空腹感に襲われるだけで、生命維持へ支障をきたすことはなかった。悲しい思いをするのなら、やはりあそこで死にたかった。泣いて暮らして数週間。水分も減って、ぱりぱりと乾燥してきた皮膚をつまむとつまんだ分だけ跡が残った。まるで老婆のような皮膚と、こけた頬を確かに目にしているのに、歩けているし、意識はある。この身体がとてつもなく憎くなった。いっそのこと誰かわたしを喰べてちょうだい。右手を額に宛がって。お願いだから。無理だとわかっているのに自分で自分の額に右手を置いて、「喰いたい」と呟いてみた。……なにひとつ代わり映えのしない、視界と意識に苛立つ。

がさりと鳴った音は、玄関から数枚の紙が差し込まれているせいだった。ゆるく気怠い足取りで、玄関へ向かう。その紙に書いてあったのは、住んでいる村の孤児院の子どもが数名、行方不明になっていることへの情報収集を呼びかけるものだった。やっぱり、あの子は何かに巻き込まれているのかもしれない。紙を握りしめたまま家から駆けだした。どこだ?あの子はどこにいるの?この子どもたちと一緒にいるの?孤児院へ向かおうと、森の中を駆けた。一度、足がもつれて転びそうになった。受け身をとろうとしたけれど、ろくに食べていない体は言うことを聞いてくれなかった。絡まるように転がって、木の根っこで肘を思いっきり擦りむいた。血がポタポタと垂れていく。久しぶりの痛みに、身が縮むようだった。肘を手で覆っていると、指の隙間から血がゆっくりと戻っていく。倒れ込んだまま、傷が塞がるのを待っていると、傍にある草むらが がさり と音を立てた。

「だ、大丈夫かアンタ…!どうした?怪我は…無いようだな。」

村の青年らしい男が急に現れて、わたしを抱き起した。傷が治っていくところを見られてはいけない。あとわずかで完治する肘をぎゅうっと握りしめた。

「なんでこんなに痩せこけてんだ?食いモンねーのかアンタ。…しょうがねえ、何か作ってやるよ。うちに来な。」

そんなことよりも、リリィを探さなくては。男の提案に首を振って断ると、男は「はあ?何言ってんだよ!」と声を荒げた。

「アンタ、どこの家のやつ?」

答えずに無言を通したかったが、下手に怪しまれたりなんかしたら更に離してもらえなくなるかもしれない。名乗るだけ、そう思い、この村へやってきた時に名乗った偽名を口にする。……はずだった。

「あ?」

声が出ず、ぱくぱくと空気を啄むだけのわたしの様子に男は不思議そうに首を傾げた。どうして。どうしてこの男には名乗れないの。もう一度偽名を名乗ろうとするが、また空気を飲み込むだけだった。まさか、この男……。

「声がでねえのか?」
「……っ」
「ん?何て?」
「……リア。リア・コストスよ」
「なんだ、声出るんじゃん」

さっきまで、空気を食むだけだった口から滑るように声が出た。わたしの喉が、脳がおかしいんじゃない。名乗れなかった。偽名をこの男に名乗ることができなかった。つまりこいつは…不死者だ。

「あんま聞かねえ名だなあ、あれか?はずれの方の部落に住んでんの?だったら、すげえ歩いて来たな。結構遠いだろうに」

この男はあの船に乗ってはいなかった。ということは、わたしたちとは別に悪魔を召喚して不死の酒を飲んだ奴らがいるということ。わたしの意識は、急にすうっと冷え込んだ。この男はわたしを死に追いやれる。さっきまで、死んでしまえたらなんて思っていたわたしの望みを叶えることができる。……なのに、どうしてこんなに恐ろしく見えるんだろう。

「ひとまず、メシを食おうか。そんなガリガリで…死にたくねえだろ、姉ちゃんよ」

死にたくない。

死にたくなんかない。不死を手に入れてから初めて、その言葉が脳内を支配した。これまで、リリィのために生きて来たつもりだった。実際はその思いの裏に自分の死への恐怖が残っていたんだ。それが、死ぬ可能性のあるこの状況下で蘇ってきただけ。わたしはやっぱり弱かっただけ。恐怖から逃れるためにすべきことはただひとつ。

「ありがとう」

抱きかかえてくれていた男の額に右手を押し付け、「喰いたい」と思い浮かべた。たしかにそこに人の温もりがあったのに、ふっと消えてしまった。代わりに、洪水のような記憶の塊が頭の中に押し寄せる。人の記憶を置いておくスペースなんて持っているわけがない。居場所を見つけて落ち着くまで、押し寄せ続ける記憶の波に飲み込まれそうになった。

「……リリィ……?」

男の記憶の中に見つけたのは、あの子だった。あの子以外にも孤児院の子供が何人か居る。子供たちに小さな小瓶を渡している自分の手、いや、男の手が視界に入る。それから時を経て、白衣を着た見知らぬ女がリリィの額に右手を宛がっている光景が脳内ではじけた。まるでそこには最初から誰もいなかったかのように、満足げな表情を浮かべる女だけが森の片隅で立っていた。
ねえ、どこから間違えていたのかな。そんな秘密はいらないよ。同じ存在になってほしかったわけじゃないのに。例え貴女が先に老いて、わたしを遺して逝ってしまうとわかっていても、そのままでいてほしかった。貴女には永遠なんていらなかったよ、リリィ。

やっぱり涙は枯れなくて。雄叫びのような声を上げたわたしは、夕暮れの森の中、まるで獣のようにひとり泣き続けた。




_76/83
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